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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

「関東大名」南部氏

『看聞日記』応永二十五年八月十日条に次のような記述があります。

 

関東大名南部上洛、馬百疋・金千両室町殿へ献之云々

 

この短い史料にはいろいろ考えるべき点があります。例えば「金千両」というその「金」はどこの産か、という問題も「奥州の砂金と言えば有名だよね」という問題ではないかもしれません。実は北海道の砂金だったかもしれないのです。

 

馬はどこのでしょう。これは「糠部って馬の産地だよね」と言われればその通りで、「糠部の駿馬」については研究もあります。

 

私が今回こだわりたいのは「関東大名南部」という言葉です。

 

「関東」と「東国」については『看聞日記』においては意味がはっきり異なります。

 

とりあえず見てみましょう。

面倒臭い人はとりあえず飛ばしてください。

 

重衡朝臣関東下向之時(応永二十三年五月三日条)
今夕関東飛脚到来(中略)関東へ先御使可被下云々(応永二十三年十月十三日条)
昨夕自関東重飛脚到来(中略)関東京都敵対申歟之間天下大乱之基驚入者也(応永二十三年十月十六日条)
関東事、左兵衛督腹切事虚説也(応永二十三年十月廿日条)
自関東昨夕又注進(応永二十三年十月廿九日条)
近日就関東事、弥被恐怖云々(応永二十三年十月卅日条)
自関東一昨日飛脚到来(応永二十三年十一月九日条)
東武衛室町殿御旗被申(応永二十三年十二月十一日条)
関東謀叛彼亜相所為云々(応永二十三年十二月十六日条)
以御旗関東下着(応永二十四年正月三日条)
十九日自関東飛脚到来(応永二十四年正月廿一日条)
近日関東事静謐(応永二十四年二月十二日条)
自関東使節上洛、馬五十疋・唐櫃五十合・料足一万貫、公方諸大名進物到来云々、合戦御合力被畏申御礼云々(応永二十四年    三月五日条)
関東使節被見云々(応永二十四年六月七日条)
長老舎兄関東ニ被座(応永二十四年十二月廿日条)
関東大名南部上洛、馬百疋・金千両室町殿へ献之云々(応永二十五年八月十日条)

抑聞、室町殿与関東有不快之事(応永三十年七月十三日条)
関東討手下向事、室町殿諸大名参有評定(応永三十年七月十三日条)
聞、関東事已有合戦云々(応永三十年七月廿三日条)
抑関東蜂起事(応永三十年八月三日条)
関東討手大将進発治定也(応永三十年八月八日条)
関東事今月二日夜討有合戦(応永三十年八月廿日条)
関東・筑紫兵革蜂起(応永三十年八月廿四日条)
西星ハ京都、東星ハ関東歟(応永三十年十月二日条)
抑関東事、建長寺長老并足利代官神保ゝゝ為使節上洛、是反逆之企可蒙御免之由被歎申云々(応永三十年十一月廿八日条)
抑関東事神保上洛、依懇望大略可属無為云々。関東不可思儀吉瑞風風聞(応永三十年十二月二日条)

抑関東事静謐治定云々。仍昨日室町殿へ諸人参賀云々。(応永三十一年二月七日条)
抑関東静謐事、室町殿へ外様人々賀申云々。(応永三十一年二月十三日条)
城竹関東ニ可下向云々。(応永三十二年四月二十五日条)
後聞、関東武将亭此日焼失云々。(応永三十二年八月十四日条)
抑関東武将御使建長寺長老上洛、(応永三十二年十一月卅日条)
抑関東使節二階堂駿河守此間上洛(永享三年三月十九日条)
関東之進物(永享三年七月十九日条)

関東管領之使者上洛(永享四年二月廿九日条)
但関東ニ有物言(永享四年九月二日条)
関東有物言(中略)関東存野心可有恐怖事歟。(永享四年九月十日条)
自関東も金・御馬数十疋被進云々。(永享四年十月一日条)
勧進年内関東へ可下向之由申。(永享四年十月廿九日条)
抑自関東使節上洛(永享五年三月十八日条)
抑関東有不思儀之怪異(永享五年十月廿六日条)

山門ニも公方を奉呪咀、関東上洛事申勧云々。(永享六年八月十八日条)
自鎌倉雖被執申、不被聞食入、仍関東被企上洛云々。(永享六年十一月四日条)
関東ニも有兵革云々。(永享七年十月三日条)
関東事物言属無為、御馬数十疋被進申御礼云々。(永享七年十一月廿七日条)

信濃落居又破関東合力勿論、管領職辞退云々。(永享九年五月六日条)
関東上杉為京方致諫言之間欲被退治已及合戦(永享九年七月三日条)
関東又物忩云々。(永享十年八月廿二日条)
関東事且無為云々(永享十年九月一日条)
関東事管領分国大森拝領、而大森城墎没落云々(永享十年九月二日条)
関東事已御中違治定(永享十年九月五日条)
是関東御退治為朝敵御征伐云々(永享十年九月十二日条)
甲斐等今日東国下向、関東為征伐云々(永享十年九月十六日条)
昨夕又関東飛脚到来(永享十年十月十日条)
抑関東事西山注進到来(永享十年十月卅日条)
関東事未落居也(永享十年十一月五日条)
抑関東事注進到来、武将居所押寄焼払(永享十年十一月十七日条)
関東且無為之御礼進御剣(永享十年十一月十九日条)
関東事、先日不参人々関白以下参賀云々(永享十年十一月廿一日条)
関東首六〈上椙陸奥守父子、一色、海老名等云々(永享十年十二月九日条)
関東事人々室町殿参賀(永享十年十二月十一日条)
自関東僧上洛、武将降参事、前管領執申使節云々(永享十年十二月十五日条)
今日関東有大合戦(嘉吉元年正月一日条)
乱傷ハ関東へ可罷向之由被仰故障申(嘉吉元年正月廿九日条)
関東城一落之由注進有(嘉吉元年四月廿三日条)
関東御礼御剣〈黒〉(嘉吉元年四月廿八日条)
自関東首共上洛云々(嘉吉元年五月三日条)
自関東首共又上洛(嘉吉元年五月七日条)
東武将息三人生捕上洛(嘉吉元年五月十九日条)
関東無為之御悦事(嘉吉元年五月廿二日条)
関東賀酒(嘉吉元年五月廿六日条)
関東召人今夜被勿首云々(嘉吉元年六月十四日条)

先度関東下向之時、両度申出(嘉吉三年七月十二日条)

 

とりあえず「関東」という言葉はほぼ「鎌倉公方」その人か、「鎌倉府」かということがわかります。特に「関東○○」というような形は完全に「鎌倉府の〇〇」ということが言えます。その中で「関東大名」だけが漠然とした「東の方」という意味であるはずはあり得ません。これは「鎌倉府の重臣」と解釈すべきです。

 

ちなみに南部氏は京都扶持衆と考えられてきましたが、この史料を見る限り「南部氏=京都扶持衆」という単純化は問題だと考えます。というよりもこれは15世紀後半以降の史料に基づく憶断と言えるでしょう。またこの「南部」を三戸南部守行と見る見方もありますが、なんら根拠はありません。

 

この史料の種明かしはそのうちに論文を書きたいと思います。