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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

等持院の動画のおまけ

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ざっくり言うと「室町時代って今人気あるよね」という話です。

私が大学生だったころはむしろ鎌倉時代とかの方が研究が進んでいて室町時代はほとんど惣村とかそういう社会経済史、社会史とかの方が進んでいる印象がありました。今は明らかに中世後期が人気なようです。

 

中世後期といっても織田信長をはじめとする戦国時代関係は昔から人気はあったので、ここでいっているのは室町時代です。

 

もっとも戦国時代の研究も私が学生の頃はそれほど活発ではなかったようなイメージがあります。

明智光秀・木下秀吉連署状

明智光秀と京都、という突如始まったシリーズです。

ネタ本は藤田達生福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』(八木書店、2015年)です。

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明智光秀: 史料で読む戦国史

 

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 今回は題の通りに明智光秀と木下秀吉の連署状を二通読みます。山崎の合戦(天王山の合戦)の当事者二人が一緒に仕事をしていたのも何かの縁です。

 

まずは3号文書です。奥野高広『織田信長文書の研究』189号文書です。

 


OD>織田信長文書の研究 上巻

 


OD>織田信長文書の研究 下巻

 


OD>織田信長文書の研究 補遺・索引

 

では見ていきます。

  猶以定納四百石宛ニ相定候也、以上

 城州賀茂庄之内、自先々落来候田畠、雖為少分、任御下知旨、賀茂売買之舛にて毎年四百石宛可運上、并軍役百人宛可有陣詰之由、得其意候、聊不可有如在事肝要候、恐々謹言

 四月十四日    〈木下藤吉郎〉秀吉(花押)

          〈明智十兵衛尉〉光秀(花押)

賀茂庄中

 読み下しです。

城州賀茂庄の内、先々より落とし来たり候田畠、少分たりといえども、御下知の旨に任せ、賀茂売買の舛にて毎年四百石ずつ運上すべし、ならびに軍役百人ずつ陣詰あるべきのよし、その意を得候、いささかも如在あるべからず事肝要に候、恐々謹言

なお以って定納四百石ずつに相定め候なり、以上

 意味です。『織田信長文書の研究』を最大限参考にしました。

山城国の(春日社領)賀茂庄のうち、前々より隠してきた田畑は少ないとはいっても、御下知の通りに賀茂売買の舛で毎年四百石ずつ運上すべきことと、同時に軍役百人ずつ陣に詰めさせることを理解した以上はいささかたりとも怠らないことが肝要です。

なお定納は四百石ずつに定めました。以上。

 この文書は永禄十二(1569)年に出された、と考えられています。前年九月に織田信長足利義昭を擁して入京し、大和国まで制圧します。信長の入京の時に春日社領の賀茂庄がいわば悪質な所得隠しをしていたのですが、それを信長が摘発して四百石を納入させ、さらに信長に対して軍役を務めることを余儀なくされます。

ちなみに「御下知」の主体は織田信長か、足利義昭か、という問題がありますが、私はとりあえず足利義昭ではないか、と考えておきます。

 

この辺は渡邊大門『明智光秀本能寺の変』(ちくま新書、2019年)に詳しく述べられています。

 


明智光秀と本能寺の変 (ちくま新書)

 

 

ところが十二月、トラブルが起きます。

9号文書「明智光秀書状」です。こちらは『織田信長文書の研究』にはありませんが、早島大祐『明智光秀』(NHK出版新書、2019年)の60ページに詳細に紹介されています。

 


明智光秀: 牢人医師はなぜ謀反人となったか (NHK出版新書)

 

当郷軍役之請状此方ニ在歟之由候、其砌取乱無到来候、若以後自何方出候共、可為反古候、将亦対両人被下候御下知之写遣之候、不可有疑心候、恐々謹言

 十二月十一日   〈明智十兵衛尉〉光秀(花押)

   賀茂惣中

読み下しです。

 当郷軍役の請状、此の方に在る歟の由に候、其の砌、取り乱し到来無く候、もし以後何方より出し候へ共、反古たるべく候、はたまた両人に対し下され候御下知の写はこれを遣し候、疑心あるべからず候、恐々謹言

 現代語訳です。早島氏の著作には非常に詳しく行間まで入り込んで解釈されていますが、こちらではあっさりと直訳でいきます。

当郷軍役の請状がこちらにあるのか、ということですが、ここのところ取り乱していたので(私の)手元にはありません。もし以後にどこからかその請状が出てきた場合にはそれは無効です。また両人(光秀・秀吉)に対し、下された下知の写しをそちらに送ります。信用してください。

 これは賀茂庄が提出した請状が紛失し、その弁明を光秀がやっています。「到来なく」と言っている以上は、紛失したのは光秀や秀吉ではなさそうです。

早島氏は義昭と信長の混成軍(光秀が義昭の、秀吉が信長の)だったため、いろいろ混乱があり、その後始末を牢人上がりの足軽衆の新参者(光秀)と「ハゲネズミ」と信長から評される貧相な若手の下っ端に押し付けられたものとしています。そして「疑心あるべからず」というのは、謝罪にやってきた二人がそもそも本物かどうかすら怪しかったので「証拠を見せろ」と詰め寄ったことへの弁明としています。

 

賀茂庄の住人から詰め寄られる光秀と秀吉、この二人がのちに「天下分け目の天王山」を戦うことになろうとはその場にいただれもが想像しなかったでしょう。

 

ただ、3号文書ですでに秀吉と光秀は賀茂庄の人々と関わりがあるわけで、厄介ごとを押し付けられた、というよりも以前から担当者だった、ということを考えると「疑心あるべからず」の内容は、「反古たるべき候」というところにかかるのではないか、という気もしています。

正親町天皇の生涯ー天正四年正月一日〜十二月晦日ー訂正版

「言経卿記」を「言継卿記」と混同していたので訂正しました。

 

天正四年
正月
一日、四方拝
御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任
四日、千秋万歳、五日、また同じ
御湯殿上日記、言継卿記(正月四日・五日)
五日、叙位を停止
続史愚抄
七日、白馬節会を停止
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記(正月八日・十四日)、続史愚抄(正月八日・十四日)
十五日、三毬打
御湯殿上日記、言経卿記
十六日、踏歌節会
続史愚抄
十七日、鵠包丁御覧
御湯殿上日記、言経卿記
十九日、和歌会始を延引
御湯殿上日記(正月十五日・十九日)、言経卿記(正月十六日)
二十四日、貝合、のち又このことあり
御湯殿上日記(正月二十四日・五月二十六日)
二十八日、誠仁親王の御所に行幸
言継卿記(正月二十三日・二十八日・二十九日)、御湯殿上日記(正月二十九日)
二月
七日、看経あり、のち数このことあり
御湯殿上日記(二月七日・十日・十一日・十二日・三月七日・十日・十二日・四月十日・十一日・十二日・五月十日・十一日)
八日、春日祭延引
続史愚抄
十日、泉涌寺長老参内、受戒
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
二十六日、小御所において楽会始、箏の所作あり
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
三月
六日、女房舞
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
十九日、内侍所法楽和歌会
言継卿記、言経卿記、御湯殿上日記
二十七日、春日祭追行
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記、公卿補任
この日、庚申待、十炷香
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
四月
二日、蹴鞠、二十一日、また同じ
言継卿記(四月二日・二十一日)
四日、内侍所法楽楽会、箏の所作
御湯殿上日記(四月二日・四日)、言継卿記、言経卿記
七日、後柏原天皇聖忌、伏見般舟三昧院において経供養、この日禁裏で看経
御湯殿上日記
十一日、これより先廷臣に和歌明題抄を書写せしめしが、この日、その一部竟る
言継卿記(四月九日・十一日)言経卿記(二月三日・四月九日・四月十一日・二十二日・二十五日)
十九日、歌舞の興あり
御湯殿上日記
二十二日、摂津国柴島法花寺の霊宝を召して叡覧
言経卿記(史料編纂所本)
二十三日、山科言経を召して六条八幡宮縁起、融通念佛縁起を読ましむ
言経卿記(史料編纂所本)
二十九日、禁中屋根葺
御湯殿上日記
五月
一日、山科言経に祇王縁起を見せしむ
言経卿記(史料編纂所本)
七日、右大将織田信長の出陣祈祷のため、石清水八幡宮法楽楽会、箏の所作
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
この日、来たる十六日より五壇の護摩を所々において修せしむ
御湯殿上日記
十二日、右大将織田信長の出陣祈祷のため、この日より七日間、清涼殿において不動護摩を修せしむ
言継卿記(五月十二日・十三日・十四日・十五日・十八日)、言経卿記(五月十二日・十三日・十四日・十五日・十六日・十七日・十八日)
二十三日、この月の祈祷に大般若経のことを若王子に仰せ付ける
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に代官詣
御湯殿上日記
二十八日、不予
御湯殿上日記、言継卿記(六月二日、四日)
六月
四日、延暦寺六月会を停止
続史愚抄
十一日、これより先、天変あり、よってこの日、安倍有脩に勘文を上らしめる
言経卿記(六月十日・十一日・十二日・十五日)
十二日、看経、のち又このことあり
御湯殿上日記(六月十二日・九月五日)
十四日、祇園御霊会
言継卿記、言経卿記(六月七日・十四日)
二十五日、北野社法楽当座和歌会
言継卿記(柳原本)(六月二十四日)、御湯殿上日記
七月
七日、七夕節。和歌会並びに楽会
御湯殿上日記(七月七日・八日)、言経卿記(七月四日・五日・七日)
十日、受戒
言経卿記
十二日、お囃子
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
言経卿記
二十三日、来たる八月二日、故権大納言四辻季遠の忌み日により香典をその子権中納言公遠に賜う
御湯殿上日記、公卿補任
二十六日、飛鳥井雅敦に源氏物語夕霧の巻を書進せしめる
御湯殿上日記
八月
四日、別殿行幸
言経卿記
二十一日、聖護院准后道澄に源氏物語の夢浮橋の巻を書写せしむ
御湯殿上日記
二十五日、蹴鞠、のち数このことあり
言経卿記(八月二十五日・九月六日・八日・十五日・二十一日・二十二日)
九月
五日、後奈良天皇の聖忌、この日泉涌寺長老を召して受戒
御湯殿上日記
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記(九月二日、九日)、言継卿記(九月三日)、言経卿記(九月九日)
十三日、観月当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記、言経卿記
十一月
十三日、神泉苑池を修理再興せしめ、東寺に天下泰平を祈らしめる
続史愚抄
二十一日、右大臣九条兼孝左大臣に、内大臣一条内基を右大臣に、権大納言織田信長内大臣に任ず
言継卿記、言経卿記、兼見卿記(十一月二十一日・二十三日)、公卿補任
十二月
十五日、興福寺維摩
言継卿記

明智光秀と京都

古文書入門に変わる企画の史料講読です。

朽木家古文書はとりあえずネタ切れを起こしましたので、一旦終了して、しばらく大河ドラマ麒麟が来る』便乗企画として明智光秀文書を見ていきたいと思います。ただ現物の文書はないので、ここでは主として読み下しと出来ればその文書の解説をしてみたいと思います。光秀の京都の文書を全部やってしまったらまた朽木家文書の写真版を使ってやっていきたいと思います。

 

私事ですが、京都時代の明智光秀について見ていかなければならないので、その準備を兼ねています。

 

基本的には藤田達生福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史』(八木書店、二〇一五年)を使用しています。

 


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 まずは一つ目です。朝山日乗・村井貞勝明智光秀連署状です。

 

公方様御台様 御座所近辺寄宿停止之旨、被仰出候、万一莵道角之族申仁於在之者、記挍名急度可有注進候、為其如此候也

二月廿九日  〈明智十兵衛尉〉光秀(花押)

       〈村井民部少輔〉貞勝(花押)

       〈日乗上人〉朝山(花押)

近衛殿御門外

同五霊図師町人中

 

この文書は『増訂織田信長文書の研究』補遺十五号文書です。そこでは読み下しもあります。

 


OD>織田信長文書の研究 補遺・索引

 

公方様御台様御座所近辺に寄宿停止の旨、仰せ出され候、万一兎角の族(ママ)申す仁これ在るにおいては、交名を記し、きっと注進あるべく候、そのためにかくの如くに候なり

現代語訳です。

公方様(足利義昭)御台様御座所近辺への寄宿を停止する旨を仰せ出されました。万一いろいろなことを申す人がいた場合は、その名前をリストに載せて報告しなさい 。そのためにこの通りである。

 問題は「御台様」が誰か、ということです。

 

『増訂織田信長文書の研究』補遺・索引では「御台所」を「信長御台」としています。これは195号文書に「公方様并信長御台」と書いてあることが根拠で、そう言われるとそういう気もしますが、問題が近衛家周辺で起こっていることを考えれば、足利義輝の御台の可能性も残されていると思います。

 

とりあえずこんなところで。続くかどうかは未定。

等持院の動画

そうだ 京都、行こう」便乗企画です。

今回は等持院です。

 

京都市北区にある臨済宗天龍寺派の寺院です。足利将軍家菩提寺として知られています。足利将軍家の木造で有名ですが、現在は九州国立博物館にあります。霊光殿の修理が終われば帰ってくるはずですが、当分このままでしょう。

www.kyuhaku.jp

 

初代足利尊氏から七代足利義勝まで

www.youtube.com

八代足利義政から十五代足利義昭までと足利三代木像梟首事件

松平容保ファンの人や幕末維新の勤皇の志士に関心のある方にも興味の持てる内容です。

www.youtube.com

等持院へは嵐電(らんでん)が便利です。四条大宮駅・西院(さい)駅から嵐山(らんざん)本線で帷子ノ辻まで、そこから北野線へ乗り換え、等持院駅下車です。バスならば市バス10系統、26系統で等持院南町下車か、JR西日本バスで等持院南町下車がわかりやすいですが、他に立命館大学前から立命館大学を突っ切って同大学南門を出ればそこが等持院の裏です。

 

randen.keifuku.co.jp

 

醍醐寺の動画

ユーチューブのご案内です。

醍醐寺についての動画です。

醍醐寺の座主となった文観・三宝院興隆の祖にして政僧の賢俊・黒衣の宰相と言われた満済を中心に取り上げています。室町時代を知るためにはこの三人を知ることは非常に有益です。

 

www.youtube.com

www.youtube.com

 

醍醐寺のサイトです。

www.daigoji.or.jp

 

御室仁和寺の動画

ユーチューバーの秦野です。

 

最近アップされている動画を貼り付けておきます。

 

そうだ 京都、行こう」便乗企画で、京都の社寺をディープに解説するシリーズです。

第一回目は御室仁和寺です。

 

動画へのリンクです。

 

www.youtube.com

 

www.youtube.com

吉田兼好はいなかった、という小川剛生氏の中公新書兼好法師』を取り上げています。結論から言いますと、私もこの本の結論に関しては今の所同意です。

 

これからこのブログでもリンクを貼り付けることにします。

これは十一月七日に録画された動画です。

 

仁和寺へは京福電鉄嵐山(らんざん)本線(通称嵐電(らんでん))が便利です。四条大宮駅・西院(さい)駅から帷子ノ辻(かたびらのつじ)駅で北野線に乗り換えます。「御室仁和寺駅」という非常に趣のある駅があります。

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randen.keifuku.co.jp

そこで下車すれば便利です。

 

仁和寺のサイトです。

www.ninnaji.jp

ついでに御室から社名のついた企業です。

www.omron.co.jp

こんな商品もあります。私も所有しています。

 


昭和の駅舎シリーズ 嵐電 御室駅 with対向ホーム (Ver.2.5) 組立キット