『新九郎、奔る!』第9集の太田道灌と伊勢新九郎の談合ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する
昨日ゆうきまさみ氏の『新九郎、奔る!』第9集が発売になりました。
内容は今川義忠の戦死から今川範満の家督代行就任までの流れで、52話から58話が収録されています。そのうち5話が「道灌」という見出しで、新九郎と太田道灌との交渉がメインとなっています。
義忠が遠江に侵攻して戦死しましたが、遠江守護代の甲斐敏光は西軍から東軍に寝返ったにもかかわらず、東軍の義忠は攻撃を加え、さらに遠江在国奉公衆の勝田と横地を攻め滅ぼし、挙句に戦死しました。
いわば賊軍となった形で戦死した義忠ですが、当然その子の龍王丸が家督を継げる可能性も低くなります。しかも四歳の子どもです。
従兄弟の小鹿今川範満は扇谷上杉氏の血を引いており、扇谷上杉氏の家宰の太田道灌が駿河入りして範満支援のために駿河入りしており、さらに堀越公方足利政知も範満を支援しておりました。京都では伊勢氏の血を引く龍王丸の家督相続を目指していきますが圧倒的に分が悪い、という状況です。
で、これまでの「北条早雲」物語では、当時45歳の早雲が同い年の太田道灌と丁々発止の交渉を繰り広げ、範満を家督代行にして龍王丸成人の後には龍王丸に家督を譲るという形になった、とされています。
ところが近年の研究では伊勢新九郎は24歳若い康正2年(1456)生まれとみられており、とすればこの交渉の時には21歳となります。45歳の太田道灌が21歳の伊勢新九郎とまともにやりあうとは考えづらいと見られ、黒田基樹氏はこの時の新九郎の駿河下向はなかったのではないか、としています。
『新九郎、奔る!』では基本的に黒田氏を中心とする現在の通説に依拠しながら、昔の「北条早雲」伝説も少しずつ取り入れて物語が進められています。
例えばかつては新九郎は一時足利義視に仕えていた、という考えもありました。ただ康正2年生まれ説を取れば、義視に仕えるには年が若すぎます。本作では兄の伊勢八郎貞興が義視に仕えていたという設定になっています。
また新九郎の父は伊勢貞藤という見方も実在しました。貞藤は永享4年(1432)生まれで、実は太田道灌と同じ、つまり北条早雲の生年と考えられてきた年に生まれています。北条早雲が永享四年生まれ、というのは貞藤の事績と混乱したのではないか、と見られています。
これについて、本作では新九郎の実母である浅茅が貞藤に再嫁したという設定になっており、新九郎が誰の子になるのか、流動的になっているシーン(第2集32〜34ページ)があります。
このように本作では過去の「北条早雲」像を裏切らないような設定がなされており、その辺も読みどころです。
第9集ではまだ21歳の若造の新九郎が今川家の家督を決める重要な談合に扇谷上杉氏の家宰という大物と対等に渡り合えるはずがない、という見方をうまく使いながら、太田道灌との交渉を描き出しています。
新九郎が駿河入りしたのは彼が主たる使節ではない、という設定がそれです。あくまで新九郎は室町幕府評定衆という大物である摂津之親の配下に属しています。しかし本作での之親はやる気がありません。そこで新九郎が表に出ようと之親に願いますが、撥ねつけられます。新九郎が之親のモノマネをしながら之親に言われた「そこもとのような若輩者が、どう調停するというのだ?」という台詞を語っています。
しかし最終的に之親は新九郎に「任せる」と新九郎に投げています。
そして交渉が終わると道灌は新九郎に厳しい言葉を投げつけます。
新九郎「私の実力ではこの程度でした」
道灌「それは心得違いですぞむっしゅう」
新九郎「心得違い?」
道灌「今度の調停を己の実力で成したと勘違いしてはなりませんぞ。お手前は幕府や政所を背負っておられる。その御威光が成さしめたのだと忘れぬことです。全くの徒手空拳であったならば、お手前、百回くらい斬られておりますな。」
新九郎「百回!」
道灌「そもそも、それがしに会え申さぬ。」
道灌に己の非力さを改めて思い知らされる新九郎でした。
このように考えれば、新九郎が駿河入りして道灌とサシで交渉した、という話もありうるのではないかと思えてきます。若輩者とは言っても新九郎には政所執事の伊勢守家を背負っているのであり、それを考えれば道灌といえども配慮せざるを得ないわけです。しかも新九郎は義忠後室の弟、新九郎がこの段階で駿河入りしていた可能性はないわけではないと思います。
他にも「狐」による関東情勢の解説など、見どころたくさんです。