後花園法皇の最期
後花園法皇最期の様子を最も克明に今日に伝えるのは『親長卿記』です。後花園院の側近を長く務めた甘露寺親長の日記です。
文明二(一四七〇)年十二月二十六日、親長は引越しの当日でした。その日、暇を取り、晩に退出しています。ちなみにこの頃後花園法皇と後土御門天皇は室町第に仮住まいしていました。亥の刻といいますから、思い切りざっくり言えば午後十時前後になります。娘婿の中御門宣胤(今川義元の外祖父)がやってきます。宣胤らによれば「法皇が御気分がすぐれないので、医者を呼びました」(法皇只今損御心地、被召御医師云々)ということです。
親長はあわてて馳せ参じますが、すでに重体となっていたようです(已御大事之体也)。医者たちがやってきてそれぞれ中風である、と診断しています。脳血管の障害などにより麻痺が出る症状です。
「御薬を進ずべきの由、之を仰せらる」とありますが、「仰」の主体が難しいです。とりあえずこの段階で親長が「仰」と表記する主体は後花園法皇以外には考えづらいので、ここではまだ後花園法皇に意識があり、「薬をくれ」と言ったことにしておきます。続けて親長は「御正念已に失い了ぬ」と書いてあります。意識が朦朧としていた、ということでしょうか。
親長は後ろから抱きかかえて薬をのませようとしますが、うまくいきません。
「灸治等所々御沙汰ありと雖も叶わず」ということで、この「御沙汰」の主格も後花園法皇ということになるでしょう。とすれば、「御正念已に失」っているにも関わらず、生への執着はなかなか強いものがあった、と言えるでしょう。
その後「主上(後土御門天皇)・室町殿(足利義政)・御台(日野富子)等御参りあり」ということで、臨終の場には多くの人が詰め掛けたことがわかります。
親長は「元三大師等御立願等然るべきのよし」申し入れます。「主上尤もの由、仰せあり、已に御筆を染められ、勅使を立てらるべきの由、仰せあるのところ、卯の刻ばかりに已に御命終わる」ということで、後土御門天皇が厄除けに効き目のある元三大師の護符を勅使を立てて求めようとしている最中、午前六時に崩御します。
後土御門天皇は臨終に立ち会ったのでしょうか。この点が非常に気にかかります。天皇は死に立ち会わないというのが決まり事ですから、父親の法皇であろうとその死に立ち会うことはできないはずです。「御筆を染め」、勅使を立てるために席を外している間に臨終を迎えたのかもしれません。さらに言えば、灸や投薬を指示し、生への執着を見せる後花園法皇とは逆に、後土御門天皇はその死を予感し、死の穢れを避けるために理屈をつけて退出していたのかもしれません。しかし同じ室町第にいることは避けられません。この点は結局そもそも天皇が室町第に長く滞在していることが異例で、そのために朝儀も行われない状況になっています。
法皇の弟の伏見宮貞常親王が著した「山賤記」(やまがつき)によると、二十七日夜中、伏見にいた貞常親王のもとに「法皇が中風で突然倒れた、いそぎ参られよ」という知らせがきたので(法皇の御方御中風にや、にはかに御ことそこなはれぬる。いそぎまいるべきよし侍りしかば)、「くれはてぬほどのまいりつきて聞しに、はや此明ぼのに御事きれはべる」ということです。
後花園法皇は泉殿の座敷に北を枕に寝具もそのままかけて、生きているような姿だった、と貞常親王は述べています(泉殿の三間の御ざしきにや、北を御枕にて夜の御ふすまなども、只そのままひきかけて御とのごもりぬる、ありしに替らぬ御姿ながら、むなしく見なし奉るかなしさ)。
貞常親王は臨終の様子をことこまかに尋ね、それを書き記しています。同じ場所にいたので天皇や足利義政がやってきて、医師たちもいろいろ手を尽くしたが、いささかも持ち直すことなく、明け方に灯火の消えるように命も消えて行ったことなどを聞き出すにつけても、臨終に立ち会えなかった無念さを書き記しています(おなじ殿の中にわたらせたまへば、行幸もやがてなり、准后もまいり給ひて、くすしなにかのさはぎにて、さまざまの事ども、夜とともにしつくさせ給へど、聊もみなをし奉らず、あけはつる程に、灯火のひかりと共にきえはてたまひし御ことなど、たずね聞き侍るに、いまはの御きはにさへ、あひ奉らぬかなしさ、いへばをろかなり)。
貞常親王がここまで無念だったのは、単なる文学的修辞の可能性も否定できませんが、臨終に間に合わなかったことが実際無念だったのではないでしょうか。貞常親王が法皇危篤の報を受け取ったのが夜半、到着が「くれはてぬ」ころで、グレゴリウス暦では一月十八日なので午後五時ごろには到着していたとは思いますが、伏見から烏丸今出川付近までの所要時間を考えれば、午後になってから出発したのでしょう。楽観視していたのかもしれません。
にしても、思うのは、例えば後白河法皇の臨終は、念仏を七十篇唱えて座ったまま眠るが如くであった、と言います。棚橋光男氏は『後白河法皇』(講談社メチエ、一九九五年)の中で「後白河らしく最後までにぎやかな、文字どおり眠るがごとき大往生であった」(p125)と述べています。
白河法皇は「霍乱」で「死期が近いことをさとった法皇は、新院と待賢門院が「死穢」にふれぬようにと、還御をうながした」と、美川圭氏は『白河法皇』(NHKブックス、二〇〇三年、p243)と述べています。
死期を悟り、それへの備えをしている彼らに比べると、後花園法皇の場合はその死が突然やってきたこともあって、バタバタしています。本人も無念さが先だったのではないでしょうか。体の自由がきかず、意識も混濁していく中で彼の脳裏をよぎったものは何だったのでしょうか。それを考えて見たいと思っています。