足利義視ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する
足利義視といえば将軍にならなかった足利氏の中でも有名な方です。中学受験でも出てくる可能性はありますし、高校受験でも出てくる可能性はあります。応仁の乱を扱う際に「将軍家の後継争い」で試験に出なくても、名前くらいは出てくる可能性は大いにあります。
義視は六代将軍足利義教の十男として永享十一年(1439)に生誕しています。母親は義教の正室正親町三条尹子の女房の小宰相局です。
義教は兄義持が後継者を残さずに死没してその後の室町幕府に混乱をもたらしたことの教訓か、数多くの女性との間に数多くの子どもを残しています。妻妾は少なくとも十一人、子どもは現在確認されているだけで十七人います。ただみな短命で、応仁の乱の当時には四男の足利政知(天竜寺香厳院主清久)、五男の足利義政、十一男の義視(浄土寺義尋)の三人のみが生存していました。
義視は正親町三条尹子の兄の正親町三条実雅の養君となり、出家することとなりました。足利将軍家の子は嫡男は伊勢氏に養育されますが、それ以外は公家を「御父」として公家と関わる高僧として生きることとなります。義政も幼い頃は烏丸資任に養われていました。
義視の初登場は第2集46ページ、元服した新九郎が足利義政への御目見えを終えて引き上げるときに義視と出会います。そして義視は新九郎に「お主の兄、八郎はたしかに余によく仕えておる。だが、余を陥れようと謀った貞親とお主の父、盛定は赦せぬぞ!」「余の瞳が黒いうちは両名の赦免はないと思え!」と言い捨てて去ります。ものすごい顔つきで耐えている新九郎を八郎が「チョン」と足で突き、悪戯っぽい顔で「後で」と囁いています。
でその夜には八郎は新九郎に「俺もことあるごとに言われているよ」といい、義視の気性の激しさ、面差しが義教そっくりであることなどいろいろ語っています。
実際には義視の顔は伝わっていないので、彼が義教に似ていたかどうかはさだかではありません。
本作で義視に八郎が仕えているのにはいろいろややこしい事情がありました。
文正の政変で伊勢貞親と伊勢盛定が足利義視の排斥を狙って失脚、貞親の子の貞宗が政所執事を継承しますが、伊勢氏排斥の声が高まる中、貞宗は細川京兆家と関係を結んで伊勢氏にとっての難局を乗り切ろうとします。そのために元服していない千代丸に連絡役(と場合によっては夜の相手)をさせるため(勝元が「寝所に呼ぶかもしれませぬぞ」といい千代丸が「お眼鏡にかないますれば」と返事しています。1集116ページ)、細川家に通わせ、八郎を義視のそばに送り込みます。八郎は当初は抵抗しますが、その後はうまく義視のそばでの仕事をこなしていきます。
史実では義視のそばに八郎貞興がいたかどうかは明らかではありません。そもそも八郎貞興という兄が伊勢宗瑞(北条早雲)にいたらしいことまでしかわかりません。もう一つは他ならぬ伊勢宗瑞(北条早雲)が若き頃に義視に仕えていた、という説も存在しており、本作ではその辺を考慮して貞興を義視に仕えさせたということのようです。
義視はその後西軍の大内政弘上洛を受けて伊勢国に逃亡し、そのときに八郎も同行します。その途中の近江国田上荘で落武者狩りに遭い、八郎は顔面に大きな傷を受けますが、それを契機に義視のお気に入りとなり、京都に帰還後にはすっかり義視に心酔しています。「あの御方が将軍位にお就きになれば、魑魅魍魎の棲み家も随分と変わるであろう。俺はそれを支えるのだ」と言っています。
義視は西軍との講和を望む日野勝光の排斥を義政に直訴し、後見役の勝元は「まずいな」とこぼし、同朋衆から「ますいですね」「まだ登場もしていないキャラの名前だけいきなり出てくるってのは」とヒソヒソさら「いや、そーゆーことじゃなくて」と勝元は突っ込んでいます。実際勝光は応仁の乱勃発当初に牙旗を出すことに反対し、近衛政家からボロクソに書かれています。ただ『応仁記』などを見ると後花園上皇も意外と西軍との講和を望んでいたようで、朝廷の立場は拙著『乱世の天皇』でも述べています。勝光は西軍に親和的な立場をとったことで佞臣というイメージがついていますが、彼は彼なりに筋を通しただけで、この問題で責められるべきは後花園上皇だったでしょう。私見では相国寺の戦いを契機に後花園は西軍への親和的な態度を一変し、西軍治罰院宣を出しています。
勝光の処遇をめぐって隙間風が吹き始めた義政と義視ですが、第3集39ページでは「兄上が浄土寺にお見えになって四年・・・わずか四年だ!」「何故だ・・・何故こんなことになった?」と煩悶する義視の姿が描かれています。
この絵と同じポーズで塞ぎ込んでいる義視の姿は気の毒に映ります。
その夜、八郎と新九郎、そして伊都は三人で酒を飲みながら義視について語っています。そこで新九郎が八郎に「生真面目で真っ直ぐで慈悲深いだけではダメなのです、きっと」と釘を刺しています。
義政に呼び出された義視は「御赦しが出れば、これまで以上に尽くさねば」と八郎を後ろに従えてつぶやいています。しかし義視を出迎えたのはまさかの伊勢貞親と伊勢盛定で、義視はそれに大きなショックを受けています。そして義視の側近の八郎は貞親と盛定についてきた新九郎に「これでは今出川様(義視)への嫌がらせではないか!」と憤っています。
ショックで帰る義視の後ろ姿を鋭い目つきで睨みつける盛定が「有馬入道か・・・どうも今出川様の取り巻きはよくないのう」と呟き、その有馬入道元家は殺害されて義視は(主観的に)追い詰められ、伊都の輿入れの日に義視は比叡山に出奔、八郎は義視を逃がそうと追いかけてきた新九郎らの前に立ちはだかり、義視は「八郎!八郎これへ!」と呼び、八郎も義視についていこうとして「さらばだ新九郎!達者で暮らせよ!」と呼びかけた直後、伯父の伊勢盛景によって殺害されます。
義視はその後西軍に迎えられ、義政は「義視を、甘やかしすぎた!」と激怒し、ゆうき氏を「ええええ!?」と驚かせています(第3集126ページ)。
新九郎は大道寺太郎と弓矢の稽古をしながら「兄上は、今出川様が西軍に入ることを知っていたのかな?」「兄上はなんのために死んだのやら。今出川様に裏切られたような気分だ」とぼやいています(第3集130ページ)。
新九郎はそれ以降義視を敵視するようになり、第4集16ページでは「(乱が終われば_西軍に走った今出川様もお戻りになるだろう。あのお方には一言申し上げたいことがある」といって大道寺太郎は黙り込んでしまっています。
第8集42ページでは「今出川様には申し上げたき議がございます」と伊勢貞宗に言って「恨言であれば筋違いだぞ。八郎は今出川殿に忠実に仕え、それがために命を落とした。武士の習いではないか」と諭されています。
64話で応仁の乱が終結し、京都を出て美濃国の土岐成頼のもとに亡命するために義視が賀茂川を渡るときに新九郎が義視に痛烈な一言を浴びせますが、それは単行本がそこに追いついてからのお楽しみということで。
(追記)第10集でこのシーンが出ています。
史実では義視はほどなく義政によって赦免されますが、そのまま美濃に止まり、足利義尚の死を受けて子息の義材(のちの義稙)を連れて上洛します。義尚のあとの将軍職をめぐって足利政知の子の天竜寺香厳院主清晃を推す細川政元への対抗のために日野富子が義視・義材親子に肩入れしたからです。義視上洛後の三ヶ月後に義政は死去しました。
義政の法事の席で義視は蔭涼軒主の亀泉集証に対して「もともとは仲が良かったが間に立つ人のせいで疎遠になった」とこぼし、集証は義視が顔馴染みの禅僧を出世させて欲しいと申し入れたとき、禅僧たちは反対しましたが「義視の言ってきたことだからなんとか聞いてやってくれ」と主張した話を義視にしています。これを聞いた義視はにっこりと微笑んだと言います。
義視は恩人のはずの富子が政元と通じているという疑いを捨てきれず、富子が自らの小川殿に清晃を呼んだことをきっかけにして富子の小川殿を破却し、所領も奪いました。無事義材は10代将軍となり、義尚の申次衆であった新九郎もそのまま義材の申次衆となっています。
義視は将軍の父として室町殿として扱われることとなり、准后になりますが、ほどなく病に倒れ、義視の死後、将軍専制指向を強める義材と管領細川政元との関係はますます悪化し、明応の政変が起こります。
新九郎はそのころには駿河と京都を行き来するようになっており、明応の政変でどのように動くのかはわかりませんが、義材が越中に逃亡後に11代将軍将軍足利義澄の申次衆を務めています。そしてさらに義澄の母の仇を討つために伊豆に侵入し、戦国大名として成長していくことになります。
義視については以下の書籍も役立ちます。