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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇から成仁親王への手紙

後花園天皇の皇子はどんな人?父帝との関係は?調べてみました。

 

後花園天皇には皇子が一人しかいませんでした。嘉楽門院大炊御門信子所生の成仁(ふさひと)親王です。母親の大炊御門信子は実際には大炊御門家の姫ではなく、地下の楽人の娘です。医師の和気氏の養女になって後花園天皇の下臈となり、唯一の皇子を産んだことから大炊御門家の養女となって国母となりますが、他の上臈たちに皇子が生まれれば生家の身分の低い信子所生の成仁親王は門跡に入室する運命でした。しかし結果として後花園の唯一の皇子であったため、彼が儲君となります。

 

この後花園から成仁へ送られた手紙が今日残っています。「後花園院御消息」と言われ、『群書類従』などに収められています。

 

大日本史料』にも収載されていて、そこには頭注で内容が書かれていますので、その頭注をみていきましょう。

 

アウトラインを示しておきます。

「言動は重々しくしなさい」

連歌の時にやたら他人の句を難じてはいけない」

漢詩を理解することができないのにやたらに問いを発してはいけない」

「幼少の頃よりわがままであることはいけない」

「学問・芸術に励まなければならない」

「中国の文明を知らなくては万事に恥をかく」

「よく分からないことは伏見宮貞常親王に尋ねなさい」

「小鳥をコレクションするのをやめなさい」

結構口うるさいです。中国文明、というのは当時のグローバルスタンダードです。グローバルスタンダードに基づかない思考はだめだそうです。天皇とか朝廷といえば「日本の伝統」というイメージが強いですが、やはり何らかのスタンダードを踏まえない議論は恥ずかしいという意識が後花園には強かったようです。当時の知識人とはそういうものなのでしょう。耳が痛いっす。

 

「言動は荘重を要す」

いきなりかましてくれています。原文では「御進退などは如何にもしづかに重々と候はんずるにて候、御こは色なにとやらんきふきふと聞え候、やはらかにのどやかに仰付られ候べきにて候」というところです。話し方にまでケチをつけています。

 

現代語訳を示しておきます。「御進退などはいかにも静かに重々しくなさるべきです。お声が何やら汲々と(余裕がないように)聞こえます。やわらかにのどやかに発声なさるべきです。」

 

連歌の時、濫に他人の句を難ずる勿れ」

多分に他人のアラを探す悪癖があったのでしょう。「連歌の時人のいたし候句などいかにわろく候へばとて、そこつに難を入られ候事しかるべからずおぼへ候」と言っています。それどころか難もない句にケチをつけて恥をかくリスクまで指摘しています。「しぜん難も候はぬ句などをとかくおほせられ候はんずるは、かへりて御ちじよくにて候べく候」というところです。

 

連歌の時、人の作った句がいかに出来がよくなかろうとも、粗忽に難を入れられることはよろしくありません。」ということは後花園から見て成仁はしばしば粗忽に難をつけているのでしょう。「難もない句などをとかく仰せられるのは逆に恥辱となります」とまで言っています。

 

「漢句を解する能はずして濫に問を発する勿れ」

 これは長いです。

又和漢連句のとき、漢の句いで候へば毎度ふしん候、これはをての御尋にて候はんずれ、とても連句のことは一向御存知候はぬうへは、あながち当座の御ふしんはそのせんなき事にて候、肝要は連歌まじり候事にて候ほどに、さやうの時、御句を出され候はんずるまでにて候、さりながら漢句つまり候ときなどにて御句など付られたきやうにも候はば、さやうの時御ふしんも候べきにて候、そのうへしぜんやすき句など御たづね候へば、これほどに文字かたなど疎々しき御事にて候かと、人の存じ候はんずることも、かつうは口惜やうに候、とても一座後日に御覧ぜられ候べきうへは、その時いかにも御不審候て、御けいこの便りにもせられ候べく候、殊に近比の会など室町殿太閤いしいし厳重に伺候せられ候事にて候、聊のことも御心に御心を添られ候て御謹候はんずるにて候、ただうち心やすくさいさいしこうのものさへ人人の心中は辱かしきことにて候、ましてやとさまさいかくのかたがたは、いかにも見落され候はぬやうに、誰々もありたき事にて候

 「やすき句など御たづね候へば、これほどに文字かたなど疎々しき御事にて候かと、人の存じ候はんずることも、かつうは口惜やうに候」というところは「簡単な句などをお尋ねになれば、ここまで漢文の素養がないのか、などと人々に知られるのが大変残念であります」ということで「聞くは一時の恥、聞かぬは一生の恥」とは逆のようです。確かに学生は簡単なこと、些細なことでもどんどん教員に聞くべきですが、それは学生が教員に比べてその講義に関することは知識が少ない、という前提があってのこと、確かに古文書の調査で簡単な文字を聞くのはいささか恥ずかしい、というのはわかります。だから仲のいい人にこっそり聞くようなものです。私も多用しました。

 

「御幼少より放縦なるを誡めらる」

かなり手厳しいです。では後花園が実際にどう書いているかを見ましょう。

惣じてそれの御事はおさなくいらせおはしまし候時より、をそろしく辱かしき人も候はぬやうに思召候て、御心のままに御そだち候ゆへに、今に御心づかひもかやうに候かとおぼへ候、猶もおさなき御年にても候はばせめては罪さり所も候べきにて候、今にをきては御成身の事にて候、いかにもいかにも御身を謹まれ、世の欺けり候はぬやうに、御嗜候はんずるがかんようにて候 

 手厳しいです。

そうじてその事は幼くいらっしゃったころより自分が恥ずかしくなるほど立派な人もいないように思って、心のままに育ったゆえに今も心遣いもそんなものか、と思います。なおも幼い年でもあれば仕方がないというところですが、今は成人なさっているのです。いかにも身をお慎みになって、世の中にバカにされないように努力することが重要です。

 手厳しいです。かなり成仁親王の人格に危機感を持っていることが伺えます。この点後花園の父親の貞成親王が後花園に送った書状とはかなり色合いが違います。貞成は自分を贔屓にしない後花園に不満を漏らしていますが、後花園は成仁親王の現状の人間性に著しく不満を持っています。

 

「学問諸芸を勧まし給う」

後花園は成仁親王に学問諸芸を勧めています。ただポイントは後花園のいう「学問」とは漢学のことです。当時は中国の思想を身につけなければ文化人とはいえませんでした。今日では欧米の学問を基準にして様々な物の見方が組み立てられているように、当時の日本の文化はその根底に中国文明があったのです。この点を見逃していては当時の日本の文化の姿は見えてきません。

 

「幾度申ても御学文を先本とせられ候こそ御身の誤りをもあらためられ、人のよしあしをも正され候事にて候、能々御稽古候べく候、その外は公事かた詩歌管絃御手迹など御能にて候」

 

ここでの「学文」が基本的な漢学の素養ということになります。後花園も最初に四書五経から学んでいます。ちなみに後花園の成績は「言語道断」=言葉にならないほど素晴らしい、というものだったそうで、この点儒学を徹底的に研究した花園天皇との共通点があります。

 

訳は次のようになります。「何度申しても、漢学をまず基本とすること頃ご自身の誤りを改め、人の良し悪しを正すことにもなります。よくよく勉学に励むべきです。そのほかには政治や詩歌・管弦・手習いなどが必要です」

 

「漢才に乏しければ万事に辱を招く」

今まで述べてきたような、当時の日本文化における中国思想の影響を考えれば、中国文化について熟知しなければ恥となる、ということです。

 

「漢才に疎く候へば万事につけて未練恥辱なることのみにて候」

 

ここはずばり短く言っています。

 

「小鳥の飼養を戒めらる」

以下の部分です。

此ちかごろ小鳥などあつめられ候て御すきのよしきき進らせ候、これまたしかるべからす候、なにとしてもかやうの無用なる事に心をうつし候へば、かんようさたし候べき事はそばになり候習ひにて候、そのうへかやうのなぐさみはおさなき時の事にて候、万事をさしをかれ候て御稽古をはげまされ候事にて候べく候 

 手厳しいです。

近頃小鳥など集められて趣味になさっていることを聞きました。これまたよろしくありません。何としてもこのような無用なことに心を移しますと、重要なやるべきことがおろそかになるものです。そのうえこのような慰みは幼きころのものであって、今は全てに優先して学問に励むべきことです。

 

しかしこの手厳しさも後花園が成仁を立派な天皇にしたいがためなればこそです。

「皇儲たるべき心得を示さる」とあります。

返々それの御事はすでに儲君の御事にて御みやうがも候はば践祚の一だん勿論の事にて候、よのつねの竹園などの御あてがひにはかはり候はんずるにて候、御心だてなどいかにも柔和に御慈悲ぶかく候て、人をはごくまれ候はんずるにて候、何としてもはらあしく短慮に候へば人のそしりをうけ我身も後悔し候事にて候、かまへて当時後代の謗をのこされ候はぬやうに御心をもたれ候はんずるにて候、かやうの事どもさのみ申候へばさだめて御気にちがひ候はんずれども、我身申候はではたれかけうくん申候べきぞにて候程に心中をのこさず申候 

 意味です。

返す返すそれらの事はすでに儲君(皇太子)となって冥加(神仏の助け)もございますので践祚なさることは当然のことです。世の常の宮家とは立場が異なります。心だてなどいかにも柔和に慈悲深くなさって、人を慈しまれるものです。何としても性格が悪く短慮でありますれば人の誹りを受け、自分でも後悔することになります。絶対に現代・未来の人々に謗られないように心がけなさりませ。このようなことだけ申しますればおそらく気分を悪くされるでしょうが、私が申さねば誰も教訓を伝える事はないので私の思うことを残さず申しました。

 成仁に対する厳しさも深く広い愛情があればこそ、です。後花園は成仁に立派な天皇になってほしいのです。そのためにはあえて厳しいことも言う必要があったのです。

 

これを受けて成仁、後土御門天皇がどのように感じたかはわかりません。ただ後土御門は思い通りにならない治世に煩悶した事は彼の残した和歌からも伺えます。

 

誓いありと 思ひうる身に なす罪の 重きもいかで 弥陀はもらさむ

 

戦乱の責任を自らの背負い、真摯に向き合う後土御門の心意気が現れた和歌です。実際には戦乱の責任はむしろ後花園が背負うべきものだと私は考えますが、後土御門はその責を一身に引き受けました。

 

一方で偉大な父親と比較される事は彼にとってプレッシャーとなったでしょう。今は後花園のことで手がいっぱいですが、後土御門とも全力をあげて向かい合わなければならないと思っています。

 

いかがでしたか?後花園天皇天皇という地位に何を求めていたのか、後花園天皇の政治思想などが少しは伺えるのではないでしょうか。おそらく最も読みにくい「いかがでしたか?ブログ」ですが、ここまで読み通した方には深くお礼を申し上げたいと思います。ここまで読んで下さりありがとうございました。