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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

畠山氏の内紛ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』の前半部の大きな山が応仁の乱です。

 

応仁の乱はなぜ起きたのでしょうか。教科書的には将軍家の後継者争い、細川勝元山名宗全の幕政の主導権争い、大名の後継者争いとされます。近年の研究では将軍家の後継者争いはきっかけではないとされ、勝元と宗全も対立関係よりも直前までの同盟関係の方が近年は強調されています。

大名のお家騒動の中でも決定的だったのが畠山政長畠山義就の争いでしょう。この争いの収拾に失敗し、応仁の乱が引き起こされるのは間違いありません。

 

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作中でも義就は「憎き政長めを討ち果たし」といい(第2巻6ページ)、政長(生きてた)は「それがしは義就ずれの首を見るまではとても勝った気にはなりませぬな」(同14ページ)と言っています。

 

彼らはなぜそこまで憎み合うのでしょうか。

 

原因は義就の父の畠山持国に遡ります。

 

畠山氏はもともとは鎌倉幕府創設の功臣の一人である畠山重忠が有名でした。この畠山氏は平姓です。平姓畠山氏の畠山重忠北条時政によって滅ぼされますが、その妻が北条時政の娘であったことから、その妻または娘が足利義純に嫁ぎ、畠山の名跡を継承することになります。ここに源姓畠山氏が始まります。

 

この畠山氏の本家は東北に移り、奥羽管領などを務めますが、南北朝時代に没落し、二本松を領する弱小領主となって、最後は伊達輝宗を巻き込んで伊達政宗に滅ぼされます。

 

庶家が足利義満の時代に台頭し、三管領の一角を占めるようになります。義就と政長の祖父に当たる畠山満家応永の乱で大内義弘を討ち取る武功を立てますが、足利義満に嫌われ、家督を双子の弟の満慶(みつのり)に交替されるという理不尽な扱いを受けます。

 

義満が死去した時、満慶は満家に家督と畠山宗家の領国である越中・河内・紀伊能登守護職を返上しますが、満家は満慶に能登守護職を与え、能登畠山氏(畠山匠作家)が創設されます。一方満家の系統は河内畠山氏(畠山金吾家)といいます。

 

満家は義持・義教の覚え目出たく重用され、またその信頼ゆえに義教に直言や説教をしばしば行っています。

 

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満家は永享五年(1433)に亡くなりますが、その死去を契機に義教の専制が始まるとすら言われています。義教にとって直言・叱責してくれる重要なブレーキ役だったわけです。

 

満家のあとは持国が跡を継ぎましたが、引き続き重用されていました。彼の運命が急転したのは永享十三年(1441)正月のことです。義教に滅ぼされた鎌倉公方足利持氏の子の春王丸と安王丸を擁立して結城氏朝が挙兵しました(結城合戦)。この時持国は義教の出兵要請を拒否、その結果畠山氏の重臣の遊佐国政と斎藤祐定が持国を引き摺り下ろし、持国の異母弟の畠山持永を家督にしました。持国は遊佐国政や持永母を恨みながら河内国に退きました。

 

ところが嘉吉元年(1441)6月、嘉吉の乱で義教が暗殺されたことで風向きが変わります。持国は上洛し、持永は越中に出奔しますが、閏9月には討たれてしまいます。

 

こうして持国が畠山氏の家督に復帰し、さらに嘉吉の徳政一揆禁闕の変を解決して義教派であった細川氏と山名氏を圧倒します。

 

持国の弱みはきちんとした身元の女性との間に子どもがいなかったことでした。そこで持永の同母の弟の畠山弥三郎持富を自分の後継者に指名しました。これによって持永騒動で分裂した畠山家中をまとめようとしたのでしょう。

 

しかしその目論見は持国自身の短慮によって崩壊します。

 

持国には実は子どもがいました。母は桂の「土用」という女性です。彼女は持国の他に小笠原氏や江馬氏との間に子どもをつくっており、家臣団としても彼女の産んだ持国の子どもが本当に持国の子どもであるのか、自信が持てなかったのでしょう。持国の唯一の実子は石清水八幡宮に出され、そこの社僧となる予定でした。

 

しかしその子が十二歳になった文安五年(1448)に持国はその子を召し出し、元服させます。彼が畠山義就です。

 

一方、持国の独断に対して被害者である持富は黙って身を引きました。後花園天皇や定房親王日野重子の信頼を獲得して幕政を取り仕切っている持国に抵抗してもいいことはないことを知っていたのでしょう。持富は異論をさしはさまず、二年後に死去しました。

 

持富の死後、神保氏らの家臣団は義就の家督に異を唱え、持富の遺児の弥三郎(政久という説と義富という説があるため、仮名で呼ばれることが多い)を擁立して挙兵、享徳三年(1454)には細川勝元山名宗全の支援を受けて義就を排斥、政久が畠山の家督となり、持国を隠居に追い込みました。

 

一方義政は義就を支援し、弥三郎を追放して義就を再び迎え入れます。その後持国が死去して義就が畠山氏の家督を継承しました。

 

義就は義政の寵愛を笠にきて大和国への勢力伸張を図り、義政の怒りを買います。そして義政は義就によって追放されていた弥三郎を赦免し、義就に圧力をかけます。弥三郎は赦免直後の長禄三年に死去しますが、弥三郎派の遊佐長直・神保長誠らは弥三郎の弟の政長を擁立し、義就と対決姿勢を強めます。彼らの背後には畠山氏の勢力を削ぎたい細川勝元山名宗全連合がありました。

 

長禄四年(1460)、義就は紀伊国根来寺との合戦に大敗し、義政に見限られ、後花園天皇の治罰綸旨が出されて朝敵となりました。その後は河内国嶽山城大阪府富田林市)に二年間立て籠り、細川・山名・政長を中心とする幕府軍と二年間戦いますが、寛正四年(1463)義就は敗北し、紀伊国に逃亡します。その半年後には義政の母の日野重子が死去したことに伴う大赦で義就は朝敵を赦免されますが、引き続き吉野にこもった状態が続きました。

 

寛正五年(1464)、政長は勝元から管領職を譲られます。政長の妻は京極持清の娘で、勝元の従兄弟に当たります。政長はいわば勝元による畠山氏支配のいい道具だったわけです。

 

一方このころ斯波義敏伊勢貞親と関係を深めて復権してきたことに伴って立場が悪くなっていた斯波義廉は義就の自陣への引き込みと義就・宗全の関係構築に動くと、畠山氏の内紛は一気に政局化します。

というのは、宗全はここまで一貫して細川勝元と歩調を合わせており、義就との連携は勝元・宗全関係の破綻を意味します。

 

文正の政変で伊勢貞親が没落し、その煽りを喰らって斯波義敏・季瓊真蘂・赤松政則が失脚すると、斯波義廉畠山義就陣営に山名宗全が加わり、その支援のもと、義就は河内から上洛してきました。これが文正元年(1466)十二月二十五日のことです。

 

作中第1巻172ページで義就が上洛し、山名邸に入ったことを蜷川親元から聞かされた伊勢貞宗は「ばかな」といい、「細川と山名は、割れるぞ」と危惧しています。

 

文正二年(1467)正月二日、宗全の支持を失った政長は畠山家督を奪われ、五日には管領職も罷免、完全に失脚しました。勝元・政長はそれを不服として正月十五日には御所巻(室町御所を取り囲んで威圧すること、このころには大名らが御所にやってくるだけのことが多い)を計画しますが、その計画を察知した宗全らは勝元・政長より早く室町御所を制圧し、さらに内裏から後花園上皇後土御門天皇を迎え入れることに成功しました。ここに勝元・政長陣営は行き詰まり、政長は明け渡しを命じられた邸を焼き払い、上御霊社に立てこもります。

 

作中では新九郎の兄の伊勢八郎貞興が「尾張守(政長)は死ぬ気だな」と言っています。上御霊社の祭神が「伊予親王早良親王井上内親王他戸親王」など、「政争に敗れて濡衣を着せられて憤死した方々だ。多分尾張守はそれらの御柱に己をなぞらえているんだ」と貞興による解説が続きます。

 

政長は「何年も大過なくなく勤めてきた管領職をさしたる落ち度もないのに罷免され、家督まで奪われ、それが昨日まで咎人だった右衛門佐(義就)に与えられたとあっては、尾張守ならずとも頭にはくるだろう」と貞興に同情されています。

 

こうして畠山氏の内紛は細川・山名連合を引き裂き、応仁の乱に続いていくのです。


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乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


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