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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『看聞日記』における足利義教ディスについて3

今回は「履薄氷之儀恐怖千万」です。永享九年二月九日です。

原文を挙げておきましょう。

公方三条へ渡御。仍棰三荷、鯉一喉、菱食一遣之。毎度為佳例遣之。西芳寺坊主参。御茶〈廿〉献之。対面給扇。康富参。御読書如例。抑東御方三条へ御共被参。御雑談之時一言悪被申。御腹立忽御追出。仍伏見禅照菴被逃下。言語道断驚嘆無極。三条も観世事被執申不許。七八献了早々還御。毎時無興云々。世上も有物言赤松身上云々。播州、作州可被借召之由被仰云々。

 文中に出てくる「東御方」は伏見宮栄仁親王の妻で、三条家の出です。当年すでに70台後半の老女ですが、義教のお気に入りになって、伏見宮家と義教の一つのパイプとなっていました。

詳しくはこちらをご覧ください。

sengokukomonjo.hatenablog.comここで注目されるのは赤松満祐のことが出ていることです。

 

ちなみにその後の流れを復習しておきますと、仰天した貞成親王は御乳人(後花園天皇の乳母で庭田重有の妾)を使わして西雲(大炊御門信宗のきょうだいか)に尋ねたところ、中国渡来の絵をけなした、とかで「金打」に及んだ、ということです。貞成親王は「頗天魔所為歟」と嘆いています。西雲が伏見に使者として赴いて「伏見殿に今までのように祗候せよ」という命令を伝えています。義教にしては思いやりのある行動とは言えるでしょう。義教にとっては伏見宮家は大事にせねばならなかったことが分かります。

 

翌日には東御方は貞成親王のところに顔を見せています。ただ結構激しく動いています。というのはそのころ貞成親王は一条東洞院にいたはずで、彼女が逃げ帰った伏見禅照菴は伏見区です。彼女は三条実雅邸つまり正親町東洞院から京都市地下鉄烏丸線に乗って、竹田で近鉄京都線桃山御陵前で降りて、翌日には京阪中書島駅から丹波橋駅近鉄・京都地下鉄に乗り換えて今出川駅で降りれば、というわけには行きません。多分輿を使っているのでしょうが、結構大変だと思います。貞成親王は結構小心で「お許しは出ているがどうだろうか」とわざわざ西雲から三条尹子(義教正室)にお伺いを立てています。尹子は「お許しが出ているのであれば今まで通りでよろしいのではないでしょうか」と返事をしてきたため、東御方は今まで通り伏見宮家に仕えることになっています。

 

注目すべきは尹子の役割です。畠山満家満済亡き今となっては尹子しか義教のブレーキになれる人物がいなかったのでしょう。

 

伏見宮家も尹子には足を向けては寝られないほど世話になっていますが、それはまたのことにします。

 


看聞御記  「王者」と「衆庶」のはざまにて / 横井清 【中古】

 


室町時代の一皇族の生涯 『看聞日記』の世界 (講談社学術文庫)