敷政門院の病
『看聞日記』(かんもんにっき)と言えば、室町時代に関心のある人ならば必ずどこかで関わっているはずの日記です。このブログでもしばしば言及していますが、もう一度復習しておきますと、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王の日記です。しばしば「看聞御記」(かんもんぎょき)とも記載されます。
この日記は応永二十三年(1416年)正月一日より始まり、文安五年(1448年)四月七日条まで続く長い日記です。ただ嘉吉三年年末以降は途切れがちになり、文安四年の太上天皇尊号宣下の記事がいくつかあるだけで、文安五年四月七日に最後の記事が書かれます。文安五年の記事自体、わずかに二月二日、二月四日、四月七日の三日間だけで、もはや貞成親王は記事を書く気力がほぼ無くなっていたことがうかがえます。
文安五年といえば貞成親王はもう七十七歳、持病の脚気と中風の具合もよくなかったのでしょう。しかも長く連れ添った妻の庭田幸子の病状が文安四年の冬以降思わしくなかったようです。
貞成親王への尊号宣下の問題ですが、禁闕の変の直前に後花園天皇は貞常王の元服と親王宣下の後に行うことを考えていたようですが、禁闕の変が起こり、延期になってしまいます。そして貞常王の元服直後に貞成親王に関するスキャンダルで親王宣下も遅れ、その関係で広橋兼郷らが追放処分になります。具体的にはよくわかりませんが、小川剛生氏は貞成親王が後花園天皇を退位させ、貞常王を登極させようとしている、という噂ではなかったか、としていらっしゃいます。
そのこともあってか、貞成親王への尊号宣下はのびのびになっていましたが、文安四年十一月二十七日、ついに尊号宣下、つまり貞成親王への太上天皇号が贈られたのです。万里小路時房の日記には庭田幸子から後花園天皇への働きかけがあったことを記しています。
ここから判断すると尊号宣下が遅れたのはやはり後花園天皇自身にためらいがあったのであって、それは貞成親王にまつわる噂と無関係ではないでしょう。
冷えた関係をとりなしていたのが庭田幸子だったのでしょう。そのころにはすでに病状が悪化していたようで、後花園天皇も病状の重くなった、余命も少ない母に頼まれれば拒否できなかったのかもしれません。
贈られた尊号ですが、三ヶ月ほどで貞成親王はそれを辞しています。これは当初からの予定でしょう。
尊号辞退の六日後、後花園天皇は貞成親王のもとに行幸して幸子を見舞います。三月四日には敷政門院の女院号を贈りますが、この一連の行動は幸子の病状が深刻化したからです。その前日には趣味の闘鶏も中止しています。
その一ヶ月後の四月十三日、敷政門院庭田幸子は薨去します。
後花園天皇は後小松上皇と光範門院日野西資子の猶子であるため、諒闇とはなりませんでした。しかしその後の朝廷行事は少なからず変更されています。