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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

生首が届いたら−後花園天皇の政治責任

いきなり物騒ですみません。

 

生首が届けられた時の反応について見て見ました。

 

永享五年九月十四日のことです。

 

大外記をつとめた中原師郷の日記『師郷記』の記述です。

今日九州賊首被御覧之。去月十六日・十九日両度合戦、大内討少弐父子三人云々。

大内持世が少弐満貞・資嗣父子を打ち取り、嘉頼・教頼兄弟を対馬に敗走させます。この首が届いた時の記述です。この「御覧」の主語はもちろん足利義教です。

 

次は永享九年八月一日における生首の到着に対する反応です。

 

参議中山定親の日記『薩戒記』です。

山名刑部少輔某乱入於備後国奪取国府城楯籠之。仍守護兵⬜︎押寄攻之、討取件刑部少輔、召進首於京都了。仍人々賀申相府各⬜︎銀剣等、又自内裏被遣御剣了。予為御使。 

 わざわざ「内裏より御剣を遣わされおわんぬ」とあります。これについては『師郷記』の同じ事件を述べた同年七月三十日・八月三日条にもないので、永享五年でも「御剣を遣わ」すことはあったかもしれません。

 

でも直感でしかないのですが、「御剣を遣わす」ことはのべつまくなしにやっていた訳ではないと思います。少弐満貞にせよ、山名持熙にせよ、天皇や国家に背いた、というよりは将軍に部下が背いたものでしかない、というのが室町幕府の本来のスタンスだったはずです。応永の乱明徳の乱上杉禅秀の乱足利義満足利義持時代のこういう戦乱は朝廷は局外にあったわけで、室町幕府はあくまでも幕府内部の問題として処理していました。少弐満貞は大内持世の叔父の大内盛見を討ち取ったことで持世の恨みを買っていました。ただ持世の父は足利義満に滅ぼされた大内義弘、盛見は義弘にしたがって幕府に頑強に抵抗したのち帰順した人物であることを考えれば、皮肉なものではあります。

 

山名持熙は弟持豊(宗全)との後継者争いに敗れ、それを逆恨みしたものですから、朝廷の出る幕ではないはずです。しかし後花園天皇が「御剣を遣わす」という形で参加しているのは、足利義教の方針ではないか、と思います。

 

これは義教が勤王家で、天皇の権威を上昇させるために戦争行為に加担させたのでしょうか。私は逆ではないか、と最近考えるようになってきました。明徳の乱応永の乱天皇権威を持ち出さなかった足利義満は、皇位簒奪という側面が強調されてきたこともあり、天皇権威を低くするために戦争に関与させなかったと見られてきました。しかし将軍と部下の争いに天皇を関与させることは、ある意味天皇の政治利用であり、そのような小事に天皇を関与させる必要はない、と考えていたともとれます。

 

義教は天皇権威を自己の権威を荘厳するのにフルに活用します。山名持熙の首が届いたくらいでわざわざ天皇から「御剣」を拝領する、という関係性は義満や義持には考えづらいのではないでしょうか。

 

後花園天皇永享の乱には治罰綸旨を発給し、嘉吉の乱では朝廷の多数の反対意見を押し切り、サボタージュもなんのその、自ら文案を練った治罰綸旨を出します。その後も求められるまま、というよりは自らも室町幕府の政局にどっぷり関与し、挙げ句の果てに応仁の乱を引き起こすことになります。応仁の乱の責任者に後花園天皇を挙げる人は少数派かもしれませんが、この一連の動きと、畠山政長治罰の院宣を発給したことは、まぎれもなく応仁の乱勃発のトリガーを弾いたことに他ならず、極めて重い政治責任を背負っているのはいうまでもありません。後花園天皇の評伝を著す場合には、ここは避けて通れない論点ではないでしょうか。

 

そうであるからこそ、後花園上皇伏見宮貞常親王宛の宸翰が余計に際立つわけです。彼は自らの政治責任を深く感じていたからこそ、出家し、伏見への隠遁を考えるわけですが、結局停戦交渉に奔走することになります。その半ばで血管系の疾患(中風)に倒れ、崩御します。

 

ちなみに大学で史料講読の講義をしていますと、崩御が読めず、意味も知らない学生が結構いて「昭和は遠くなりにけり」と思ってしまいました。まあ考えれば、保育園の娘の同級生のお母さんがたの中でも若い人は昭和の末年生まれだったりするわけで、学生は平成10年代の生まれなわけですから。