龍王、のちの今川氏親ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する
『新九郎、奔る!』第10集から龍王についてです。
この第10集は今川義忠戦死後の家督争いがとりあえず終結し、義忠従兄弟の今川新五郎範満が家督を相続、駿府の館に入ったところから始まります。
小川の長谷川次郎左衛門政宣館に身を寄せた伊都(義忠正室、新九郎の姉の北川殿)と龍王(義忠嫡男)の命が狙われ、新九郎は伊都と龍王を京都に連れて行くことになります。
この話、全くのフィクションとは言えません。
1487年に義忠娘(作中では亀)と正親町三条実望の婚姻が行われています。駿河からわざわざ上洛してくるとも考えづらいためにそもそも義忠娘、そしてその母や弟(つまり伊都や龍王)は当時京都在住だった、と黒田基樹氏は推定しています。作中ではこの説をもとに話を構成しています。
そしてその年、新九郎らは範満打倒の兵を挙げるのです。
ここでは上洛した龍王の様子がその後の伏線となっている可能性を見ておきたいと思います。
龍王が上洛し、祖父にあたる伊勢盛定(伊都や新九郎の父)に面会するシーンです(60ページ)。
そこで龍王は「ぐらあぐらあ」と揺れています。何かあまり身体が頑健そうにも見えません。健康そうな描写の亀との違いが際立ちます。さらに亀はつねに龍王をさりげなくサポートしています。
史実では今川氏親は19歳に至るまで「龍王丸」の名前を使い続けています。色々と説はあるものの、元服が何らかの事情で遅れたことは事実のようです。さらに23歳まで花押を使っていません。国内事情か、足利政知との関係かわかりませんが、氏親本人の状態の可能性もないではありません。
彼は54歳で死去しますが、晩年は寝たきりとなっていたようで、妻が国務を代行していました。妻は寿桂尼です。そして氏親の死の3年後、母親の北川殿(伊都)も亡くなります。年齢的には十分生きていますし、検地や分国法を制定し、遠江を斯波氏から奪還し、三河国まで力を伸ばすなど、今川家の戦国大名化を強力に推し進めた人物ですが、どこか虚弱というイメージも拭えません。
また彼は母と妻が京都出身ということもあって京都文化に通じており、今川義元に代表される京都びいきの戦国大名の基礎を作り上げた人物でもあります。
分国法である『今川仮名目録』は氏親死去の直前なので実際には寿桂尼や北川殿が関係したのではないかと考えられます。
寿桂尼です。
今川家関係の女性は長生きで、彼女も息子の義元の死を見届けています。