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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

大内政弘ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する

ゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』解説、今回は「西軍最強のコンビにして乱の急先鋒!」と伊勢貞藤(新九郎の叔父で新九郎の実母の再婚相手、西軍の政所執事)に紹介されている大内政弘です。

 

西軍関係者であるがために新九郎との絡みはほとんどありませんが、7巻で新九郎が貞藤を通じて山名宗全に面会にいくシーンで出てきます。そこに畠山義就とともに現れますが、すぐに激昂する義就と対照的に落ち着いています。碁が佳境に達すると義就は政弘に「周防介殿(政弘)、しばしよろしいか」と声をかけ、「周防介殿はどう思う?」と問いかけますが、政弘は「今のところ互角」と呑気に返して「碁の話ではござらぬ!」と突っ込まれています。政弘は「入道殿(宗全)は敵に容赦ないお人だが、妙に人の好いところもある。伊勢守殿(貞藤)を通して堂々と乗り込んできた相手だ。入道殿の好みであろうよ。」と言っていますが、義就は新九郎を襲撃することを提案し、政弘もそれに応じています。

 

山名宗全の死後に山名政豊が細川聡明九郎(政元)と和睦した後にも抵抗し続けたのが義就と政弘で「俺たちは俺たちの戦をやるだけだ!なあ兄弟!」と義就に声をかけられ、「ああ。」と返事をするなど、西軍を最後まで支えた武将です。

 

政弘のハイライトシーンは実はそこではありません。応仁の乱の序盤の形成を決定づけた人物であります。

第2巻52ページから後の御由緒六家となる荒川又次郎と在竹三郎が登場するシーンです。御由緒六家については以下のエントリをご参照ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

そこで備中国荏原から上ってきた両名が政弘の軍勢について説明しています。

 

荒川又次郎「道中ではぐれましたが、無事であればあと二・三人は。なにしろ備中は三方を山名の分国で囲まれております故・・・」

在竹三郎「船が使えればよかったのですが。」

八郎「船は使えなかったのか?」

又次郎「船はだめです。一度海沿いの道を行こうと考えたのですが、とんでもないものをみてしまいまして。」

八郎「何を見た?」

又次郎?「瀬戸内の海を東に向かう大船団です。西軍に加勢する大内周防介(政弘)の軍勢です!」

又次郎「道中で耳にしたところ、船は五百隻、軍兵の数二万とも三万とも。」

三郎「なにしろ海が見えません。船が七分に海が三分!」

八郎「海が三分ぅ!?」

 

この話は瞬く間に東軍に広まり、足利義視を恐慌に陥れます。勝元は政弘が到着するまでに決着をつけようと現状最も手強い斯波義廉を排除するための猛攻を開始しますが、義廉は耐え抜き、宗全は「ここを耐え切ればもう間もなく、大内勢数万が天兵の如くこの地に下ろうぞ!」と期待をし、政弘が入洛した時には「勝ったぞ〜っ」と雄叫びを挙げています。

 

そもそも大内氏とはどんな大名だったのでしょう。

 

大内氏で有名なのは最後の当主の大内義隆でしょう。

 

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戦国IXA大内義隆Copyright © 2010-2021 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

イメージとしては「文弱に流れ」とか「陶晴賢に裏切られ」とか、あまりイメージはよくありません。

 

政弘はこの義隆の祖父にあたります。『新九郎、奔る!』はよく知られた戦国大名の祖父の世代です。北条氏康の祖父の新九郎や今川義元の祖父の今川義忠(新九郎の姉の伊都は義元の祖母)などですね。

 

大内氏は本姓が「多々良」という見かけないものとなっています。伊勢盛時は「平盛時」、足利義政は「源義政」と名乗る場合、政弘は「多々良政弘」と名乗る、という具合です。代々周防国で周防権介の官途名乗りを世襲した在庁官人ということが明らかにされています。逆に言えばそれ以外はわかりません。ちなみに「在庁官人」とは国衙(国の役所)で実務に携わった現地の有力者のことです。

 

大内義弘のころに百済王の子孫を自称し、朝鮮との密接な関係を作り上げていきます。実際「多々良」という本姓を見ると、案外製鉄などの技術を日本に伝えた百済からの渡来人の末裔だったかもしれません。

 

南北朝時代の大内弘世の代に南朝方として台頭し、後に北朝に転じて周防・長門に勢力を広げ、大内義弘の代に九州にも関与していきます。

この辺は久水俊和氏の編による『「室町殿」の時代』(山川出版社、二〇二一年)の中で述べられています。

 

大内義弘は応永の乱足利義満と戦い、戦死します。その後幕府方に転じた大内弘茂(義弘の弟)は義弘からあとを託された盛見(義弘の弟)と戦い敗北、盛見は幕府の赦免を勝ち取ります。

こう見ると大内氏は最初からかなり幕府に対して貸しを作っています。盛見は幕府の信頼を勝ち得て九州への介入を強めていきます。幕府としても強大な勢力が昔から蟠踞する九州の支配を任せた九州探題のお守りを大内氏に任せた方が楽ということで、大内氏に九州の支配を任せます。

 

盛見はそれで九州の大勢力の少弐満貞・大友持直・菊池兼朝らの恨みを買って奇襲攻撃を受けて殺害されました。

 

盛見の死後は義弘の息子の持盛と持世の争いを制した持世が大内氏家督となり、足利義教のお気に入りとなりますが、嘉吉の乱で義教の相伴衆として赤松邸で殺害されました。

 

持世の死は朝鮮にも大きな衝撃を与えたようで、『朝鮮王朝実録』では大内殿と日本国王足利義教)が赤松を討とうとして逆に殺された、と記され、その記述は親日派の申叔舟の『海東諸国紀』にも踏襲されています。

 

大内氏百済王の子孫を自称したことは朝鮮王朝からも好意的に把握されており、義弘は朝鮮に所領を要求しています。その後も挑戦王朝とは友好関係を結び、日朝貿易の要となっています。

また九州探題のお守り役として室町将軍の直轄となった筑前国の代官となって博多を抑え、日明貿易にも関与します。こうして大内氏は明や朝鮮との関係を元に巨額の利益を上げていきます。

 

大内氏は少弐氏との対抗上、驚天動地の申し入れを行っています。

 

大内氏対馬は朝鮮王朝の固有の領土です。出兵して占領してしまってください。私も協力いたします。対馬を挟み撃ちにしてしまいましょう」

朝鮮王朝「大内殿が負ければ別にそれで何事も起こらないが、下手に教弘に勝たれると対馬を失った少弐教頼らは倭寇化してややこしいことになるなぁ。断ろう」

 

というわけで大内氏による対馬の朝鮮王朝への併合計画はあっけなくつぶれました。この辺の経緯は村井章介氏の『中世倭人伝』(岩波新書、一九九三年)に書かれています。なおここでの「大内殿」を村井氏は大内教弘としていますが、須田牧子氏は大内持世としています(須田氏『中世日朝関係と大内氏東京大学出版会、二〇一一年)。

 

持世の後を継いだ教弘(盛見の子)は嘉吉の乱で大内持世とともに殺害された山名熙貴の娘で宗全の養女となった女性と婚姻し、政弘をもうけています。

 

この関係、どこかで見たことがありますね。そうです。細川勝元の妻です。作中では「亜々子」として細川勝元正室細川政元の母となる人物です。つまり細川・山名連合と歩調を合わせていくべき人物だったのです。

 

しかし瀬戸内の権益をめぐって教弘は勝元と対立します。伊予国河野氏の内紛に手を突っ込み、同じく伊予国の掌握を目指す勝元と対立することになります。教弘は勝元と犬猿の仲だった伊勢貞親を頼りますが、伊予国に出陣中に病死しました。

 

教弘の後を継いだ政弘は斯波義敏の亡命を受け入れるなど、伊勢貞親との連携を目指したようですが、文正の政変から勝元と宗全の決裂後には宗全に与して大軍勢を率いて上洛することになります。

 

政弘が大軍を率いて上洛できたのは、大内氏が博多を押さえて利益を上げていたことが大きいと考えられます。

 

しかし領国では叔父の大内教幸(道頓)が東軍に属して政弘に反旗を翻し、京都では守護代の陶弘房が応仁の乱最大の合戦となったと言われている相国寺の戦いで戦死するなど、それなりに苦労もしています。

 

宗全死後には総大将の足利義視は政弘のもとに移動しています。

 

文明8年(1476)9月には政弘は義政の和睦勧告に応じ、文明9年10月には足利義尚から四カ国(周防・長門筑前豊前守護職を安堵され、11月には出京し、応仁の乱は集結します。

その背景には補給拠点の兵庫を東軍方の赤松政則らに攻撃されたこともあり、長期間にわたる在京は大内氏に大きな負担となったこともあります。陶弘護の力が増して大内氏の力を凌ぐ下剋上の可能性も出てきており、いつまでも粘るわけにはいかない、という事情がありました。政弘としてはとりあえず伊予国の河野通春の赦免を勝ち取って河野氏への影響力を保持すれば、瀬戸内海を押さえることができますので、そこの条件闘争を勝ち取った、ということでしょう。

 

第8巻・第9巻で中心となる今川義忠戦死が文明8年2月のことなので、『新九郎、奔る!』ではまだ応仁の乱は終わりそうもありません。

 

その後の大内氏ですが、政弘は大内氏権力の再編に乗り出し、また足利義尚の六角氏征伐には家臣を、足利義稙の六角氏征伐には自身が二度目の上洛を果たしますが、やがて病に倒れます。

 

政弘の子の義興も明応の政変で失脚した足利義稙を支え、明応の政変で義稙を追放した細川政元死後には義稙を奉じて上洛、細川高国と協力しながら10年にわたって在京し幕府を支えました。

 

それによって大内氏は周防・長門筑前豊前のみならず安芸・石見・山城の守護職に任じられ、大内氏は最盛期を迎えることとなります。

またこのころに寧波の乱が起こり、大内氏日明貿易から細川氏を排除して独占することとなります。

 

義隆は大内氏の最盛期を引き継ぎました。大宰大弐に任ぜられ、少弐氏を滅ぼし、肥前の有力国人龍造寺胤信に偏諱を与え隆信と名乗らせ、安芸の国人毛利元就の嫡男と三男にも偏諱を与えています(毛利隆元小早川隆景)。

義隆は自身を頂点とした官僚組織を作り、領主的な重臣たちの勢力を抑制することで中央集権制を作ろうとしましたが、重臣たちの反発を買って大寧寺の変陶隆房に背も滅ぼされてしまいました。

 


新九郎、奔る!(7) (ビッグコミックス)

 


新九郎、奔る!(2) (ビッグコミックス)

 


「室町殿」の時代: 安定期室町幕府研究の最前線

 


中世倭人伝 (岩波新書)

 


中世日朝関係と大内氏