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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

2018-01-01から1年間の記事一覧

『看聞日記』における足利義教ディスについて3

今回は「履薄氷之儀恐怖千万」です。永享九年二月九日です。 原文を挙げておきましょう。 公方三条へ渡御。仍棰三荷、鯉一喉、菱食一遣之。毎度為佳例遣之。西芳寺坊主参。御茶〈廿〉献之。対面給扇。康富参。御読書如例。抑東御方三条へ御共被参。御雑談之…

享徳二年正月一日〜十二月晦日

享徳二年正月一日、四方拝、御薬供、元日節会師郷記、続史愚抄五日、叙位師郷記、続史愚抄七日、白馬節会師郷記、続史愚抄八日、後七日御修法、太元帥法東寺執行日記。続史愚抄十一日、県召除目延引続史愚抄十六日、踏歌節会師郷記、続史愚抄二月一日、別殿…

『看聞日記』における足利義教ディスについて2

『看聞日記』には足利義教の暴政が数多く残されています。貞成親王は義教には散々お世話になっているはずですが、しっかり書かれています。 今日はそのうち「万人恐怖」を取り上げたいと思います。 この言葉が発せられたのは永享七年二月八日条です。原文を…

『看聞日記』における足利義教ディスについて1

意外と人気の高い『看聞日記』。荒ぶる足利義教をしっかりと描いているので義教ファンにとって最高の書物です。満済の『満済准后日記』もあるのですが、なんせ義教は満済の前ではおとなしいですから。また満済もオブラートに包む名人で、なかなか本音を出し…

九州南朝方の中心ー征西将軍宮懐良親王

征西将軍宮懐良親王といっても知らない方も多いのではないでしょうか。 懐良親王は後醍醐天皇の皇子です。第何皇子かはわかりません。なんせたくさんいますから。1329年生まれですから、かなり下の方です。後醍醐天皇の皇子の中でも没年はかなり遅い方の…

後花園天皇をめぐる人々ー貞常親王

後花園天皇の弟宮です。 貞成親王と後花園天皇の親子関係というのはかなり複雑だったと思います。『椿葉記』で「実の父母を大事にしなさい」ということを著書一冊丸々使って述べています。しかし後小松院が存命中にそんなことができるはずもなく、そもそも『…

相応院新宮のこと

『看聞日記』に「相応院新宮」という皇族が出てきます。「南方上野宮御子」と割注がついています。永享五年十二月二十日条です。 相応院新宮〈南方上野宮御子〉、自公方侍所ニ被仰付搦申。門主ハ御室ヘ被入申。其間ニ侍所門跡ヘ参取申懸縄云々。御形儀悪物之…

「日本通史の決定版」発売に便乗してみる

日本通史の決定版と銘打った本が大評判(いろんな意味で)。 ここは一発『天皇紀』でも執筆して儲けるか。 というわけで出版企画書を書いてみた。 (最後のオチは立命館アジア太平洋大学の学生さんはわかるんじゃないかな。基本は最後のオチにつなげるネタで…

「正統」思想はいつ始まったか

「正統」(しょうとう)思想は室町時代特有の皇位継承原理です。 天皇系図を幹と枝葉で区別し、幹を「正統」とし、枝葉を非「正統」の天皇と区別し、「正統」の天皇の子孫が永続する、と考えます。 もちろん皇位継承がスムーズに行われている場合は「正統」…

「正統」について

北畠親房の主著「神皇正統記」をこのブログを読んでいらっしゃる方の多くはご存知だと思います。読みが「じんのうしょうとうき」であることもここで改めて書く必要もないとは思います。 この書名は「神皇」の「正統」を記すために南朝方の重鎮の北畠親房が書…

称光天皇の重病に際しての後小松上皇と足利義教の交渉

称光天皇が重病に陥ったのは正長元年七月六日の夕方です。万が一のこともある、と典薬頭の丹波幸基(『満済准后日記』では「行基」)が報告しています。八日には小倉宮(後亀山天皇皇孫)が逐電しました。十一日には管領畠山満家が義教の意向を満済の下に持…

後花園天皇をめぐる人々ー一休宗純

いわずとしれた一休さんです。♪「好き好き好き好き好き好き」の一休さんです。テレビアニメが懐かしいです。 一休が後小松天皇の落胤である、というのはどの程度信ぴょう性があるのか、と言う問題ですが、島津氏のご先祖が源頼朝の落胤である、というよりは…

後花園天皇の生涯−宝徳四年(享徳元年)正月一日〜十二月晦日

宝徳四年正月一日、四方拝、御薬供、元日節会師郷記、清贈宗賢卿記、続史愚抄二日、御薬供、殿上淵酔師郷記、続史愚抄三日、御薬供師郷記、続史愚抄七日、白馬節会、別殿行幸師郷記、続史愚抄八日、後七日御修法、太元帥法東寺執行日記、続史愚抄十一日、県…

後白河天皇聖忌の意味

宝徳三年三月十三日は後白河天皇聖忌ということで長講堂で御経供養が行われ、後花園天皇の側近の坊城俊秀(嘉吉の乱の綸旨の奉者)が派遣されています。 どの天皇の記念日を取り上げるか、というのは極めて政治的な意味合いを含みます。そもそも全ての天皇の…

後花園天皇の生涯−宝徳三年正月一日〜十二月三十日

宝徳三年正月一日、四方拝、御薬供、元日節会師郷記五日、叙位師郷記七日、白馬節会師郷記八日、後七日御修法、太元帥法東寺執行日記、続史愚抄十一日、県召除目延引続史愚抄十六日、踏歌節会師郷記二十九日、内侍所御神楽追行、昨年末五体不具穢による師郷…

後花園天皇の生涯−宝徳二年正月一日〜十二月三十日

宝徳二年正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会康富記、師郷記二日、御薬供、殿上淵酔康富記、師郷記三日、御薬供師郷記五日、叙位延引康富記、師郷記六日、叙位を追行康富記、師郷記七日、白馬節会康富記、師郷記八日、後七日御修法、太元帥法東寺執…

常盤井宮恒興王への親王宣下

宝徳元年十月二十三日、『康富記』には次のような記載があります。 今夜法親王宣下也。勧修寺宮令蒙此宣給。太上法皇之御養子也。実者常磐井宮御子也。元令任大僧都給云々 彼は諱を恒興といい、1431年に直明王の第二王子として生まれ、1509年に遷化…

後花園天皇の生涯−文安六年(宝徳元年)正月一日〜十二月三十日

文安六年正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会出御、敷政門院のことにより国栖歌笛停止師郷記、続史愚抄二日、御薬供、殿上淵酔は停止師郷記三日、御薬供師郷記五日、叙位師郷記七日、白馬節会、出御、但し立楽を停止師郷記八日、後七日御修法、太元…

後花園天皇、やってしまいかける

永享十年のことです。 足利義教が桜の枝を後花園天皇に献上しました。 後花園天皇はそれに対して「御製」(天皇自作の和歌)を贈ります。 すゑとおき 八百万代の 春かけて 共にかざしの はなをみるかな それに対して義教からは次の二首が返ってきました。 す…

嘉楽門院の父親

嘉楽門院は後花園天皇の下臈で、後土御門天皇の生母です。彼女は室町時代のシンデレラです。 藤原孝長という地下の家の娘として生まれた彼女は和気郷成、後にその子の保家の猶子となり、さらに大炊御門信宗の猶子となって後花園天皇に召され、寵愛を受けます…

敷政門院の病

『看聞日記』(かんもんにっき)と言えば、室町時代に関心のある人ならば必ずどこかで関わっているはずの日記です。このブログでもしばしば言及していますが、もう一度復習しておきますと、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王の日記です。しばしば「看聞…

後花園天皇の生涯ー文安五年正月〜十二月

文安五年正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会、出御康富記、師郷記、続史愚抄二日、御薬供、殿上淵酔康富記、師郷記三日、御薬供康富記、師郷記五日、叙位康富記、師郷記七日、白馬節会、雨儀、出御康富記、師郷記八日、後七日御修法、太元帥法康富…

穢について

この年の後花園天皇の生涯については穢(けがれ)の問題が二回出てきます。 閏二月二十七日、軒廊御卜(こんろうのみうら)が行われます。これは吉田社が「五体不具穢」となったためです。 これはネット上ではまた間違いが散見されるのですが、意味は身体の…

後花園天皇の生涯ー文安四年正月一日〜十二月三十一日

文安四年正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会建内記、師郷記二日、殿上淵酔、上戸に出御、天覧、御薬供建内記、師郷記三日、御薬供建内記、師郷記五日、叙位建内記、師郷記、続史愚抄七日、白馬節会、出御建内記、師郷記八日、後七日御修法、太元帥…

後花園天皇をめぐる人々ー足利義政3

足利義政と後花園天皇の関係について、です。 義政が無能だったのはほぼ争うところがないのですが、廷臣としては有能だった、という意見もあります。実際、彼は後花園院政における院執権を務めていたのでその見解は正しいでしょう。 ただ、寛正の飢饉の時に…

後花園天皇をめぐる人々−足利義政2

足利義政に対するイメージって、どんなものでしょう。 無能、無気力、趣味に生きた人、人に抑圧されて自分のやりたいことをできなかった人、文化・芸術を大成した人。 なんとなく義政は政治に関心がなかったようなイメージがあります。 しかしそれは「全部嘘…

後花園天皇をめぐる人々−足利義政

後花園天皇といえばこの人を外すわけにはいかないでしょう。足利義政です。 しばしば無能ぶりが注目される人物です。私は以前その見方はおかしいのではないか、と疑問を持ち、いろいろ調べたことがあります。 結果は・・・ 無能としか言いようがありませんで…

明皇帝の使節と面会した後花園天皇関係者

永享六年八月五日、『看聞日記』にこういう記事があります。 早旦御乳人内裏へ帰参。今日唐人室町殿へ参。可猿楽仕云々。御乳人も可見物由被仰。仍忩出京。 明皇帝の使者の雷春が来日し、義教を日本国王に冊封する手続きが行われたのですが、その時に猿楽を…

小倉宮からの献上品

永享七年八月二十五日のことです。 『看聞日記』に次のような記載があります。 自南朝小倉殿、後朱雀院、後三条院両代之宸筆御記二合、室町殿へ被進。則内裏へ被進云々。 以上の短い文言ですが、「南朝小倉殿」とは、後亀山天皇の孫の小倉宮聖承です。後花園…

文正元年の政情不安について2

応仁の乱の直前に起きた政情不安についてですが、震源地が斯波武衛家であるらしいことは前回少し書きました。 若くて当主が次々と死んでいった斯波武衛家ですが、若い当主の後見として一門の大野斯波家から斯波持種がやってきますが、もう一人後見していたの…