2018-09-01から1ヶ月間の記事一覧
この年の後花園天皇の生涯については穢(けがれ)の問題が二回出てきます。 閏二月二十七日、軒廊御卜(こんろうのみうら)が行われます。これは吉田社が「五体不具穢」となったためです。 これはネット上ではまた間違いが散見されるのですが、意味は身体の…
文安四年正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会建内記、師郷記二日、殿上淵酔、上戸に出御、天覧、御薬供建内記、師郷記三日、御薬供建内記、師郷記五日、叙位建内記、師郷記、続史愚抄七日、白馬節会、出御建内記、師郷記八日、後七日御修法、太元帥…
足利義政と後花園天皇の関係について、です。 義政が無能だったのはほぼ争うところがないのですが、廷臣としては有能だった、という意見もあります。実際、彼は後花園院政における院執権を務めていたのでその見解は正しいでしょう。 ただ、寛正の飢饉の時に…
足利義政に対するイメージって、どんなものでしょう。 無能、無気力、趣味に生きた人、人に抑圧されて自分のやりたいことをできなかった人、文化・芸術を大成した人。 なんとなく義政は政治に関心がなかったようなイメージがあります。 しかしそれは「全部嘘…
後花園天皇といえばこの人を外すわけにはいかないでしょう。足利義政です。 しばしば無能ぶりが注目される人物です。私は以前その見方はおかしいのではないか、と疑問を持ち、いろいろ調べたことがあります。 結果は・・・ 無能としか言いようがありませんで…
永享六年八月五日、『看聞日記』にこういう記事があります。 早旦御乳人内裏へ帰参。今日唐人室町殿へ参。可猿楽仕云々。御乳人も可見物由被仰。仍忩出京。 明皇帝の使者の雷春が来日し、義教を日本国王に冊封する手続きが行われたのですが、その時に猿楽を…
永享七年八月二十五日のことです。 『看聞日記』に次のような記載があります。 自南朝小倉殿、後朱雀院、後三条院両代之宸筆御記二合、室町殿へ被進。則内裏へ被進云々。 以上の短い文言ですが、「南朝小倉殿」とは、後亀山天皇の孫の小倉宮聖承です。後花園…