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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

斯波義廉ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

三管領家の中で圧倒的に存在感のない斯波武衛家の続編です。前回は斯波義敏でしたが、今回はライバルの斯波義廉(しばよしかど)です。

 

 

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ただでさえ影の薄い斯波武衛家の、それも西軍とあって新九郎との接点はありません。第2巻6ページに畠山義就(よしひろ)を出迎えながら「見事な戦さ振りでござった!」と言っているシーンが初出で、あとは8巻143ページで斯波義敏・義寛(よしとお)親子に「ほれほれ、とっとと出ていかんかーい」と煽られているだけです。

それもこれは今川範満と新九郎との会話の説明です。

 

このように非常に影の薄い斯波義廉ですが、実在の斯波義廉も想像を絶する影の薄さです。何しろ、いつどこで死んだかすらわからない、という状況です。もっとも山名宗全の息子で西軍から東軍にいち早く離反し、東軍の主力として活躍した山名是豊も同様にいつ、どこで死んだかはわかっていません。

 

義廉について、渋川家からの養子という情報は比較的よく知られています。なぜ渋川家から養子を迎えなければならなかったのか、ということについては、当時の関東情勢を見ればわかります。

 

享徳の乱鎌倉公方足利成氏と室町公方足利義政は戦争状態に入り、義政は兄の天竜寺香厳院清久を還俗させ、政知と名乗らせて鎌倉公方に任命します。成氏と古河公方、政知を堀越(ほりごえ)公方と呼びます。

この辺の経緯は8巻127〜129ページに記されております。

 

堀越公方の最大の問題点は兵力がないことでした。対関東の兵力は越後上杉氏と駿河今川氏でしたが、それだけでは足りず、遠江守護の斯波武衛家にも出兵を命じます。

ここで問題が起きました。前エントリで説明したように、当主となった斯波義敏と家宰の甲斐将久が対立し、出兵できない状況に至りました。それに激怒した義政は義敏を更迭し、松王丸(後の義寛)に後を継がせます。

 

それを乗り越えて斯波家から朝倉孝景、甲斐敏光が派遣され、なんとか出兵の目処が立った頃、義政の必殺技「掌返しレベル10」が発動します。義政は堀越公方が独自の軍事的な力を持つことを恐れたのでしょう。政知を叱責し、堀越公方の軍事権を取り上げてしまいます。

この辺の事情は8巻139ページから140ページで説明されています。

 

斯波武衛家がそれではまずい、と考えた義政は、堀越公方足利政知の執事の渋川義鏡の子の義廉に斯波武衛家を継がせることとしました。

堀越公方の執事と斯波武衛家の家督が親子ということで、堀越公方の武力は大幅に整備されました。これは旨い手だ、と誰もが思うところですが、計算通りに世の中はすすみません。

 

渋川義鏡とともに政知を支えるべく関東に下った上杉教朝犬懸上杉禅秀の子)が死去します。病死とも自害とも言われていますが、このころ扇谷上杉氏の家宰の太田道真が隠遁し、子の資長(道灌)に家督を譲っています。義鏡による政治的陰謀の末と言われています。

 

さらに扇谷上杉持朝(相模守護・上杉定正の父)が義鏡に狙われ、大森氏頼(小田原城主)、三浦時高(三崎城主)らが引退に追い込まれ、義鏡による関東掌握が成立するかに見えましたが、ここで義政の必殺技「一貫しないことだけは一貫レベル10」が発動します。義政は持朝支持を表明し、義鏡を失脚させます。

 

義鏡を政知の側から遠ざけた以上は、義廉は無用の長物となりました。また急遽据えられた義廉は、奥州探題の大崎教兼との関係の構築も一から始めなければなりません。結局日野重子の死去の恩赦によって斯波義敏復権し、不利になった義廉は山名宗全を頼って義敏を推す伊勢貞親と対立、文正の政変の一要因となります。

 

その後は応仁の乱になだれ込み、義廉は顔を出さないものの東軍の猛攻を凌ぐシーンが第2巻56ページから58ページに記されています。緒戦で大内政弘が入京して圧倒的優位を築くまでの立役者です。

 

ちなみに義廉は政長の管領罷免を受けて管領についていますが、応仁の乱勃発後も管領を罷免されていません。この辺は2巻57ページのコマの下に「※驚くべきことに、将軍義政のいる東軍と敵対しているにもかかわらず、罷免されていないのだ」とあります。私は、この段階では後花園上皇後土御門天皇足利義政日野勝光が西軍への目配りも行っていたことと関係があると考えています。(拙著『乱世の天皇』)

 

斯波義廉は応仁二年(1468)に足利成氏との和睦に乗り出します。成氏との和睦を手土産に義政を取り込もうと画策しましたが、逆に義政の怒りを買います。義廉は斯波家家督と越前・尾張遠江守護そして管領職を罷免されてしまいます。(石田晴男氏『応仁・文明の乱』)

この辺の事情は第2巻192ページに書かれているとおりです。

 

しかし義廉には伊勢貞親からの朝倉孝景への切り崩し工作が行われ(第2巻91〜93ページ、第4巻130〜131ページ、第6巻118ページ)、孝景は西軍から東軍に寝返ります。さらに甲斐将久の嫡子で甲斐家をついでいた甲斐敏光の切り崩しにも成功し、斯波義廉はその存立基盤を失い、尾張国守護代織田敏広(織田伊勢守家)を頼って尾張国に下国しました。しかしそこも義敏と織田敏定(織田大和守家、清洲織田家)の攻撃を受けて勢力を失い、その後の消息は不明です。

 

ちなみに織田大和守家の一門で重臣だった織田弾正忠家から織田信長が出ています。義廉の子孫は越前朝倉家の庇護下に入り、鞍谷公方家を継承するという説もありますが、疑問視する見解もあります。(『管領斯波家』所収の佐藤圭氏の論文)

 


新九郎、奔る!(2) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(4) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(6) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(8) (ビッグコミックス)

 


応仁・文明の乱 (戦争の日本史 9)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで