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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義満袖判裁許状(『朽木家古文書』国立公文書館)

前号の文書の判決を覆す内容です。

ここからダウンロードしてみていただけるとわかりやすいかもしれません。

www.digital.archives.go.jp

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足利義満袖判裁許状

つべこべ言わずに釈文を出します。

(花押)
佐々木出羽守氏秀与称弥陀院雑掌
相論、近江国高嶋本庄内案主名事
右、彼職者、氏秀曽祖母尼妙語相伝所帯也。
而実子行綱依為不孝之質、譲与甥佐々木
出羽三郎左衛門尉頼信。頼信亦譲渡女子
愛寿、彼是給関東安堵下文訖。爰氏秀如
訴申者、尼心阿者被義絶行綱女子也。争
相伝妙語之所領乎。誤成和与去暦応四年
三月十七日雖被下御下知状、可立還本理非云々。
□(寺)家捧陳状之間、有其沙汰之処、既先□(渡)被
裁許畢。尤可為越訴歟。雖然未被定
□(置)之間、於仁政方糺決之。所詮、氏秀所帯如
永仁二年二月五日関東下文者、可令早
左衛門尉源頼信領知近江国高嶋本庄□(付)
地内案主名并後一条地頭職事、右任伯母妙
語正応五年十月廿四日譲状可令領掌、如頼□(信)
譲状者、譲渡、女子愛寿、一所近江国高嶋本庄
内案主名、一所後一条地頭職、如嘉元二年十一□(月)
十七日外題安堵者、任此状可令領掌云々。愛寿女
譲与義信、至于氏秀相続之所見也。如雑掌□□(所帯ヵ)
弘安七年十二月廿三日関東下文者、将軍家政所下、
可令早領知近江国高嶋郡内本新両庄郷々地
頭職以下所職・散在名田〈自余略之〉。彼下文者、為□□
上不書載案主職、号譲状・置文者、為行綱状之□(間)、
旁以■(匚に口)足支證之旨、氏秀所申非無其謂歟者、
一旦就和与雖被成敗、今訴論之是非分明
者哉。寺家知行、又心阿為私寄進未安堵□(之)
地也。然則當職任関東安堵下文等之旨、可令
氏秀領掌、仍下知如件。
  永和三年十二月廿一日

 下から6行目の匚の中に口は「ハ」と読むようで、「可」の反対の意味を示します。つまりここでは「ハ足」ですが、意味的には「不足」と同じと考えていいでしょう。つまり「かたがた以って支證に足らずの旨」と読めばいいかと思います。

では読み下し文です。

(花押)
佐々木出羽守氏秀と称弥陀院の雑掌が相論す、近江国高嶋本庄内案主名の事
右、「彼職は、氏秀の曽祖母の尼の妙語の相伝の所帯なり。而るに実子行綱不孝の質たるにより、甥の佐々木出羽三郎左衛門尉頼信に譲与す。頼信も亦た女子愛寿に譲与し、かれこれ関東安堵下文を給いおわんぬ。爰に氏秀訴え申すが如くんば、尼の心阿は義絶せらる行綱の女子なり。いかでか妙語の所領を相伝すべけんや。誤りて去暦応四年三月十七日に和与をなし、御下知状を下さるといえども、本の理非に立ち還るべし」と云々。
寺家、陳状を捧ぐの間、其の沙汰有るの処、既に先渡裁許せられおわんぬ。尤も越訴たるべき歟。然といえどもいまだ定置かれずの間、仁政方においてこれを糺決す。

所詮、氏秀所帯の永仁二年二月五日関東下文のごとくんば、「早く左衛門尉源頼信をして近江国高嶋本庄付地内案主名ならびに後一条地頭職領知せしむべき事、右伯母妙語の正応五年十月廿四日譲状に任せ領掌せしむべし」。頼信の譲状の如くんば、「譲渡、女子愛寿、一所は近江国高嶋本庄内案主名、一所は後一条地頭職、嘉元二年十一月十七日外題安堵の如くんば、此の状に任せ領掌せしむべし」と云々。愛寿の女が義信に譲与し、氏秀に至り相続の所見なり。

雑掌の所帯の弘安七年十二月廿三日関東下文の如くんば、「将軍家政所下、早く近江国高嶋郡内本新両庄郷々地頭職以下所職・散在名田〈自余はこれを略す〉を領知すべし。」彼の下文は、□□たるの上、案主職を書き載せず、譲状・置文を号すは、行綱の状たるの間、かたがた以って支證に足らずの旨、氏秀の申すところ其の謂れなきにあらざる歟てえれば、一旦和与に就き成敗せらるといえども、今訴論の是非、分明なるもの哉。寺家の知行、又、心阿私の寄進の為、いまだ安堵の地ならざる也なり。然れば則ち当職、関東安堵下文等の旨に任せ、氏秀領掌せしむべし、仍って下知件の如し。
  永和三年十二月廿一日 

 現代語訳をすれば以下のようになります。

「右の職は氏秀の曽祖母の妙語が相伝してきた所領である。であるのに実子の行綱が不孝者であったので、甥の佐々木頼信に譲与した。頼信もまた女子愛寿に譲与し、関東安堵下文をいただいた。ここに氏秀の訴える通りならば心阿は義絶された行綱の女子である。どうして妙語の所領を送電することがあるだろうか。誤って暦応四年三月十七日に和与をして、御下知状(前回の足利直義裁許状)を下さったといえども、本の理非に立ち返るべきである」ということである。
寺家は陳状を捧げたので裁判を行ったところ、すでに裁許されている。越訴であるというべきである。しかしまだ決定していないので仁政方で糺明した。
結論は、氏秀が持っている永仁二年二月五日の関東下文の通りであれば「早く頼信に近江国高島本庄の付け地の案主名と後一条地頭職を領知させるべき事、右の伯母の妙語の正応五年十月二十四日の譲状の通りに領掌させるべきである」。頼信の譲状の通りであれば「譲渡、女子愛寿、一つは近江国高島本庄内案主名、一つは後一条地頭職、これらを嘉元二年十一月十七日の外題安堵状の通りであれば、その状の通りに領掌すべきである」ということである。愛寿の娘が義信に譲与し、氏秀に至るまで相伝しているということになる。
称弥陀院の雑掌の持っている弘安七年十二月二十三日の関東下文の通りであれば「将軍家政所下す、早く近江国高島郡内の本新両庄の郷々の地頭職以下の所職、散在の名田を領地すべきである」。この下文は□□である上に案主職を書いていない。譲状、置文というのは行綱の状によるものであって、証拠にはならない、という点について、氏秀の主張はいわれがないわけではない。ということであるので、一旦は和与が成立したと言っても、今原告と被告のどちらが正しいかははっきりしている。称弥陀院の知行は心阿の私的な寄進であるため、安堵の地ではない。ということなので、この職は関東安堵の下文の通りに氏秀が領掌すべきである。 

 裁判の裁許状はそれぞれの証拠書類を引用するので長くなりますし、ごちゃごちゃしてしまいます。