『看聞日記』における足利義教ディスについて2
『看聞日記』には足利義教の暴政が数多く残されています。貞成親王は義教には散々お世話になっているはずですが、しっかり書かれています。
今日はそのうち「万人恐怖」を取り上げたいと思います。
この言葉が発せられたのは永享七年二月八日条です。原文を上げます。
山門事是非不可沙汰之由被仰。而煎物商人於路頭此事申間召捕。忽刎首云々。万人恐怖莫言々々。
「煎物商人」は上の画像および次の記事をご覧ください。左側の人です。
中世日本の移動式カフェ!? 煎物売(せんじものうり)とは【狂言のなかの職人・商人 1】 | サライ.jp|小学館の雑誌『サライ』公式サイト
義教は山門(比叡山)をめぐる事件の是非についてあれこれしてはいかん、と通達を出したのですが、「煎物商人」が路頭で話していたので捕らえられ、首を刎ねられた、という事件です。
貞成親王自身は山門騒動の一件についてこの直前で「社頭以下無為、天下大慶也」と述べているので、特別に義教をディスっている、というわけでもありません。
「万人恐怖、言う莫かれ言う莫かれ」というのは、「おーこわ、言うたらあかんな」という感じでしょうか。
ちなみに山門騒動については下記のサイトが詳しいです。もとが『大津市史』ですから信頼ができます。
さらに詳しく見たければ下記の本が読みやすくていいでしょう。最近出ている室町時代のマンガの本よりはよっぽどしっかりしています。何と言っても今谷明先生の監修です。しっかり監修なさっているのと、作者の石ノ森章太郎先生もしっかりと勉強なさっています。このマンガは監修が例えば村井章介先生とか、第一線の研究者が監修していたので安心して読めます。通史を知りたければこのマンガをお勧めします。場所をとりますが。
マンガ 日本の歴史〈21〉土民、幕府をゆるがす (中公文庫)
全巻セットはこちら。
で、山門騒動ですが、ざっくりまとめます。
幕府は比叡山延暦寺の統制のために山門使節と呼ばれる組織を設置し、山門の衆徒をコントロールするとともに梶井門跡や青蓮院門跡に将軍家の子弟を入れ、彼らを天台座主に据えます。足利義教も前職は青蓮院門跡で天台座主でした。
その山門使節の中で仲間割れが発生します。光聚院猷秀という山門使節が仲間から追放されます。事情はわかりません。ところが彼は幕府と太いパイプがあり、幕府のゴリ押しでちゃっかり復帰します。彼は幕府の威光をバックにやりたい放題、山門使節があまりのひどさに猷秀と、かれと癒着した飯尾為種、赤松満政を訴えました。
義教も猷秀はさすがにかばいきれなかったのか、三人を処分します。それに調子付いた山門側はこの時に同調しなかった園城寺を焼き討ちします。あれ?これって山門側、悪くね?
義教は満済や細川持之の静止を振り切って比叡山に軍勢を差し向けます。これは半月でカタがつきますが、よく年、関東公方足利持氏と通謀の噂が流れ、義教は比叡山への本格的な軍事行動を決意します。
近江守護六角氏と京極氏による封鎖が実施され、坂本焼き打ちが実行され、使節は音を上げて降伏します。
義教は彼らを赦免し、再任すると偽って呼び寄せるとやってきた使節の首をことごとく刎ねます。その時の様子は「公方悦喜快然、中々無申計云々」ということでした(『看聞日記』永享七年二月四日)。
貞成親王のもとにも「御太刀可献」という御達しが来てあたふたしながら太刀を用意して三条実雅を通じて献上しています。
八日、風呂上がりにくつろいでいると内裏の後花園天皇のもとに行っていた世尊寺行豊が帰ってきて根本中堂が炎上した事、座禅院以下が中堂に立てこもって自焼きし、腹を切ったこと、噂をしてはならない事、それを破った商人が首を刎ねられたことなどを報告してきました。
後花園天皇が口の軽い親父を気にして送ってきたのかな、という気がしないでもありません。