2018-05-01から1ヶ月間の記事一覧
後花園法皇最期の様子を最も克明に今日に伝えるのは『親長卿記』です。後花園院の側近を長く務めた甘露寺親長の日記です。 文明二(一四七〇)年十二月二十六日、親長は引越しの当日でした。その日、暇を取り、晩に退出しています。ちなみにこの頃後花園法皇…
いきなり物騒ですみません。 生首が届けられた時の反応について見て見ました。 永享五年九月十四日のことです。 大外記をつとめた中原師郷の日記『師郷記』の記述です。 今日九州賊首被御覧之。去月十六日・十九日両度合戦、大内討少弐父子三人云々。 大内持…
永享十年 正月一日、四方拝、小朝拝、供御薬、元日節会 師郷記、管見記、続史愚抄 二日、殿上淵酔、供御薬 看聞日記、師郷記、続史愚抄 三日、節分、別殿行幸、供御薬 師郷記、続史愚抄 五日、叙位 師郷記、管見記 七日、白馬節会、出御 看聞日記、管見記、…
永享九年 正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供御、元日節会、出御 看聞日記、師郷記、続史愚抄 二日、殿上淵酔 看聞日記、続史愚抄 五日、叙位 看聞日記、師郷記、続史愚抄 七日、白馬節会 看聞日記、師郷記 八日、後七日御修法、太元帥法 東寺執行日記、続史…
永享八年 正月一日、元日節会、供御薬 看聞日記、続史愚抄 二日、殿上淵酔、供御薬 看聞日記 五日、叙位 続史愚抄 七日、白馬節会 看聞日記 八日、後七日御修法、太元帥法 東寺執行日記、続史愚抄 十一日、県召除目延引 続史愚抄 十六日、踏歌節会 看聞日記 …
翻訳から 三条中納言(実雅)が来た。用事は何かわからない。急いで対面した。申される内容は「室町殿様(足利義教)が京都御所を建てられて、それを伏見宮様に進上したいということです。ただ御在京は御仕えする人々にとっては難儀なことなので、このまま伏…
永享七年 正月一日、当代初度の四方拝、小朝拝、供御薬、元日節会 看聞日記、師郷記、続史愚抄 二日、殿上淵酔 看聞日記 五日、叙位 看聞日記、師郷記、続史愚抄 七日、白馬節会 看聞日記、師郷記 八日、後七日御修法 満済准后日記、東寺執行日記、東寺長者…
中世北方史をやっている研究者にとって一番目にする天皇は後花園天皇でしょう。というよりも後花園天皇以外の天皇を目にすることはほぼないと言って過言ではありません。 『東日流外三郡誌』にも出てきます。『北部御陣日記』にも出てきます。これらは以前ネ…
永享二年十二月二十日、足利義教が伏見宮貞成親王の元を訪ねました。 伏見宮貞成親王は後花園天皇の父親です。しかし後花園天皇は院政を敷いている後小松上皇の養子ということで皇位を継承しているので、貞成親王は天皇の父親という扱いは受けていません。宮…
永享六年三月二十四日には伏見宮貞成親王から『誡太子書』が献上されています。 sengokukomonjo.hatenablog.com 『誡太子書』は花園上皇が皇太子の量仁親王(後の光厳天皇)のために記した訓戒書です。現在宮内庁書陵部に存在するのはその草案で、伏見宮家か…
文安二年、ちょっとしたトラブルが起こります。後花園天皇の弟の伏見宮家の貞常親王の親王宣下を巡ってです。以下『師郷記』から。ちなみに『後花園天皇実録』ではこの話は載せられていません。天皇家のトラブルを載せるのは戦前ではまずかったのでしょう。 …
永享六年 正月一日、四方拝、小朝拝を停止、元日節会停止、平座、諒闇による 看聞日記、師郷記、満済准后日記 二日、殿上淵酔停止 看聞日記 五日、叙位停止、諒闇による 看聞日記、師郷記、続史愚抄 七日、白馬節会停止、諒闇による 師郷記、満済准后日記 八…
廿三日、晴。出京せよと仰せなので目の不調を押して出京した。室町殿に参った。対面。いろいろ仰せの詳細である。 義教「旧院(後小松法皇)のことについては諒闇が当然であろう。旧院の遺勅の勅書を拝見したところ涙が出てきた(棒)。勅書の中身は、後光厳…
看聞日記 七月十二日、祈雨奉幣 師郷記 十八日~二十七日、永享の山門騒動、延暦寺の強訴や馬借の入洛に備え、源氏物語などを火災に備えて貞成親王に預ける。足利義教、もし神輿が内裏に侵入の際には動座を奏上 看聞日記、師郷記 閏七月三日、馬借京都に侵入…
後花園天皇の永享五年の動静を見ていて、非常に気になるのは、短期間のうちに絵を頻繁にやりとりしていることです。 六月十二日、後花園天皇から貞成親王に「弘法大師絵」十巻と「智証大師絵」五巻が送贈られ、二日後には返却されています。するとまた「太神…
永享五年正月一日、四方拝停止、小朝拝あり。元日節会、出御 看聞日記、師郷記、管見記 二日、殿上淵酔 看聞日記 三日、紫宸殿で元服、加冠摂政太政大臣二条持基、理髪左大臣足利義教、御遊 看聞日記、椿葉記、管見記、薩戒記、師郷記、御遊抄、続史愚抄 四…