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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー日野勝光

久しぶりの更新です。

 

本日は日野勝光を取り上げたいと思います。

 

日野勝光は有名な日野富子の兄に当たり、その立場を生かしてかなり強引な政務運営を行い、「押大臣」(おしのおとど)と言われた、とされています。

 

NHK大河ドラマ花の乱』で草刈正雄さんが演じていた役柄で知られています。悪役として強烈な印象を残しました。

 

勝光は日野富子足利義政あるいは後土御門天皇の評伝には不可欠な人物と思いますが、おそらくは悪役としてあっさり切られてしまう気がします。

 

富子については近年は応仁の乱の黒幕という従来の見方を見直す動きがありますが、勝光に関しては知名度の問題もあってそのような動きは見られません。

 

では勝光の人生から見ていきましょう。

 

勝光は日野重政の嫡子です。厳密に言えば裏松重政というべきです。実は日野家と言っていますが、日野家の分家の裏松家です。この裏松家は足利義満の御台所を出して以降、将軍家の外戚となってきました。

 

一方日野宗家は日野有光が有名です。そしてもう一つの分家である日野西家は後小松天皇典侍として称光天皇を生んだ光範門院日野西資子がいます。

 

日野家自体は禁闕の変で有光が内裏襲撃事件というおおごとをやらかして断絶します。

 

しかし日野家よりも裏松家はもっと早くに断絶しかかっています。

 

足利義教は裏松家を憎んでいたようで、日野義資の所領を烏丸豊光に付け替えたことに激怒した義資が出家遁世を企て、栄子が義教のもとに怒鳴り込んでくるという事件があり、それ以降義資は逼塞します。

 

正室の宗子も義教によって離縁され、代わりに妹の重子が側室に上がりますが、正室は正親町三条家の尹子に代わります。

 

ところが世の中はうまくいかないもので、重子に男の子が生まれ、尹子には一向に懐妊の兆しがありません。もちろん我が足利義教は重子の男の子を尹子の猶子にしてしまいます。

 

しかも重子が嫡子を生んだことで人々が「義資さんももうすぐ許されはるやろ」と思って義資のもとにも祝賀に訪れたのですが、義教は彼らをブラックリストに入れると義資を暗殺してしまいます。義資の嫡子の重政は出家させたれ、一応6歳の勝光が家督を相続しますが、いつ取り潰されても文句は言えない状況でした。

 

勝光のこの絶望的な状況が一変するのは嘉吉の乱で、尹子はそれを契機に出家し、表舞台から引退して代わりに重子が将軍生母として力を振るい始めます。そして嘉吉の乱から禁闕の変をへてその後の幕府は重子と畠山持国、そして後花園天皇の二人三脚で運営されていきます。

 

これ以降は勝光の人生は順風満帆となります。何しろ重子のバックアップがあるのですから。

 

義教の後を継いだ義勝は急死しますが、義政が後を継いで勝光は盤石でした。やがて義政に妹の富子が嫁ぎ、彼は将軍家外戚となります。

 

しかし世の中は何もかもがうまくいくわけではありません。勝光はそのような場合にも用意周到です。

 

勝光にとって頭痛の種は義政と富子の間に子どもが生まれないことでした。30歳を超えた段階で次の世代のことを考えた義政らは弟の浄土寺義尋を後継者候補とし、還俗させて義視と名乗らせます。そして勝光はこちらにも自分の妹を嫁がせます。つまりどう転んでも勝光は損をしないようになっていたのです。

 

むしろ勝光にとっての想定外の出来事は富子が男子を生んだことでしょう。ただ義勝の例もあります。リスクマネジメントからすれば義視を一旦将軍職を継がせて将軍家の予備を作る、という方法を考えたのではないでしょうか。

 

もちろんそれにはモデルがあったと私は考えています。

 

そのころ天皇家では二つに分裂した皇統の統一がなされていました。後光厳皇統と崇光皇統です。最終的に後花園天皇は後光厳皇統を継承し、崇光皇統を後花園天皇の弟の貞常親王が継承する形がとられ、貞常親王の子孫は永代にわたって親王宣下を受けるという伏見宮家となります。後花園天皇は皇子を一人しか産ませられませんでしたが、貞常親王は子沢山で、立派にスペアを用意しています。万が一天皇家が途絶えても伏見宮家というスペアを用意したものと思われます。

 

これを将軍家にも応用しようと考えたのではないでしょうか。

 

しかし現実はいまくいきません。義視の系統に将軍家が移る可能性を恐れた伊勢貞親による義視の排斥運動を契機に義政の将軍権力は大きく削がれ、やがて応仁の乱になります・

 

応仁の乱にあたっては勝光は細川勝元による山名宗全討伐のための院宣の発給と義政の関与に反対したために、勝元に疎まれ、山名宗全派というレッテルを貼られます。近衛政家は勝光と富子について「宗全びいき」と指弾しています。しかし今谷氏は勝元に一方的に加担することに反対した勝光の判断を「正論」と評価しておられ、私もその見解に従いたいと思います。実際義政は牙旗を下し、勝元に肩入れする姿勢を示しますが、後花園上皇院宣を拒否し、中立を保ちます。

 

ただこれで勝元に睨まれた勝光は一旦逼塞しますが、乱の混乱の中で台頭してきます。勝光の姿勢は当初は西軍との和睦を念頭に置いていたと思われますが、相国寺合戦で後花園上皇らの避難先の室町殿が西軍によって炎上させられてのちは西軍を武力で鎮圧しようという方向に動きます。その具体的な動きが宗全治罰院宣です。

これには色々な背景が考えられますが、後花園上皇後土御門天皇が室町殿に避難してきたその日に義視が出奔したこと、相国寺合戦で自らの住居を焼かれた後花園・義政サイドが態度を硬化させたことなどがポイントでしょう。

 

勝光が特に活躍するのは足利義尚が将軍になってからです。

 

義尚が元服するにあたって勝元の死後空席だった管領畠山政長が返り咲きますが、応仁の乱の中で管領の権力は形骸化が進行し、しかも政長は畠山義就との戦いが続いていて在京どころではありません。

 

結局管領の代わりを勝光が務め、その死まで勝光が幕政を主導することになります。

 

日野家というのは基本的に昇進して大納言止まりで、多くは中納言でしたが、勝光は日野家の中で唯一大臣に登っています。かれが内大臣になったのは文正2年(1467)のことで、おそらくは後花園院の院執事を務めたことに対するものでしょう。つまり勝光は後花園院政を支えた一人でもあるわけです。

内大臣は勝元に睨まれた時に辞任していますが、死の直前に重体に陥った時に左大臣に任ぜられ、左大臣辞任の翌日に死去しています。

 

勝光は悪役にされがちですが、私のイメージでは後花園天皇に忠実な人物だったのではないか、と思っています。後花園の追号をめぐる議論では迷走していましたが。