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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

伊勢氏とはーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』は伊勢新九郎盛時を主人公としています。伊勢新九郎盛時は『北条早雲』として知られる人物です。出家後は早雲庵宗瑞と名乗り、「伊勢宗瑞」と呼ばれています。実際には「北条」を名乗ったのは彼の子の氏綱の代からで、彼自身は「北条早雲」と名乗ったことはありません。

 

彼は従来は永享四年(一四三二)生まれで永正十六年(一五一九)に享年八十八歳で死去とされ、活躍も老年に差し掛かってから、と大器晩成の人物のように思われてきましたが、永享四年については今日では叔父の伊勢貞藤の生年と混同している可能性が強いと考えられています。今日では康正二年(一四五六)生まれで享年は六十四歳と考えられています。

 

長らく「北条早雲」は下剋上の始まり、戦国大名の走りのような扱いを受けていましたが、近年では室町幕府の政所を支えた名門伊勢氏の庶流と見られています。

 

ゆうき氏の『新九郎、奔る!』は近年の研究動向を踏まえて若き「北条早雲」を描き出している漫画です。主人公伊勢新九郎盛時は、康正二年に伊勢氏庶流の備中伊勢氏のさらに庶流の伊勢備前守家に次男として生まれた、という設定です。父親の伊勢備前守盛定は伊勢氏宗家の伊勢貞国の娘の須磨と結婚し、須磨の兄の伊勢貞親の右腕として出世し、須磨との間に長男八郎貞興、長女伊都をもうけ、側室の浅茅(尾張国国人領主堀越公方の被官の横井掃部助時任の次女)との間に次男新九郎盛時、三男弥次郎をもうける、という設定です。ちなみに横井氏は北条時行の子孫を自称する家で、新九郎の子孫が北条を称するのもこの横井氏がらみという見解が有力です。

 

まずは新九郎の生まれた伊勢家とはどういう家なのか、見ておきたいと思います。

 

伊勢氏については第1巻77ページ、3巻の137ページ〜の「新左衛門、奔る!」で結構紹介されています。

 

伊勢氏の出自はよく分かっていません。伊勢平氏の流れを汲むとしていますが、詳細は不明というしかありません。とりあえず鎌倉時代末には足利氏の重臣の一人として上総国守護代を務めている記録があります。

 

康暦元年(天授五年・一三七九)に伊勢貞継が政所の執事となり、貞継以降の政所執事は代々伊勢氏の宗家が継承することとなります。

 

伊勢貞経が足利義教によって追放され、貞経の弟の貞国が政所執事に就任します。この貞国が貞親・須磨・貞藤の父です。そして盛定を引き立て、貞親の側近としています。

 

次の伊勢貞親は伊勢氏の中でもかなり有名な人物です。ちなみに定親は足利義政を幼少時から養育したような記述がしばしば見られますが、『新九郎、奔る!』5巻83ページに義政の台詞として「公家の邸で育てられた余に、武家のいろはから棟梁としての振る舞いまで教えてくれたのはそちだ」とあるように、実際は烏丸資任(からすまる・すけとう)の邸で育てられ、兄義勝の死後に畠山持国畠山義就の父)の仲介で貞親と義政の養育関係が決まったようです。

 

貞親は徳政一揆への対応で財政危機に瀕していた室町幕府を分一徳政令で建て直し、義政の信任を得て義政政権の中で大きな権力を掌握するようになりました。貞親のころにはそれまでは諸大名に分散していた各地の勢力との取次も伊勢氏に集中するようになり、伊勢氏の配下の活動が北東北でも見られます。

 

貞親は諸大名の家督にも介入し、義政政権の強化に尽力しますが、文正の政変で失脚、その後一旦は復活しますが、最後は再度の失脚を経て若狭国で死去します。この辺は『新九郎、奔る!』でも詳しく描かれています。

 

「天下の佞臣」とも呼ばれた人物ですが、作中では主人公の新九郎にも厳しくも優しい人物です。

 

貞宗は父貞親とは異なり、「天下の賢臣」と呼ばれ、人々の信頼を集めたと言われています。応仁の乱の収束や明応の政変に活躍し、幕府を延命した人物として知られています。作中では新九郎をしっかりと育成しています。

 

貞陸(さだみち)は作中では福寿丸として出てきます。明応の政変後には山城国守護を兼ね、山城の国一揆を制圧しています。

 

伊勢宗家は貞陸の子の貞忠の代に途絶え、伊勢貞藤の子孫から養子を迎えることとなります。

 

伊勢貞藤は貞国の次男で、貞親とは少し年齢差があります。伊勢氏は備中守を経て伊勢守になるのですが、一時備中守の官途は貞藤の義理の兄(姉の夫)の盛定が名乗っていました。

貞藤は新九郎の父という説もありましたが、『新九郎、奔る!』では新九郎の生母の浅茅の再婚相手となっています。

応仁の乱では西軍に属していたようで、その辺は本作でも描かれています。

 

伊勢貞職(いせ・さだもと)は貞藤の子です。本作では西軍の申次衆として登場します。新九郎が貞藤のもとにこっそりやってきて、山名宗全と碁を打つシーンがありますが、伊勢貞宗邸に戻ろうとする新九郎に対し「兵庫助殿(貞宗)に飼い殺しにされておると聞いたぞ」と新九郎の身の上を案じ「ここに住み着いたらどうだ?」と勧めています。

貞職の勧誘に対し新九郎が「私の帰りを待つ家来たちもいるのです」と断ると、そこに貞藤が出てきて「よくぞ申した、新九郎」「当主の覚悟をみせてもらったぞ!であるならば、二度とこのような危ないマネをするな」と釘を刺すシーンは貞藤の最高にかっこいいシーンです。

 

貞職の子の貞辰は足利義晴の申次衆となっていましたが、新九郎の子の北条氏綱鶴岡八幡宮を修理した時に義晴の使者として小田原に下向し、やがて自らと嫡男の八郎貞就は氏綱の家臣となり、次男の又三郎貞孝は伊勢宗家を継承することとなります。貞藤の子孫は伊勢備中守家として北条氏の評定衆を務めています。

 

貞孝は足利義晴政所執事として義晴政権を支えますが、義晴の子の義輝との関係が悪くなり、貞孝は三好長慶と組んで足利氏を見限ります。その後三好長慶足利義輝の連携に際しては六角義賢と組んだために義輝の京都制圧後には立場が悪化し、挙兵しますが松永久秀に討ち取られました。

 

貞孝の子の貞興は明智光秀に従い、山崎の合戦で奮戦、戦死します。その後の伊勢家は旗本として存続しました。

 

 

 


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