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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

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2020年7月22日に初めての単著を出版しました。よろしくお願いします。

 

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乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 

 

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 歴史学研究者・古文書講師の秦野裕介のブログです。

室町時代を中心に日本史を研究しております。

室町時代・戦国時代の政治史、あるいは北海道の中世史を研究しています。

京都府乙訓郡大山崎町出身。

1997年4月〜2018年3月まで立命館大学非常勤講師。

2004年4月〜2018年3月まで立命館アジア太平洋大学非常勤講師。

株式会社歴史と文化研究所客員研究員。

会社概要・客員研究員 - 株式会社 歴史と文化の研究所

2019年4月〜9月まで立命館大学授業担当講師。

原稿執筆(書籍・雑誌)、講演の相談・依頼は大歓迎です。

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後花園天皇をめぐる人々ー日野勝光

久しぶりの更新です。

 

本日は日野勝光を取り上げたいと思います。

 

日野勝光は有名な日野富子の兄に当たり、その立場を生かしてかなり強引な政務運営を行い、「押大臣」(おしのおとど)と言われた、とされています。

 

NHK大河ドラマ花の乱』で草刈正雄さんが演じていた役柄で知られています。悪役として強烈な印象を残しました。

 

勝光は日野富子足利義政あるいは後土御門天皇の評伝には不可欠な人物と思いますが、おそらくは悪役としてあっさり切られてしまう気がします。

 

富子については近年は応仁の乱の黒幕という従来の見方を見直す動きがありますが、勝光に関しては知名度の問題もあってそのような動きは見られません。

 

では勝光の人生から見ていきましょう。

 

勝光は日野重政の嫡子です。厳密に言えば裏松重政というべきです。実は日野家と言っていますが、日野家の分家の裏松家です。この裏松家は足利義満の御台所を出して以降、将軍家の外戚となってきました。

 

一方日野宗家は日野有光が有名です。そしてもう一つの分家である日野西家は後小松天皇典侍として称光天皇を生んだ光範門院日野西資子がいます。

 

日野家自体は禁闕の変で有光が内裏襲撃事件というおおごとをやらかして断絶します。

 

しかし日野家よりも裏松家はもっと早くに断絶しかかっています。

 

足利義教は裏松家を憎んでいたようで、日野義資の所領を烏丸豊光に付け替えたことに激怒した義資が出家遁世を企て、栄子が義教のもとに怒鳴り込んでくるという事件があり、それ以降義資は逼塞します。

 

正室の宗子も義教によって離縁され、代わりに妹の重子が側室に上がりますが、正室は正親町三条家の尹子に代わります。

 

ところが世の中はうまくいかないもので、重子に男の子が生まれ、尹子には一向に懐妊の兆しがありません。もちろん我が足利義教は重子の男の子を尹子の猶子にしてしまいます。

 

しかも重子が嫡子を生んだことで人々が「義資さんももうすぐ許されはるやろ」と思って義資のもとにも祝賀に訪れたのですが、義教は彼らをブラックリストに入れると義資を暗殺してしまいます。義資の嫡子の重政は出家させたれ、一応6歳の勝光が家督を相続しますが、いつ取り潰されても文句は言えない状況でした。

 

勝光のこの絶望的な状況が一変するのは嘉吉の乱で、尹子はそれを契機に出家し、表舞台から引退して代わりに重子が将軍生母として力を振るい始めます。そして嘉吉の乱から禁闕の変をへてその後の幕府は重子と畠山持国、そして後花園天皇の二人三脚で運営されていきます。

 

これ以降は勝光の人生は順風満帆となります。何しろ重子のバックアップがあるのですから。

 

義教の後を継いだ義勝は急死しますが、義政が後を継いで勝光は盤石でした。やがて義政に妹の富子が嫁ぎ、彼は将軍家外戚となります。

 

しかし世の中は何もかもがうまくいくわけではありません。勝光はそのような場合にも用意周到です。

 

勝光にとって頭痛の種は義政と富子の間に子どもが生まれないことでした。30歳を超えた段階で次の世代のことを考えた義政らは弟の浄土寺義尋を後継者候補とし、還俗させて義視と名乗らせます。そして勝光はこちらにも自分の妹を嫁がせます。つまりどう転んでも勝光は損をしないようになっていたのです。

 

むしろ勝光にとっての想定外の出来事は富子が男子を生んだことでしょう。ただ義勝の例もあります。リスクマネジメントからすれば義視を一旦将軍職を継がせて将軍家の予備を作る、という方法を考えたのではないでしょうか。

 

もちろんそれにはモデルがあったと私は考えています。

 

そのころ天皇家では二つに分裂した皇統の統一がなされていました。後光厳皇統と崇光皇統です。最終的に後花園天皇は後光厳皇統を継承し、崇光皇統を後花園天皇の弟の貞常親王が継承する形がとられ、貞常親王の子孫は永代にわたって親王宣下を受けるという伏見宮家となります。後花園天皇は皇子を一人しか産ませられませんでしたが、貞常親王は子沢山で、立派にスペアを用意しています。万が一天皇家が途絶えても伏見宮家というスペアを用意したものと思われます。

 

これを将軍家にも応用しようと考えたのではないでしょうか。

 

しかし現実はいまくいきません。義視の系統に将軍家が移る可能性を恐れた伊勢貞親による義視の排斥運動を契機に義政の将軍権力は大きく削がれ、やがて応仁の乱になります・

 

応仁の乱にあたっては勝光は細川勝元による山名宗全討伐のための院宣の発給と義政の関与に反対したために、勝元に疎まれ、山名宗全派というレッテルを貼られます。近衛政家は勝光と富子について「宗全びいき」と指弾しています。しかし今谷氏は勝元に一方的に加担することに反対した勝光の判断を「正論」と評価しておられ、私もその見解に従いたいと思います。実際義政は牙旗を下し、勝元に肩入れする姿勢を示しますが、後花園上皇院宣を拒否し、中立を保ちます。

 

ただこれで勝元に睨まれた勝光は一旦逼塞しますが、乱の混乱の中で台頭してきます。勝光の姿勢は当初は西軍との和睦を念頭に置いていたと思われますが、相国寺合戦で後花園上皇らの避難先の室町殿が西軍によって炎上させられてのちは西軍を武力で鎮圧しようという方向に動きます。その具体的な動きが宗全治罰院宣です。

これには色々な背景が考えられますが、後花園上皇後土御門天皇が室町殿に避難してきたその日に義視が出奔したこと、相国寺合戦で自らの住居を焼かれた後花園・義政サイドが態度を硬化させたことなどがポイントでしょう。

 

勝光が特に活躍するのは足利義尚が将軍になってからです。

 

義尚が元服するにあたって勝元の死後空席だった管領畠山政長が返り咲きますが、応仁の乱の中で管領の権力は形骸化が進行し、しかも政長は畠山義就との戦いが続いていて在京どころではありません。

 

結局管領の代わりを勝光が務め、その死まで勝光が幕政を主導することになります。

 

日野家というのは基本的に昇進して大納言止まりで、多くは中納言でしたが、勝光は日野家の中で唯一大臣に登っています。かれが内大臣になったのは文正2年(1467)のことで、おそらくは後花園院の院執事を務めたことに対するものでしょう。つまり勝光は後花園院政を支えた一人でもあるわけです。

内大臣は勝元に睨まれた時に辞任していますが、死の直前に重体に陥った時に左大臣に任ぜられ、左大臣辞任の翌日に死去しています。

 

勝光は悪役にされがちですが、私のイメージでは後花園天皇に忠実な人物だったのではないか、と思っています。後花園の追号をめぐる議論では迷走していましたが。

後花園天皇をめぐる人々ー満済

久しぶりの「後花園天皇をめぐる人々」シリーズです。

 

今回は醍醐寺三宝院門跡満済准后を取り上げます。長い長い名前ですが、実際の名前は「満済」です。

 

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満済 醍醐寺三宝院蔵

 

彼は醍醐寺三宝院門跡という地位につき、准后という称号を得ていました。「准后」とは「三后」(皇后・皇太后太皇太后)に準ずる待遇のことで、有名なところでは北畠親房が正平の一統のご褒美で後村上天皇から拝領したことがありますが、多くは摂関の人々に与えられていました。室町時代に入ると顕密の高僧にも与えられるようになります。満済准后の他には義円准后が有名です。義円准后の場合は足利義満の息子で、青蓮院門跡天台座主を務めたことで知られる高僧で、のちに室町幕府6代将軍の足利義教になります。

 

満済二条家の庶流今小路家に生まれました。

 

満済醍醐寺については過去にユーチューブで話しています。少し長くなりますが、時間があればご覧ください。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

今小路基冬の子であることが判明しています。今小路基冬は権大納言まで昇進しましたから、一応上流貴族の出身です。しかし彼は護持僧の中では圧倒的に家柄が低かったのも事実です。だいたい室町殿護持僧は摂関家か足利家が中心で、時には皇族も列します。そのような中で、一応摂関家の流れを引くものの、極官が権大納言という家柄は満済一人です。

 

満済といえば「黒衣の宰相」と言われる、政治への関与が有名ですが、真言僧としても非常に有能だったようで、そもそも法力で室町殿や天皇の身体を護持する護持僧としては僧侶として有能でなければ勤まらないでしょう。

 

政治への関わりですが、満済が関わり始めたのは義持時代です。義持と大名たちの合議の際の仲介役として重用されたようです。満済の場合、実家の今小路家は早くに断絶し、満済はとりあえず貴族社会にしがらみがなかったのが幸いしたと言われています。

 

満済は特に鎌倉公方との交渉にはよく関わっています。デビューも関東関係の話し合いでした。

 

満済が特に有名になったのは足利義教擁立劇でしょう。義持が危篤になった時に、大名から義持との交渉役を任され、くじ引きでの決定を最終的に決めたのは満済の手腕です。義持は大名側に丸投げ、大名側も決められない、という状態だったわけですから。

 

満済はくじに字を書く役目を行い、山名時熙がご飯粒で封をし、畠山満家八幡宮(通説では石清水八幡宮)に持って行って神前でくじを引く担当になりました。結果は天台座主の義円が選ばれました。この時にイカサマをしたのではないか、というイカサマ説は根強くありますが、拙著でも述べましたように、多数説と同様にイカサマ説は成り立たないと私も考えています。

 

そもそも義円が意中の人ならば、一番年長で、僧侶としての実績も高い義円を普通に選出しておけばよかったはずで、おそらく大名側で話がまとまらず、義持に決めるようにお願いしても神託を理由に断られたため、どうしようもなくなった、と考えられます。ちなみに「神託」を理由に断る、というのは普通に考えれば逃げの口実ですが、義持の場合はガチである可能性が拭えないところ、少しこわいですね。

 

ともあれ義持から義教への代替わりをうまく仕切った満済に対する義教以下の信頼感は爆上げで、満済はその後ますます深く政治に関わっていくことになります。

 

義持時代は基本的にメッセンジャーでしかなかった満済ですが、義教時代になりますと、大名の意見を義教に取り次ぐ前に握り潰すという挙にも及んでいます。義教の見解に比べて圧倒的に劣る、という理由です。満済の凄いところは、握りつぶされた方が納得してしまう説得力です。

 

満済のタフネゴシエイターぶりは後小松法皇崩御時にもいかんなく発揮されます。時の後花園天皇伏見宮家の出自で、後小松とは猶子関係を結んでいるにすぎませんでした。そして後小松は後花園の実父の貞成親王による乗っ取りを恐れていました。貞成への太上天皇号による後花園と貞成の親子関係の可視化を拒絶し、貞成に自分の仙洞御所の引き渡しを禁じていました。

 

義教は後小松の諒闇をどうするかを満済に尋ねています。義教は諒闇にする必要はない、と考えていました。というのは後小松を後花園の父親から外してしまいたかったからです。満済はそれに断固として反対します。結果的にくじ引きで決めることになり。諒闇は行われることになりました。

 

比叡山と義教の対立に際しては穏便な決着を主張していましたが、結果的に義教は山門使節を殺害、根本中堂が炎上するという不祥事を引き起こしました。

 

そのころから満済の体調は悪化していたようで、明の使者への対応と明皇帝への国書の書き方をめぐる議論の頃には中風の症状に悩まされていたことが書かれています。私の修論のネタでしたが、改めてあのややこしい議論をこのような体調でやっていたことに驚きました。

 

明との関係では日本にしか通用しない理屈を振りかざして外交に臨もうとする大名たちを一喝し、円滑な外交交渉を行うように必死にドライビングする満済の姿が見えます。

 

満済が死去すると足利義教の暴走が始まる、と言われています。実際は満済の体調悪化が深刻となってきたころで、義教の無茶振りは後小松法皇崩御がきっかけではなかったか、という気が最近しています。

 

ともあれ、満済がいかに人格者だったかは、あの口の悪い貞成親王が「天下の義者」と評していることに現れています。

 

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 


満済:天下の義者、公方ことに御周章 (ミネルヴァ日本評伝選)

 

『乱世の天皇』の秦野裕介が嘉吉の乱を書くと

『乱世の天皇』の秦野裕介が嘉吉の乱を書くと

 

というか、もう『乱世の天皇』の中に書いてあるし。何格好つけてんだ、というネタでしかありません。

 

これが『乱世の天皇』の秦野裕介が安倍晋三政権を総括する、とかだったら格好がつくのですが、肝心の中身がクズみたいな文章しか出てこないことは保証します。

 

私がある程度(あくまでもある程度)のクオリティの文章を提供できる範囲は狭いです。

 

で、嘉吉の乱です。

 

正直嘉吉の乱については今谷明先生の『土民嗷々』の右に出るものはないと思っています。足利義教後花園天皇・赤松満祐・万里小路時房・貞成親王畠山持国細川持之といったメンツが躍動しています。

 

基本的に嘉吉の乱を描くときには義教の専制化と暴走を軸に、それに巻き込まれる人々を描いていく、という形になります。

 

足利義教を誰目線で見ていくか、という点も重要です。

 

『看聞日記』がありますので、貞成親王目線が主流になります。また『建内記』もありますので、万里小路時房目線ももう一つの対抗軸になるでしょう。そこに『薩戒記』の中山定親目線を入れるともう少し話が立体的になってきます。『薩戒記』は近年ようやく刊本が揃ってきましたので、使いやすくなっています。

 

貞成親王に関しては、私は拙著でも割合両思い的に描いてきました。しかし『北朝天皇』では義教の貞成への片思い、ストーカー的な関係としていて、案外これ、事実かもな、とも思い始めています。『看聞日記』における「将軍犬死」という。一見手のひら返しに見える表現も、石原比伊呂氏の見解を踏まえると自然につながります。

 

私は義教の専制性、暴虐性を強く打ち出してきた従来の「嘉吉の乱」叙述から脱して、義教の専制性について再考したいと思っています。

 

義教が最も暴虐性をあらわにしたのは公家層、それも名家層です。これは義教の後花園天皇への入れ込みぶりとおそらく連動しています。義教は後小松院政の総決算を行おうとしていたのではないか、と考えています。天皇の権威の低下を招いた後小松院政およびそれを改善しようとしなかった廷臣たちを追い落としていったのでしょう。

 

義教の「凶暴化」のきっかけが永享五年と言われていますが、畠山満家の死去とともに大きかったのが後小松院の崩御だったのでしょう。

 

この辺をもう少し丁寧に掘り下げていくべきではないか、と考えています。『乱世の天皇』の著者が義教政権を描きだせば、義教による宮廷改革というテーマが主軸になっていくでしょう。

 

このテーマで義教の様々な動きを見ていくと、今まで見えなかったことがいくつか見えてきます。

 

もう一つ、注目したい人物がいます。嘉吉の乱の時に完全武装した赤松満祐勢に徒手空拳で立ち向かい、重傷を負って一ヶ月後に死去する大内持世です。

 

大内持世になぜ注目するか、といえば、『海東諸国紀』における「国王代序」のほとんどは足利義教の話で、そのほとんどが嘉吉の乱の話です。そしてこれは『朝鮮王朝実録』に書かれていることをベースに書いています。

 

そこに書かれていることは実はほぼ『看聞日記』と一致します。おそらく情報源が同じだからでしょうが、貞成親王はどういう情報源を駆使したのでしょうか。ちなみに後花園天皇嘉吉の乱で大内持世と同じく抵抗して負傷した正親町三条実雅に事情聴取を行いましたが、詳細な記憶を失っており、最終的に細川持之からの報告によって義教の死を知っています。

 

朝鮮王朝にとって国王がいきなり殺されるのは衝撃だったでしょう。そしてその後に少年が国王に就位してその結果混乱しているのも見ていました。

 

それが首陽大君による国王の弑殺と王権簒奪につながるあたり、朝鮮王朝と日本の違いを考えるのも興味深いです。また赤松満祐の弟が逃亡して朝鮮への倭寇となったのも、倭寇とは何か、という問題を考える素材を提供しています。

 

嘉吉の乱はつまるところ足利義教の人生を主軸に、誰を絡ませるか、というあたりが見せ所ではないか、と思います。

 

そこで私が書くとするならば大雑把に以下のような構成になるでしょう。

 

まずは足利義持の死とくじ引きによる選出

足利義教にはやはりくじ引きという出発点が必要です。天台座主も務めた天台の高僧がいきなり室町将軍になったとまどいこそ彼の出発点ではなかったでしょうか。

 

称光天皇から後花園天皇への代替わり

普通の天皇の代替わりではありません。称光天皇には後継者がおらず、また後継者の氏名を拒否し続けたため、後継者が不透明な中、すべての責任を一身に背負って義教はまだ将軍にもなれないのに、次期天皇擁立に動きます。この歴代の皇位継承の中でも最も緊迫したものの一つであるこの事件を、後花園天皇目線ではなく、足利義教視点で見ていきます。

 

天皇・芸能・学問

義教は天台宗の高僧でしたので、文化的素養は非常に豊かでした。その義教が荒廃した宮廷の立て直しに奔走する時、彼のそういう素養が役に立ちます。

後花園天皇の学芸の習得を全面的にプロデュースした義教の努力がなければ、天皇というシステムがどうなっていたか、分かりません。天皇を積極的に再定義した義教の業績はもっと注目されていいでしょう。

 

海域アジアの中の義教政権

義教の時代は北海道に日本人のコロニーが形成されてからしばらく経過した時期で、北海道と近畿の日本海交易が大きく再編される時期でもありました。その具体的な動きとして十三湊からの下国氏の没落と、下国氏による若狭国小浜の羽賀寺再建などが挙げられます。

また琉球との関係も活発化していきます。そのため、義教政権は北海道から琉球まで支配に含めた、という言説がまま見受けられますが、もちろん間違いです。琉球は完全にデマで、今や信じる人もいないと思いますが、津軽に関しては今なお義教の力の過大評価は見られます。

朝鮮とは倭寇問題を通じての交渉があります。また明とも倭寇をめぐる対応、あるいは日明貿易の商人への丸投げ化が進行する時期でもあります。その辺を見直すひつようがあるでしょう。

 

足利義教政権の運営

いわゆる重臣会議制から諮問制に変わっていきます。また裁判制度も義教が前面に出てきます。義教の独裁制があらわになりつつある、という評価をされています。しかし実際にはその前提には管領の機能不全という事態が起こっていました。義教政治を見る際にはこの点の見直しが不可欠です。

また細かく見ていきますと、義教はお気に入りを押し込んだわけではない、という点も重要です。義教なりに一番ベストという人物を押し込んでいます。

ただ最晩年には一色義貫・世保持頼を暗殺する、という事件を引き起こし、これが赤松満祐を始めとする人々への求心力の低下に繋がっていたかもしれません。

 

関東との関係

永享の乱後花園天皇の綸旨の発給という側面から再考します。この辺は近年研究が進んでいるところで、後花園天皇と義教の関係も検討対象に入ってきます。また大名にも親関東と反関東があり、在京大名と関東や南東北の入り組んだ関係も見ていく必要がありそうです。特に南部氏に関しては関東との関係が深いことが史料上はっきりしていますが、その辺を踏み込んだ業績はあまり目にしません。むしろ南部氏と京都との関係に注目する研究の方が目につきますが、南部家の文書を見る限り、その見解は採用できません。

 

赤松満祐はなぜ義教を討ったのか

ここのところがいちばんのポイントです。この辺は現状ではまだ思いつきのレベルでしかありませんが、通説には大きな問題がある、と考えます。この辺は本書の肝となるところなのでここでは伏せておきます。

 

嘉吉の乱後の混乱とその収拾

嘉吉の乱後の混乱といえば嘉吉の徳政一揆です。そして諸大名の合議制の崩壊の可視化、幕府機構の弱体化と後花園天皇の幕政への介入などが行われていきます。

将軍が幼少である間、天皇が将軍の権限を代行するかのような動きが見えます。これは天皇の権威の復活と見られてきましたが、近年ではむしろ幕府と朝廷の一体化という側面から評価されます。この辺の難しい問題をわかりやすく解きほぐす叙述が求められます。

 

最後はやはり禁闕の変で閉じましょうか。義教時代に吹き出した矛盾が後花園天皇畠山持国の協調によって急速に収拾される過程です。

 

以上です。なかなか自分でも面白いと自画自賛していますが、どこか採用してくれませんか。

拙著『乱世の天皇』見どころ14ー評伝だけではない

引き続き今谷明氏にいただいた拙著へのレビューを取り上げます。

 

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冒頭に書いてあります「評伝の形式取りつつ室町期の特異な状況活写」ですが、要は後花園天皇の評伝というに止まらず、室町時代の朝廷と幕府の関係を描き出した、ということです。

 

これは裏があります。

 

私は自分の推しである後花園天皇について広めたい、というノリしかありません。

 

「あとがき」に拙著の刊行事情が書いてありますが、最初にお話を持ってきてくださった渡邊大門氏からは「単なる評伝ではダメ」(意訳)というアドバイスをいただいています。もうここから「評伝の形式を取りつつ室町期の特異な状況活写」という拙著の方向性は決まっていました。

 

さらに最初に担当いただいた藤原清貴氏からは「室町幕府と朝廷の特異な関係をしっかり描いて欲しい」(意訳)という注文が入りました。

 

さらにさらに最終的に担当いただいた小代渉氏からは「後花園天皇だけではなく、北朝天皇を描いて欲しい」(意訳)という注文をいただきました。

 

その結果、「評伝の形式を取りつつ室町期の特異な状況活写」という拙著の売りが作り出されたわけです。

 

著書の出版というのは著者だけではなく、多くの人々との共同作業なのだということを強く感じます。

 

もう一つ、この話から私が学んだことは、マーケティングでもよく出てくる「自分の売りたいものではなく、お客様の欲しいものを」というネタです。拙著に引きつけるならば、「自分の書きたいものではなく、読者様の読みたいものを」ということです。

 

 

拙著『乱世の天皇』見どころ13ー天皇論との関わり

前エントリに引き続き今谷明氏による『週刊エコノミスト』2020年9月1日の書評に関連した話です。

 

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今谷氏は次のように述べます。

戦後の論壇では天皇に関する問題は甚だ微妙であり、学界でも天皇の事績を論ずることはタブー視されてきた。

(中略)

前述のような昭和時代の論壇・学界のあり方からすると全く隔世の感に堪えない著作であり、またある面からすると、歴史上、天皇の位置付けが一変したことを如実にあらわすと言えよう。

 秦野裕介著『乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで』(東京堂出版、2500円)は、前述のような昭和時代の論壇・学界のあり方からすると全く隔世の感に堪えない著作であり、またある面からすると、歴史上、天皇の位置付けが一変したことを如実にあらわす
 秦野裕介著『乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで』(東京堂出版、2500円)は、前述のような昭和時代の論壇・学界のあり方からすると全く隔世の感に堪えない著作であり、またある面からすると、歴史上、天皇の位置付けが一変したことを如実にあらわす

 

これについて私なりに天皇論を整理しておきたいと思います。

 

教科書でまず後花園天皇は出てきません。教科書どころか、歴史学の論文でも後花園天皇をはじめとする室町時代天皇が出てくることはほぼありません。さらりと流されてしまいます。

 

しかし今年に入って堰を切ったように室町時代天皇に関する著作が次々と出版されました。

 

ここに至るまでの天皇歴史学的研究についての流れを簡単に押さえておきます。

 

天皇の歴史に言及される時、それは今谷氏が述べるように嵯峨天皇までと孝明天皇からが中心です。嵯峨天皇までの天皇はその多くが著名な天皇であり、嵯峨天皇よりあとの天皇は急に影が薄くなります。

 

院政期の白河・後白河・後鳥羽を除くと天皇の歴史はほぼ等閑視され、後醍醐天皇は派手ですが、室町時代に入るとほぼ無名の天皇が続きます。

 

なぜでしょう。

 

戦前にはすでにその傾向が現れます。その答えは時代祭にあります。時代祭は驚くべきことに2007年まで室町時代の行列がありませんでした。吉野時代はありました。つまり学界だけではなく、社会が室町時代をなかったものとしてきたのです。逆賊の作った時代である室町時代はその存在が抹殺されてきました。それが21世紀に入るまで続いてきたことが驚きです。

 

学界ではどうだったのでしょうか。

 

室町時代天皇武家のお飾りでしかない、これが長い間学界での共通認識でした。封建領主階級の支配を荘厳するだけの金冠ということです。従って独自に研究する意味などない、これが史的唯物論に立脚する学派の見解でした。

 

そのような中、天皇の歴史を研究する研究者もいました。奥野高広氏の研究は有名です。奥野氏の代表的な研究である『皇室御経済史の研究』の苦労話は非常に興味深いです。

 

この著作は戦時中の1942年に出されています。天皇の研究、ということで時流にのっている、と思われるかもしれませんが、事実は逆です。戦時中、神聖なる天皇の歴史の内実に迫るのはタブーでした。奥野氏自身、あとがきで述べていますが、「不敬」という批判もあったそうです。天皇については天皇に対する忠義の歴史を述べるべきであって、天皇家の内実を覗き見るような研究は「不敬」だったのです。

 

これは別に戦前だけではありません。今谷氏も講演を「天皇」という言葉が入っているだけで中止に追い込まれた体験を『天皇家はなぜ続いたか』で述べていらっしゃいます。昭和の終わり頃はそういうタブーが健在でした。

 

戦後は先ほど述べたような事情で天皇の研究は、特にマルクス主義の立場に立つ論者に間では「暴力装置」である国家のイデオロギー装置という位置付けを与えればそれでよく、その内実に迫ることは「天皇の延命をはかるもの」として批判されました。

 

1960年代あたりからその風向きが変わってきます。黒田俊雄氏が朝廷・幕府・寺社勢力が相互補完的に国家を形成する「権門体制論」を提示し、朝廷研究の必要性が提唱されます。

 

1970年代には網野善彦氏の『無縁・公界・楽』で社会史ブームがきます。社会史を一言でわかりやすく言いますと、「年号のない歴史学」です。人々の生活や日常意識にフォーカスした研究で、フランスのアナール学派の影響が指摘されます。

 

1986年の『異形の王権』で網野氏は後醍醐天皇を取り上げ、後醍醐天皇天皇を支えてきた非農業民を動員し、倒幕を成功させ、一気に崩壊したことで天皇の権威は地に落ちながらも、非農業民らによって支えられてきた、と主張しました。

 

ちょうど昭和も終わりにさしかかったころの網野氏の研究は天皇研究にも大きな影響を与えます。

 

ちなみに私が大学に入学したのが1986年で、そのころは網野氏の著作が出るたびに大学でも話題になり、レジ横に平積みされ、飛ぶように売れていた時代でした。

 

1989年、昭和から平成への代替わりが行われ、天皇に関する議論が盛り上がります。そのような中、網野氏に代表される社会史の立場からのアプローチに対して「結果論的解釈」と批判し、「政治的存在」である以上、「政治史の問題」として分析する努力が必要と主張しました。

 

今谷氏は先ほど挙げた『天皇家はなぜ続いたか』で網野氏と対談していますが、なかなか興味深い指摘がいろいろされています。

 

実は今谷氏が挙げた「天皇の事績を論ずることはタブー視されてきた」というのは、むしろここでの網野氏と今谷氏の対談の中でいろいろ明かされています。

 

つまるところ「民衆の立場からの史料」を分析せずに、公家や武家の史料だけで分析すると批判された、というものです。『室町の王権』も「民衆史の立場からどう位置づけ直すか」が課題とされたりしたわけです。

 

拙著についても当時ならば「民衆史の立場から後花園をどう位置づけ直すか」という批判がなされたことでしょう。「知らんがな」としか言いようがありませんが。まあ後花園の場合は「寛正の飢饉」があり、「嘉吉の徳政一揆」があり、で結構民衆史にも踏み込んでいます。もっとも嘉吉の徳政一揆はほぼ今谷氏の『土民嗷々』に依拠していますが。

 


室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

 


天皇家はなぜ続いたか

 


土民嗷々―一四四一年の社会史 (創元ライブラリ)

 


無縁・公界・楽 増補 (平凡社ライブラリー)

 


異形の王権 (平凡社ライブラリー)

 

拙著『乱世の天皇』見どころ12ー今谷明先生による紹介

今谷明先生が『週刊 エコノミスト』2020年9月1日号で拙著をご紹介くださっています。

 

weekly-economist.mainichi.jp

 

 


週刊エコノミスト 2020年09月01日号 [雑誌]

 

 

今谷先生といえば、拙著のあとがきにも記しましたが、拙著の出発点と言っても過言ではない方です。面識はないのですが、今谷先生の『室町の王権』(中公新書)はいまだに私のバイブルとして常に繙いています。

 


室町の王権―足利義満の王権簒奪計画 (中公新書)

 

 この著作のすごいところは発表以来30年も経ち、多くの批判にさらされているにも関わらず、現在もなお研究史の最前線にあり続けていることです。正直言って私はこの書もその主要部分は克服された、と思い込んでいました。ところが今なおその見解は影響力を持ち続け、それどころか新たに復権の兆しすら見えます。恐ろしいほどの生命力です。今なお室町時代の朝廷について知りたければ、真っ先に参照されるべき書物です。30年の時を超えて今なお最前線という本も、それほどないのではないか、と思います。

 

今谷先生に勇気を持って拙著を謹呈いたしましたところ、懇切なお返事をいただき、恐縮しきりですが、今回ご紹介までいただきまして、大変ありがたいことと感激しています。

 

特に下記の部分は、私が研究生活に入ってずっと考えてきたことです。

 

同じ封建制といっても欧州の中世とは異なり、あくまで日本の中世には独特の面があったことがこの将軍と天皇の関係に象徴されていることを言いたかったのではないかと推察する。

 

そもそも私は日本中世の封建制を、ヨーロッパ封建制と比較する手法に疑問を感じて海域アジア研究を選択したという経緯もあります。この成果は拙著第八章として結実しています。

 

それともう少ししたら公になりますが、それまでに下記のエントリを宣伝しておきたいです。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 ここで「世保持頼」について述べた箇所です。お楽しみに。