大館尚氏登場ーゆうきまさみ氏『新九郎、奔る!』を解説する
ぐずぐずしているうちに第13集が出て久しくなりました。
13集では大館尚氏(おおだちひさうじ)が活躍しています。「大館」は「大舘」と書かれることが多いので本ブログでは「大舘」で通します。
初登場は意外と古く、第2集の69ページ、「蜷川新右衛門の室町コラム④」に奉公衆五番頭として出てきます。
名前だけ66ページに出てきます。細川勝元襲撃事件の実行犯が奉公衆五番衆だったことで「五番衆というと番頭は大舘殿か」「切腹物だな、これは」と伊勢家内部で囁かれています。
他人事のように「その点我が一番衆の番頭は細川淡路守だ」「右京大夫殿にとって、これほど頼りになる番衆はおるまいよ」と言ってますが、そこに大道寺太郎が「伊勢備中守様に御謀反の疑いありとのことで、一番衆は御所には入らず備中守邸を包囲せよと!!」と入ってきます。新九郎の母と弟がいるところです。
第10集では足利義政と義尚が細川聡明丸(政元)の邸への御成の際の御供衆を新九郎が務めてますが、その御供衆を取り仕切っていたのが大館治部少輔尚氏です。
13集では新たに申次衆となった新九郎の前に指導者的な存在として出てきますが、新九郎に対し「僭越でござるぞ、新九郎殿。聞けば御所様の幼き頃よりの親しいおつきあいのようでござるが」「今度の申次はこの大館治部が全権を任されておるのだ!それがしがお願いして参る!!」と威圧しています。新九郎の従兄弟の伊勢貞固が「新九郎、お前なぁ、大館殿の面子をつぶすようなこと言うなよ」とぼやいています。
大舘氏は新田氏の一門で、鎌倉攻めの時に極楽寺切通を攻めて大仏貞直の家臣本間山城左衛門に打ち取られた大舘宗氏が有名です。宗氏の兄の綿打為氏は北畠顕家とともに戦って戦死しています。
宗氏の子の氏明も南朝方として奮戦し、細川頼春と戦って戦死しています。
氏明の子の義冬が佐々木京極導誉の取りなしで足利義満に仕えることとなり、大舘氏は奉公衆五番衆の番頭を代々務めてきました。
足利義政の乳母で「三魔」と呼ばれた今参局は大舘満冬の娘です。
満冬の兄の満信の曽孫が尚氏です。享徳三年(一四五四)の生まれですから新九郎より2歳の年長となります。ちなみに尚氏の叔母に義政側室の大舘佐子がいます。
足利義尚の側近として台頭し、義尚死後も一旦は失脚しますが、すぐに幕政に復帰し、その後も奉公衆・申次衆・内談衆など、義尚・義稙・義澄・義晴の側近を歴任します。変わり身の速さが持ち味で、ややこしい政治情勢をうまく潜り抜け、天文十五年(一五四六)まで生存が確認されています。少なくとも90歳を大きく超える天寿を全うした人物でした。
大舘尚氏は晩年は出家し「常興」と名乗りますが、この「常興」の方が有名です。『大舘常興日記』は足利義晴政権、ひいては戦国期室町幕府を研究する上では必須の資料であり、また『大舘常興書札抄』は書札礼の検討に欠かせません。また彼が集積した『大舘記』は室町将軍家の御内書の集積であって、室町幕府全体の研究に大きく寄与しています。『大舘記』は天理大学に所蔵されています。