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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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毎週木曜日にオンライン歴史講座の講師をしております。

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 当ブログは浅野陣屋札座保存ネットワーク様の旗本浅野家若狭野陣屋に残る札座の保存運動に賛同しております。

 

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毎週木曜日には浅野陣屋札座ネットワーク主催のオンライン日本史講座に向けてのお知らせを毎週土曜日、月曜日、水曜日にアップします。

金曜日には木曜日の講座の内容報告をアップします。

 

更新スケジュール(予定)

木曜日:オンライン講座本番

金曜日:オンライン講座の内容報告

土曜日:次回講座の予告1

日曜日:後花園天皇の生涯

月曜日:次回講座の予告2

火曜日:古文書入門

水曜日:次回講座の予告3

木曜日:後花園天皇ノートほか

 

 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

yuusukehatano617◆gmail.com(◆の部分を@に変えてください)までお願いします。

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民明書房刊『嘉吉の乱』のおしらせ(4月1日です)

四月一日恒例の行事です。民明書房から出版する著書のご案内です。
足利義教が赤松満祐に暗殺された嘉吉の乱はかなり有名な戦乱で、その原因から結末まで結構はっきりわかっている。嘉吉の乱で出された後花園天皇の綸旨についても田村航氏や桃崎有一郎氏によって言及されている。何より森茂暁氏やさらには今谷明氏によってしばしば論じられ、桜井英治氏、石田晴男氏など多くの一般書も出されている。
 
本書では足利義教の人生を辿り、赤松満祐や細川持之などの大名や足利持氏との絡みはもちろんのこと、後花園天皇貞成親王後南朝の人々にとっての嘉吉の乱についても一段掘り下げて叙述した。
 
特に誤解されがちな足利義教の人生を、最新研究動向をもとに丁寧にたどり、彼がなぜ赤松満祐に殺されなければならなかったか、を解明する。しばしば「精神疾患」「人間性」に回帰されがちな彼のパーソナリティを丁寧に解きほぐしていきたい。例えば強引な家督継承をお気に入りの登用と評価されることも多いが、実際にはそれほど自分の都合のいい人物を押し込んだ、とは言い切れないことが多く、当時の家督継承の難しさをもう一度考え直す必要がある。
 
目次案
はしがき
第1章 足利義教の誕生
1 出家にいたる人生
2 青蓮院門跡として
3 兄との軋轢
4 義円を支えた人々
第2章 赤松満祐
1 赤松義則の子として
2 赤松家の抱える問題
3 春日部家と大河内家
4 赤松持貞事件
1 崇光皇統の没落
2 伏見宮家と後小松院政
3 転がり込んだ皇位
第4章 足利義教の政策
1 朝廷政策
2 裁判制度
3 関東および遠国政策
4 南朝政策
第5章 大名への家督介入
1 相次ぐ宿老の死
2 後花園天皇の自立
3 諸大名への家督介入
4 比叡山炎上
5 赤松満祐の鬱憤
第6章 嘉吉の乱
1 義教の「凶暴化」
3 守護大名の粛清
4 関東滅亡
5 将軍犬死
6 赤松討伐
7 嘉吉の徳政一揆
第7章 禁闕の変
1 護正院と護聖院宮
2 三種の神器奪われる!
3 三種の神器の奪還
4 赤松家の末路
 
民明書房以外で機会があればお知らせいただければありがたいです。一応新書レベルを想定しましたが、『民明人物シリーズ 足利義教』のような企画でもいけます。
 
ちなみに民明書房は『魁!男塾』に出てくる架空の出版社です。念の為。
 

室町時代の歴史2 応仁の乱

室町時代を中学受験生に教える時に南北朝時代の次はいきなり応仁の乱です。あとは勘合貿易倭寇です。応仁の乱については教え出すと常にややこしいのが応仁の乱の時の人間関係です。

具体的にいいますと、日野富子足利義尚足利義視と対立して最初は東軍:足利義視、西軍:日野富子足利義尚だったのが、逆転して東軍:日野富子足利義尚、西軍:足利義視となることです。

 

しかしこのややこしい話の元凶である日野富子暗躍説が学界で批判され始め、伊勢貞親による文正の政変の話を入れるととたんに分かりやすくなります。すでにゆうきまさみさんの『新九郎 奔る!』でも採用されていますが、応仁の乱でお困りの塾の先生方もこれを利用すればいいのではないでしょうか。ということで別ブログのリンクを貼っておきます。

 

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ご笑覧ください。そして参考書の執筆の話などあればぜひお願いいたします。

正親町天皇の生涯ー天正八年正月一日〜十二月晦日ー

お久しぶりです。一つ仕事が終わったため、このブログを再開します。もう一つのブログはこの三日間無人です(汗)。こちらはありがたいことに更新が止まっても、見に来てくださる方が一定数いらっしゃいます。お礼申し上げます。

 

正親町天皇の生涯の天正八年分です。誠仁親王が病気に倒れています。たった一人の皇位継承者ですから神経を使います。幸い快癒しています。このころどうやら正親町天皇はメンタル的にも不安定で、信長との交渉にはしばしば誠仁親王が立っています。信長の信頼も厚かったらしい誠仁親王の存在は、老境にとっくに入っていた正親町天皇にとっては心強い限りでしょう。

 

天正八年
正月
一日、四方拝
御湯殿上日記、公卿補任
四日、千秋万歳、五日同じ
御湯殿上日記(正月四日・五日)
五日、看経、のち数このことあり
御湯殿上日記(正月五日・十日・二月七日・十日・十一日・12日・三月二日・五日・七日・十日・閏三月五日・十日)
八日、太元帥法、聴聞
御湯殿上日記(正月八日・十四日)
十一日、別殿行幸
御湯殿上日記
十八日、三毬打
御湯殿上日記(正月十七日・十八日)
十九日、和歌会始
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に代官詣
御湯殿上日記
二月
五日、腰痛、遊行上人持参の霊宝を叡覧、十念を受ける
御湯殿上日記
十五日、涅槃会
御湯殿上日記
二十一日、権大納言徳大寺公維を内大臣に任ず
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
御湯殿上日記
二十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽和歌会
三月
二十日、庚申待
御湯殿上日記
閏三月
十五日、この日より勧進
御湯殿上日記(閏三月十五日・十六日・二十一日)
二十二日、内侍所御神楽、脚痛のため出御なし
御湯殿上日記、公卿補任
三十日、貝始
御湯殿上日記
四月
一日、誠仁親王、参内、なお腕の痛みあり
御湯殿上日記
六日、色紙などの修理あり
御湯殿上日記
七日、後柏原天皇聖忌、伏見般舟三昧院にて経供養
御湯殿上日記
十四日、白川雅朝王に諸本を賜う
御湯殿上日記、白河家系譜
二十二日、別殿行幸
御湯殿上日記
この日、賀茂祭
御湯殿上日記
五月
七日、不予
御湯殿上日記
十日、誠仁親王の祈祷のため内侍所で御千度
御湯殿上日記
二十七日、織田信長石清水八幡宮遷宮の日時ならびに使のことを奏請
六月
五日、春日社仮殿遷宮日時定
御湯殿上日記、公卿補任
六日、伊勢国一向宗専修寺住持お礼に参内、謁を賜う
御湯殿上日記、専修寺系譜并歴代事績
八日、豊後国大友義鎮、金子三枚を献ず
御湯殿上日記
十一日、神宮奏事始
御湯殿上日記
この日慧心僧都阿弥陀曼荼羅を叡覧
御湯殿上日記
十四日、小御所において謡
御湯殿上日記
二十一日、石清水八幡宮遷宮日時定
御湯殿上日記(六月十九日・二十一日)、公卿補任
二十二日、庚申待
御湯殿上日記
二十四日、愛宕社に代官詣、のち数このことあり
御湯殿上日記(六月二十四日・七月二十四日・八月二十四日・十一月二十四日)
二十五日、北野者法楽会
御湯殿上日記
二十七日、石清水八幡宮遷宮
公卿補任
七月
一日、楽始
御湯殿上日記(六月二十六日・七月一日)
四日、大坂本願寺門跡顕如織田信長との和睦により剣・馬代などを献上
御湯殿上日記(七月四日・五日・十八日)、続史愚抄(七月十二日)、本朝通鑑(三月辛丑朔是日・七月己巳朔庚午・八月戊戌朔己亥)
八日、前内大臣菊亭晴季に還任宣下あり
公卿補任
十日、看経、のち数このことあり
御湯殿上日記(七月十日・じゅういちにち・十二日・八月十日・十一日・十二日・九月五日・十日・十二日・十月十一日)
十七日、誠仁親王の病を問う
御湯殿上日記
二十八日、禁裏修理
御湯殿上日記(七月二十八日・八月二日・三日・二十二日)
八月
六日、越中国神保宗二郎、黄金一両を献上
御湯殿上日記
十日、昨九日大風、誠仁親王にもとにお見舞い
御湯殿上日記(八月九日・十日)
十一日、誠仁親王の祈祷のために内侍所でお百度
御湯殿上日記
十三日、織田信長安土城の屏風を叡覧に供す、十四日、信長の申請により宸筆を染める
御湯殿上日記(八月十三日・十四日)
十五日、延暦寺の慧心筆阿弥陀を召して叡念
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
十九日、誠仁親王高砂の扇を賜う
御湯殿上日記
二十三日、庚申待
御湯殿上日記
二十四日、薫物を調合
御湯殿上日記
九月
七日、若狭守吉田某、金子二千疋
御湯殿上日記
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記
十三日、当座和歌会
御湯殿上日記
十六日、般若心経の念仏
御湯殿上日記
十八日、菊見の宴を延引、雨による
御湯殿上日記
十九日、菊見並びに謡
御湯殿上日記
二十五日、誠仁親王の祈祷に北野社法楽和歌会、北野社に代官詣
御湯殿上日記(九月二十日・二十五日)
二十九日、これより先彗星出現、この日祈祷を諸社寺の仰せ付ける
御湯殿上日記、公卿補任
十月
十日、母贈皇太后藤原栄子忌、看経、伏見般舟三昧院にて仏事
御湯殿上日記
十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十四日、庚申待
御湯殿上日記
十一月
三日、権大納言近衛信基を内大臣に任ず
十一日、北野社法楽和歌会
御湯殿上日記
十二日、不予
御湯殿上日記(十一月十二日・十三日・十五日)
十二月
一日、春日祭
御湯殿上日記(十一月八日・十二月一日)、公卿補任
この日、妙心寺先住、再任により勅使派遣
御湯殿上日記
二十五日、庚申待
御湯殿上日記

日本の武士はなぜあんなに「間抜け」なのか、ということについて小・中学生向けに考えました

yhatano.com

小・中学生向けおよびその保護者様向けに解説したサイトの記事です。

 

sengokukomonjo.hatenablog.comこの記事のリライト版です。

 

yhatano.comこちらのサイトもご贔屓にお願いします。(ワードプレスで作ったら、当初はアクセスがない、と聞いていたけどガチでアクセスがない)

『虚像の織田信長』解説第二章

こちらに書いた記事の転載です。

 

yhatano.com

 

前回の続きです。

『虚像の織田信長』解説第一章分

 

塾の教え子で買ってくださった方もいらしゃってありがたいことですが、「コアな歴史ファン向け」ということもあってちょっとむずかしいので、こちらで少しでも分かりやすく説明しようと思っています。


虚像の織田信長 覆された九つの定説

 

渡邊大門編『虚像の織田信長』(柏書房、二〇二〇年)の第二章「実は「信頼関係」で結ばれていた信長と天皇」です。

 

歴史をかじった小学校五年生でもわかる内容を目指しています。

 

こっちはかなりマニアックな話になってしまいます。そもそも信長の時の天皇って知っている人、どれくらいいらっしゃいますかね。かなり詳しい戦国時代の朝廷マニアでもなければあまり知られていないでしょう。

 

答えは正親町天皇です。

 

とりあえず中学入試には出てきませんね。大学入試に出てきて「難問」とディスられるのが関の山です。

 

正親町天皇を有名にしたのは今谷明氏の次の書物です。


信長と天皇―中世的権威に挑む覇王 (講談社現代新書)

 


信長と天皇 中世的権威に挑む覇王 (講談社学術文庫)

上がもともとの本で、下が再刊されたものです。それだけ研究に大きな影響を与えた書物ということになります。

この書で今谷氏は正親町天皇を信長に抵抗して天皇の地位を守り切った巨大な存在としています。そして研究は今谷説の見直しという形で進み、現在ではかなり違う見方が提示されています。

 

とりあえず言いたいことは次の6点です。

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています。

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

6 信長は官位にはこだわりがありません。

 

1 蘭奢待切り取りでブチ切れたのは正親町天皇ではありません。逆にブチ切れられています

蘭奢待

これを何と読むか知らない生徒はとりあえず学校で織田信長の伝記を借りて読んできましょう。買えばよりいいです。

 

「らんじゃたい」と読みます。香木の一種です。聖武天皇の宝物で東大寺正倉院に入っています。校倉造で有名です。この辺は入試では大事なポイントです。知らない受験生は早急に復習して定着させてください。

東大寺正倉院聖武天皇の宝物を収める。校倉造。

 

ちなみに「蘭奢待」という字をよく見ると「東大寺」という字が入っています。「蘭奢待」というのは言葉遊びです。

 

信長は大和国を押さえると蘭奢待を切り取りたい、と朝廷に願い出ます。朝廷ではびっくりしたものの許可を出します。信長は東大寺の手によって運び出された蘭奢待を少し切り取ってもらい受け、それを天皇にも献上しています。

 

ところが正親町天皇が「聖武天皇の怒りがこわい」と書いた手紙がありまして、それを根拠に正親町天皇は信長に対し怒っている、と考えられてきたわけです。

 

ところが近年金子拓氏がその手紙を詳細に検討したところ、どうやら手紙の主は三条西実枝(さんじょうにし さねき)という公家で、内容は「天皇は責任逃れで関白二条晴良(にじょう はるよし、または、はれよし)にやらせようとしている。聖武天皇もお怒りだろう」という内容ではないか、ということを主張しています。


織田信長 <天下人>の実像 (講談社現代新書)

 

どうも正親町天皇は伝統とか権威を大切にしない人物であったようで、三条西実枝織田信長も呆れることが多かったようです。

 

2 朝廷の伝統と権威を軽んじたのは信長ではありません。正親町天皇です。

信長は天皇の周りに「奉行衆」という組織を設置し、天皇を補佐させました。どちらかといえば天皇を監視する、と言った方が正確です。

 

メンバーは三条西実枝・中山孝親(なかやま たかちか)・勧修寺晴右(かんじゅじ はるすけ、または、はれすけ)・庭田重保(にわた しげやす)・甘露寺経元(かんろじ つねもと)の5名です。

 

この奉行衆が設置されたきっかけが「肩衣相論」という事件です。「肩衣」とは僧侶の着る衣の一種で、もともと天台宗の僧侶が着るものでしたが、江戸忠通という常陸国の武将が真言宗にも着る許可を出しました。それに対し後奈良天皇正親町天皇の父)が真言宗への肩衣着用を禁止しました。

 

ところが正親町天皇は突然ちゃぶ台返しを行い、真言宗に認めます。しかしそれもつかの間、天皇の義兄弟の僧侶が文句をつけた結果、またもやひっくり返った末にその天皇の命令を出した公家が処罰される、というドタバタが展開されました。

 

何のことだかわからないと思いますが、信長も同じことを思ったようで「天皇周辺のなさりようはわけがわからん」と信長が文句をつけたために奉行衆が設置された、と史料には書いてあります。結局全ての天皇の命令を無効としてしまいました。

 

興福寺のトップの人事でも正親町天皇は迷走します。興福寺の決定に不満を持った候補者が天皇に泣きついて天皇の命令をもらいました。それを聞いた信長は「今までのしきたりどおりに興福寺の言う通りにしましょうよ」と意見を出して安土に帰ります。しかし天皇は信長や興福寺の意向を無視して自分のお友達を強引にねじ込みます。

 

さすがに信長もちょっとキレて「天皇がそんなことをすれば天皇が恥をかきます。それは私にとっても恥となります」と丹羽長秀滝川一益を通じてクレームを入れました。

 

正親町天皇には、都合が悪くなると

 

(∩゚д゚)アーアーきこえなーい

 

とやる癖があったようで、代わりに天皇の皇子で皇太子の誠仁親王(さねひとしんのう)が信長に「天皇も後悔していらっしゃいます」という手紙を出しています。

 

この二つの事件を見る限り、伝統や権威を逸脱しているのは天皇の方であって、信長はそれを何とか正しい道に戻そうと介入している、という図式になります。

 

3 信長が正親町天皇を退位させようとしたのは、早く譲位したい正親町天皇への援助です。

信長は二度にわたって正親町天皇誠仁親王天皇を譲ることを要請しています。

これについては、正親町天皇は最後まで譲ることがなく、信長の圧力をはね返したかのように読めます。

しかしこれは「天皇は位を譲らない」というのがどの程度そのころには常識となっていたか、という問題があります。実はそのころの天皇は位を譲るものでした。ところが正親町天皇のひいおじいさんの後土御門天皇応仁の乱の時の天皇ですが、その後朝廷が金がなくなってしまうので位を譲ることができなくなってしまったのです。それどころか葬式の費用にも事欠くありさまでした。

 

信長は位を譲る時にかかる費用を負担することを申し出ています。

 

ただタイミングがうまくいかなかった。最初に言い出した時は、年末で、信長は年末年始を京都では一回も過ごしていません。信長はどうも京都があまり好きではなかったようで、来てはすぐに帰っていくという感じだったようです。だから譲位は延期になり、その後はしばらく信長包囲網との戦いに忙殺されてうやむやになったようです。


宿所の変遷からみる 信長と京都

 

武田勝頼を滅ぼした信長は天皇からの左大臣の打診に天皇の譲位を持ち出します。しかしこの年は縁起が悪い、ということで延期になり、その直後に信長は本能寺の変で倒れてしまいました。

 

こうしてノロノロしているうちに誠仁親王は急死し、結局豊臣秀吉の援助で孫の後陽成天皇への譲位が成功します。

 

正親町天皇は当時すでに60を超えた高齢で、病気がちだったこともあり、意外と譲位は切実だったようです。

 

4 天皇の命令で講和しようとしたことに関してはいろいろな説がありますが、とりあえず信長が主導権を持っていたようです。

これについては信長が天皇の権威にすがる、という今谷氏の研究があり、それを踏まえて近年では逆に信長が天皇を利用しているという見方が強くなっています。今谷説では信長と正親町天皇は対立する関係として描かれていましたが、近年ではむしろ信長と正親町天皇の協調を見る方が有力です。

 

5 信長の軍事パレードは天皇に対するおどしではなく、妻に死なれた正親町天皇を元気付けるためです。

信長は京都で一回「馬揃(うまぞろえ)」という軍事パレードを行なっています。軍事パレードとは言っても、精一杯着飾った武将たちが馬に乗って走り回る、というものであって、軍事というよりはお祭りです。

 

これについては今谷氏によって譲位しない正親町天皇へのおどしである、という見方が提示されました。それに対し近年の研究では、この馬揃が天皇側からの要請で行われたことから、天皇に対するおどし、というものではないことが明らかになってきました。

 

この直前に正親町天皇誠仁親王は大切な家族を喪っています。その沈んだムードを吹き飛ばすために、何をしようか、と考えている時に、信長が安土で派手なお祭りをやっていることが耳に入り、それを京都でもやってほしい、と朝廷から要請したようです。

 

ちなみにこの馬揃の責任者は、当時「近畿管領」とも呼ばれ、近江国坂本城滋賀県大津市)と丹波国亀山城京都府亀岡市)を押さえる明智光秀でした。

 

6 信長は官位にはこだわりがありません。

「三職推任(さんしきすいにん)」という話があります。武田氏を滅ぼした信長に対してその功績を称えるために信長に征夷大将軍太政大臣か関白か、どれでも好きなものに朝廷が推すというものです。これについては朝廷が言い出しっぺか、信長が無理矢理に言わせたものか、という議論があります。

 

これ、結論から言えば「分かりません」が正しいのですが、それでは商売にならないので、限界まで一生懸命考えるわけです。歴史学は暗記ではなく、こういう考えるものであることをご理解いただければ幸いです。

 

現在のところ、征夷大将軍ではないか、という見解が有力です。そして信長が言い出したのではなく、朝廷が言い出した、もしくは信長の京都代官であった村井貞勝がアドバイスした、という見方が有力です。

 

あまりにも自明のことと思っていましたので、この本では書きませんでしたが、征夷大将軍は源氏に限る、というのは都市伝説です。はっきり言えばデタラメです。結構信じている人が多いのでお気をつけください。藤原頼経藤原頼嗣宗尊親王惟康親王久明親王守邦親王が激おこぷんぷん丸です(いずれも鎌倉幕府征夷大将軍)。

 

ただ信長があまり官位に興味がなかったらしいこと、朝廷は信長に高位高官に上って欲しかったらしいことなどを考えると、朝廷が征夷大将軍にならせようとし、信長がその答えを出す前に本能寺の変になってしまった、というのが正解ではないかな、と私は考えています。