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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

細川勝元と山名宗全ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

足利義政が政治に不熱心、というのは後世の記述で、当時の記録を追っていく限り義政という人物は極めて権力欲の旺盛な人物ではあります。義政は季瓊真蘂や伊勢貞親を側近として将軍親裁政治を推し進め、それに対抗する細川勝元山名宗全連合と厳しく対立して文正の政変を引き起こします。

 

 

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少し『新九郎、奔る!』から外れますが、細川勝元山名宗全の関係について見ていきます。

 

応仁の乱の東軍と西軍の総帥同士という関係から、この両者は対立図式で見られがちですが、実際には20年以上にわたる強固な同盟関係を結んでいたのが実情です。

 

その辺の詳細は『新九郎、奔る!』第1巻でも描かれています。新九郎が細川勝元邸に出入りしているときに山名宗全と出会うシーンがありますが、そこでは新九郎は山名宗全の養女(山名一門の山名熙貴の娘、この経緯は第7巻130ページで語られています)で勝元の正室亜々子の話し相手となっている設定です。この過程で両者の関係が語られ,第7巻では宗全が勝元との関係を回想するシーンがあります。

 

宗全「亜々子か。あれは可哀想な娘でな。石見国守護家に生まれながら、実父の顔を知らぬ。三十年前か。普広院様(足利義教)が赤松満祐に弑殺された時、あれの父・山名熙貴もその場で斬り殺されてな。亜々子は産まれたばかりであったよ。儂は命からがら赤松邸から脱出したのだが、一門であり、まだ若かった熙貴を見捨てたような思いが去らんでな。熙貴の子らを盛り立ててやろうと胸に誓ったのよ。亜々子は三国一の婿に嫁がせてやりとうて我が宗家の娘としたのだ。そして幸いなことに、赤松邸から無傷で脱出した者ん鎌、管領細川持之殿には恐ろしく頭の切れる倅がいたというわけよ。」

 

細川持之については下記エントリで触れています。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

このようにして細川家と山名家の連携は成立しましたが、その背景には畠山持国の勢力の急速な拡大がありました。

 

足利義教守護大名家督争いに介入して散々恨みを買って最後は赤松満祐に殺害されるのですが、山名家も義教の介入を受けています。

山名宗全の父の時熙には宗全(持豊)と持煕の二人の子息がいました。義教は持煕がお気に入りだったのですが、時熙は持豊を推していました。しかし持煕が義教の勘気に触れて失脚し、持豊にお鉢が回ってきた、という事情があります。

細川持之は細川一門の統制がしっかりと取れていたこともあって義教の介入を受けることはありませんでした。

 

問題は畠山持国です。畠山満家の死後に持国と弟の持永との間で家督争いが起き、義教は持国を追放して持永を登用します。

 

嘉吉の乱で義教が殺された後に持国は政界復帰し、持之の死後には管領となって幕府政治を主導します。この時期には室町殿足利義勝が幼少だったため、幕府政治は持国が担当することになりましたが、それを後花園天皇日野重子がバックアップする体制となっていました。

 

その辺の体制については拙著『乱世の天皇』や『戦乱と政変の室町時代』第八章「禁闕の変」で述べています。

 

この持国主導の幕府政治に対抗するために落ち目となった細川家と山名家が連合したわけです。

 

禁闕の変では細川・山名が後花園天皇襲撃に参加している、という噂が流れたり(私見ではクロ)、持国も細川・山名体制を敵に回さないために禁闕の変後には赤松満政を犠牲にして細川・山名を懐柔したりしています。

 

しかし文正の政変のエントリでも述べたように、勝元と宗全の間には少し立場の違いが見え始めています。

 

この辺は第1巻110ページで勝元が「我が舅殿(宗全)は大名衆に担がれているうちにそんなことも判断できぬほどの馬鹿になられたか。馬鹿に政を託すわけには行かぬ故、ここは兵庫助殿(伊勢貞宗)に助け舟を出さねばなるまい」と言っています。この「助け舟」の結果、千代丸(新九郎)は細川家に出入りし、勝元の子をみごもっていた亜々子の話し相手とされる、という設定です。

この時亜々子のお腹の中にいた細川政元に新九郎は散々引っ掻き回されることになりますが、それはまたの機会に。

 

文正の政変後には関東管領の職が越後上杉氏から養子に来た上杉顕定に決まり、後花園上皇院宣が下され、また前々年に践祚していた後土御門天皇の大嘗会が執り行われています。

 

そのような「御目出度ムード」の中、畠山義就の上洛が戦乱を引き起こします。

 

畠山義就畠山政長の対立が応仁の乱の大きな要因となったことは間違いありません。それまで政長支持で一本化してきた細川・山名連合でしたが、宗全が義就支持に回ったことで両者の連合は崩壊します。

 

宗全は室町殿・室町殿後継者と上皇天皇を確保すると管領職であった政長を罷免し、畠山の家督も義就に切り替えます。一色触発の両者ですが、義政はこの両者の私戦であり双方への援助を禁止します。要するに「幕府はこの争いに関与しない」という宣言です。義政は両者の争いが本格的な戦乱になるのを回避しようとしたのでしょう。

 

勝元は正直に義政の指示に従い、政長への手出しを控えますが、宗全はそれを無視して義就に加勢し、政長・勝元を追い落としました。

 

私見ではこの時宗全は後花園上皇院宣を下され、政長を朝敵として攻撃したものと考えています。そしてこの時後花園上皇が決断した院宣による畠山の争いの決着は失敗し、いわば応仁の乱のトリガーを弾いてしまった、と考えています。私見では応仁の乱の最大の戦争責任は後花園上皇にあると考えます。この辺は拙著『乱世の天皇』で述べています。

 

作中では205ページで宗全の義就支持の理由が述べられています。

千代丸(新九郎)「舅殿(宗全)がなぜ婿(勝元)を陥れるようなことをなさいますか!?」

勝元「おおかた舅殿も、あのお歳になって、天下の権という物を握ってみたくなったのであろうよ。男としてそれはわかる。だがこちらの面目をつぶしたことだけは」

 

宗全が細川・山名連合を崩壊させたのは、作中に書かれている通りだと思われます。

 


新九郎、奔る!(1) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


戦乱と政変の室町時代

 

 


新九郎、奔る! 1 (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグ コミックス) [ ゆうき まさみ ]

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで [ 秦野 裕介 ]

 


戦乱と政変の室町時代 [ 渡邊 大門 ]