ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します南部晴政
株式会社スクウェア・エニックスが展開する戦国IXAをネタ元に戦国時代を解説するシリーズです。
今回は「三日月の丸くなるまで南部領」と言われる南部氏の最盛期を築いた南部晴政です。
南部晴政は大殿としては二度目の登場で、前回は2017年に登場しています。
「黒ひげ危機一発」という感じですね。
南部晴政は「南部家第24代当主で「三日月の丸くなるまで南部領」と謳われるほどの領土を誇ったワン!晩年に長男が生まれた事で婿養子だった信直との関係は悪化したらしいワン…。」と紹介されています。
南部氏は源頼義の子で源義家の弟に当たる源義光(新羅三郎義光)の子孫である甲斐源氏の末裔です。名字の地は甲斐国南部郷(山梨県南部町)です。南部氏は陸奥国糠部に所領を拝領(奥州合戦を契機とされるが裏付ける史料はない)し、鎌倉時代は将軍家随兵として鎌倉での活動が目立ちます。また糠部を含む陸奥国の津軽・下北半島周辺はほぼ得宗家(北条氏本家)の所領となっていましたので、北条氏の御内人という側面も有していました。
南北朝の内乱では南朝方と北朝方に分裂し、南朝方に付き従い、のちに北朝方に寝返った南部政行や「関東大名」として足利持氏の使者として京都に赴き、砂金と糠部の駿馬を室町将軍に贈った南部守行、十三湊を陥落させ、津軽安藤氏を北海道に追いやった南部義政、下北半島における大規模な反乱であった蠣崎蔵人の乱を鎮圧した南部政経などが知られています。ただ守行・義政らの三戸南部氏と政経らの八戸南部氏が両立し、いろいろとややこしい関係もあったようで詳細は分かりません。
戦国時代には三戸南部氏が力をつけ始め、三戸南部氏の安政が足利義晴からの一字拝領(偏諱ともいう)によって晴政と改名します。この時けっこうもめたようです。要するに南部氏に一字拝領を行った前例がなかったのです。室町時代中期に南部義政が室町将軍の一字を拝領した、という書き方がなされますが、はったりである、と断言して良いでしょう。
晴政は宿敵の安東愛季との激闘や八戸南部氏をはじめとする南部一門を三戸南部氏の家臣として再編するなど三戸南部氏最盛期を築き上げますが、嫡子に恵まれず、石川高信の子の信直を婿養子に迎えて後継者とします。
しかし南部晴継が生まれたことで信直との関係が悪くなり、さらに南部氏の一門の大浦為信が叛いて石川高信を討滅し、津軽地方を支配したことから晴政は苦境に追い込まれます。信直との対立は晴政の死の直後に晴継が13歳で急死(疱瘡とも信直による暗殺とも言われる)し、南部氏は信直が継承することとなります。
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ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します安東愛季
株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」に出てくる武将カードの解説シリーズ、一人目・二人目は著名な人物である足利義昭と本願寺顕如ですが、第21章の武将は基本的にマイナーな武将が多く、織田信長・豊臣秀吉・徳川家康はもちろん毛利元就・伊達政宗・武田信玄・上杉謙信も出てきません。
今回は安東愛季(あんどうちかすえ)という人物です。
上の図は2021年バージョンですが、2018年バージョンもあります。
ちなみにこんなバージョンのカードもあります。こちらは「レアリティ」が低いカードで入手しやすく、その分能力も劣るカードです。ちなみに今まで紹介してきたのは全て「天」という最高の「レアリティ」を持つカードです。
「愛」という文字に引っ張られたのかな、と思っていたら同様の意見を戦国IXAWikiでも見かけました。私は好みではないのでこのバージョンは持っていません。
安東愛季とはまたマイナーな武将で、「好きな戦国武将は誰ですか?」と聞かれて「安東愛季です」というとまず「???」という雰囲気になるのではないか、と安東愛季ファンとしては思っています。
安東愛季はIXAブルには「下国安東家8代当主で「斗星の北天」と評された出羽の逸材だワン!中央政権の情勢にも明るく、交易によって一大国を築きあげた人物なんだワン!」と説明されています。
まずはこのようなマイナーな人物の場合は○○家から説明を。
安東家は出羽国の秋田・能代付近を中心に北海道に移住した和人(アイヌ以外の日本人のこと、アイヌ語でいうシサム)の宗主権を保持していた大名です。
この家の場合その祖先伝承が特異で、一部の家では神武天皇の大和入りに抵抗し、敗北して殺害された長髄彦の兄の安日彦の子孫とされています。その家系がのちに安倍氏となり、安倍氏の子孫のうち東北に残った子孫が安藤氏・安東氏と言われています。鎌倉時代から室町時代前半までは「安藤氏」、室町時代からは「安東氏」と表記されることが多いです。
鎌倉時代には「安藤五郎」という人物が「ゑそ」との戦いで戦死したこと、安藤氏が「蝦夷管領」と呼ばれていたこと、十三湊を拠点としてアイヌとの交易に携わっていたことが明らかとなっています。その時の実績によってしばしば「安東水軍」と呼ばれることもあります。
「蝦夷管領」という呼称から「蝦夷」つまりアイヌを支配する存在と考えられたこともありますが、どう考えてもアイヌとの交易を「管領」する得宗御内人であることがわかっています。
ちなみに「得宗御内人」とは、得宗つまり北条氏本家の家来という意味です。得宗は下北半島と津軽半島を含む青森県の広範囲の地頭職を持っていました。そのような場所は概ねアイヌとの交易を通じて利益を上げていた場所であると考えられています。アイヌ自身もさらに北の諸民族と交易をしていましたので、安藤氏を通じて得宗にも巨大な利益をもたらしていたことは間違いありません。
南北朝時代には北朝方として奮戦し、その結果安藤氏は津軽半島に大きな交易拠点を持つ「京都扶持衆」つまり室町幕府と直接主従関係を持つ有力な勢力となっていきました。
安藤氏は宗家の下国氏が十三湊に、分家の湊氏が秋田に、もう一つの分家の潮潟氏が現在の青森に、それぞれ拠点を築き、アイヌとの交易を通じて大きな利益を得ていました。また鎌倉時代から和人が北海道に進出し、アイヌとの交易を進めるようになると、彼らの統率も安藤氏の仕事となりました。
そんな安藤氏の境遇が一変するのは南部氏によって十三湊を落とされた時です。北海道に逃亡した安藤氏は室町幕府に助けを求め、幕府も話し合いの結果将軍足利義教の御内書を出して南部氏との和睦を持ちかけますが失敗に終わります(なお幕府の斡旋によって安藤氏が十三湊に戻ってきた、とするのは史料の誤読の積み重ねに基づく成り立ち得ない解釈です。詳しくは拙著『乱世の天皇』をご覧ください)。
十三湊から北海道に移った安藤氏は十三湊復活のために若狭国小浜の羽賀寺の修築を後花園天皇の勅命によって行う(後花園天皇が出てくるのは小浜が禁裏御料所だからです)など、室町幕府周辺に向けて様々な工作を行いますが、最終的に宗家の下国氏が壊滅し、潮潟氏の政季も捕虜になるなど湊氏を除いて崩壊します。
享徳の乱の余波を受けて武田信広らとともに下北半島を脱出した潮潟政季らは北海道に上陸したのち、湊氏からの呼びかけで政季は檜山(秋田県能代市)に移動します。政季は下国を名乗り、通称檜山安東氏を名乗るようになります。
その後も北海道南部の和人への名目的な宗主権を保持し、道南の有力者であった蠣崎季広とハシタインとチコモタインの三者の和睦(私見では領土分割条約)を取り持つなどの活動や、京都に拠点を築くために朝倉氏と交流をもったり、若狭武田氏を通じて足利義晴と関係をとりもとうとしたり、という活動が見られます。
下国安東氏が大きく飛躍するのは安東愛季の時代で、愛季は湊氏の内紛に介入し、湊氏と下国氏を統合してしまいます。その結果安東氏は現在の秋田県の大半を領有する戦国大名となり、さらに織田信長と関係を持って従五位下侍従の官途を獲得します。これは津軽に勢力を持っていたものの津軽為信に滅ぼされた浪岡北畠氏の後継者を意識したものと見られます。
出羽国北部(現在の秋田県)の沿岸部を抑えた愛季ですが、さらに内陸部に力を伸ばそうと角館の戸沢氏との戦い中に戦陣中で病死しました。彼の晩年か彼の嫡子の実季の代に安東氏は秋田氏を名乗るようになり、江戸時代には陸奥国三春藩(福島県三春町)の大名となって明治時代を迎えます。
過去記事はこちら
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ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します本願寺顕如
株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」の武将カード説明、今回は前回までに引き続き「大殿」の二人目の本願寺顕如を見ていきたいと思います。
足利義昭はこちらから。
上記の絵は本願寺顕如2021年バージョンです。
IXAブルの説明では「浄土真宗本願寺派第11世宗主だワン!天皇家も認めた門跡寺院として力を保持し、優れた戦略と圧倒的な軍事力で仏敵である織田信長を10年近く苦しめたんだワン!」となっています。
本願寺はもともとは日野家の親鸞に始まり、親鸞の血を引く一門として大きな力を持っていました。戦国時代の始まりごろに本願寺顕如によって大きく勢力を伸ばし、しばしば室町幕府とも抗争を繰り広げています。
顕如は諱を光佐といい、顕如は号で本願寺十世の本願寺証如の子として生まれています。母は権中納言庭田重親の娘で、顕如自身は関白内大臣九条稙通の猶子(養子の一種、相続関係にはない)になっていました。
三条公頼の娘の如春尼と結婚していますが、如春尼の姉妹は武田信玄や細川晴元に嫁いでいます。
彼の時代に正親町天皇の勅命で門跡寺院となり、それまで比叡山延暦寺の青蓮院門跡の影響下にあった本願寺は自立していきます。そして大坂本願寺(石山本願寺)を中心として朝廷や幕府などとの強力なパイプを持った本願寺顕如は畿内の新たな実力者となった織田信長と対立することになります。
元亀元年(1570)、顕如はかつて足利義輝を暗殺して足利義栄を擁立したものの織田信長に擁立された足利義昭と対立した三好三人衆と連携して足利義昭・織田信長に対して挙兵します。この時朝倉義景や浅井長政も応じて第一次信長包囲網が形成されます。これは正親町天皇による勅命講和が成立しますが、その後も信長と本願寺の対立は続き、本願寺は三次にわたる信長包囲網のいずれでも中心的な役割を果たします。
しかし1580年には勅命によって信長と講和し、顕如自身は大坂本願寺を退出し、紀伊国の鷺森別院(和歌山県和歌山市)に移っています。
大坂本願寺の地は大坂城となり、さらに本願寺は京都に移転して現在の西本願寺と東本願寺となります。
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ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します足利義昭 3
一応戦国時代の歴史の専門家の端くれである私が株式会社スクウェア・エニックスの戦国ゲーム「戦国IXA」をプレーしながら、そこに出てくる武将について解説します。
足利義昭3です。
前回までの記事はこちらです。
織田信長から「朝廷を大事にしないとお兄さんみたいになりますよ?」と詰問され、「死ね」と返していましたが、これは「異見十七箇条」の第一条です。「お兄さん」とは足利義輝ですね。
この時織田信長は非常に低姿勢で義昭のところにお許しを請いに行ったそうです。義昭のプライドに配慮したのですね。
織田信長「あのー、将軍様、今回のことについてはこちらから人質を出しますので何とぞ穏便にお許しいただけないでしょうか」
ちなみに京都中に織田軍が充満し、義昭は完全に外部との連絡をたたれて孤立している、とお考えください。
足利義昭「お前の言うことなど聞いてやるか、ふじこふじこ!!」
信長、義昭の支持者の多い上京を焼き払いプレッシャーをかけます。
信長「上京、焼き払っちゃいました\(//∇//)\」「あと主上(正親町天皇)にも講和のお話をお願いしております。」
「主上まで引っ張り出してきたか。そこまで言うならばお前と講和してやらんでもない。」
「やっぱりお前の言うことなど聞いてやるもんか。挙兵してやるpgr」
槙島城(京都府宇治市)で挙兵も信長に速攻攻められ降伏、京都から追放され、ここに室町幕府は一応つぶれました。実際には幕臣の中には義昭に従ったものもおり、将軍家の直轄地と京都五山のトップの任命権を持ち続けるなど、室町幕府はその後も続いた、という見解もあります。
京都から追放された義昭は信長の部将である羽柴秀吉に護衛されて若江城(大阪府東大阪市)に移りますが、若江城主の三好義継と信長の関係も悪化したため堺(大阪府堺市)に移ります。そこで羽柴秀吉と交渉することになりました。毛利輝元からも安国寺恵瓊らが遣わされ、こもごも義昭に信長の元に戻るように説得します。
羽柴秀吉「信長様は義昭様に是非京都に戻ってきていただきたいと仰せです。」
安国寺恵瓊「そうですよ。ここは信長殿のもとにお戻りになるべきです(こいつに頼られたら毛利も困るしな)
「人質を送るなら考えてやらんでもないm9(^Д^)プギャー」
(駄目だこいつ・・・早くなんとかしないと・・・)
その後義昭は信長包囲網を作ったり、毛利輝元のもとに転がり込んで鞆幕府を作ってみたりします。何しろ義昭は征夷大将軍を辞任していませんから、義昭はずっと征夷大将軍だったわけです。
本能寺の変で信長が滅びた時には大喜びであちらこちらに「信長ざまぁプークスwwwめしうま草生える」と書状を送っています。本能寺の変黒幕説もありますが、主流ではありません。
豊臣秀吉「義昭さんさぁ、もういい加減将軍やめてこちらに来ない?老後の面倒みてあげるよ」
「わっかりました〜。」いそいそ
という感じで大坂にやってきて秀吉の御伽衆(顧問)として一万石の隠居料をもらい、そこでゆったりと優雅な老後を過ごした、とされます。ちなみに足利将軍家で一番長寿を全うした人物でもあります。
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ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します足利義昭編2
前回の記事はこちらです。
前回は織田信長に擁立されて室町幕府15代将軍になったところ、つまり「天下布武」の実現まで見てきました。
今回は織田信長と足利義昭の関係について見ていきたいと思います。この時期の信長の方針は「天下静謐(てんかせいひつ)」つまり足利将軍家のもと、畿内の平穏が保たれることを目標としていました。
足利義昭が織田信長の傀儡(かいらい=操り人形)だった、という見方は根強いです。しかし虚栄心が強いくせに無能な足利義昭は信長を邪魔に思って排除しようとし、逆にやられた、というのが古典的な理解だったと思います。
それに対し「織田信長包囲網」を作ったりしてなかなかの人物だったのではないか、という見方が最近のドラマなどでは多用されています。
まず第一のポイントは「義昭は信長の傀儡だったのか」ということでしょう。
本日は義昭の室町幕府をみていきます。
1 義昭と信長の蜜月
義昭は室町幕府を再興するにあたって信長を是非とも取り込みたいと考えたようです。義昭は三管領家をなんとか復帰させようと三好三人衆を行動を共にしていた細川六郎を自陣営に迎えて自分の一字を与えて昭元と名乗らせ、自分に以前から従っていた畠山昭高(秋高が正しいらしい)とともに管領家を復活させましたが、斯波武衛家の斯波義銀(よしかね)は信長を排除しようとしてすでに信長に追放され、その後信長に許されて津川義近と名乗り織田家中に組み入れられていたため、不在でした。義昭は信長に斯波家の家督と管領職を渡そうとしましたが、信長はこれを固辞します。斯波武衛家の家督も尾張守護の地位も管領も信長の構想にとっては無意味なものだったのでしょう。信長にとって必要だったのは室町幕府の権威だけであって、幕府の内部に深入りするほどの気はなかったと考えられます。
その結果、室町幕府と織田信長が役割を分担する、という二重政権の形になった、という見方が有力です。つまり裁判や土地の保障や守護の任免などは義昭を頂点とする幕府が、軍事・警察権は織田信長が担当する、という形です。そしてこのような二重政権は末期の室町幕府ではしばしば多用されていたとも見られています。例えば足利義稙政権と大内義興、足利義晴政権と六角定頼・三好長慶などの関係がまさにそうです。
信長が義昭に突きつけたとされる「殿中掟」には「奉行衆に意見を聞いた以上は将軍が直接裁決してはいけない」「奉行衆を通さずに直接将軍に訴え出てはいけない」など、将軍の権力を制約する文言があるところから、信長が義昭を抑圧し、それに義昭が反発した、と見られてきました。しかしこのようなあり方は信長ー義昭に限られたものではなく、むしろ室町幕府において将軍の独裁を防ぐためのシステムとして常に採用されてきたものであることが明らかになってきました。
また信長が義昭の権力を厳しく削った、とされる「五箇条条書(ごかじょうじょうしょ)」についても、近年ではあくまでも信長と義昭の権限を確定した、という見方が有力です。義昭の御内書(ごないしょ=将軍の命令を伝える文書)に信長の副状を付ける、というのも特におかしなことではありません。この辺は室町幕府の政治史、古文書学を一通り理解していればそれほどややこしい話でもありません。しかしその辺をしっかりしていなければ「信長が義昭の権力を押さえ込もうとしている」としか見えないかもしれません。
特にこの条書の第四条は「天下のことについては何事も信長に任せられたのであるから、誰をも通さず、上意も得ることもなく信長の思い通りに行う」というように訳すると、信長の好き勝手にできるように読めます。これが「翻訳」の難しいところで、言葉を現代の我々と同じ意味で使っているか、という点を吟味しないといけません。しかし「天下」「成敗」の意味を考えれば、現在の我々が想像するように信長に全権が与えられた、と考えるのはあまりにも単純な「翻訳」です。この場合「天下」というのが義昭を頂点とする畿内の秩序と解釈すれば、義昭の権力を維持するために信長は必要な措置、つまり軍事的な「成敗」を講ずる、という意味に訳すべきです。
つまりこの「五箇条条書」によって信長は室町幕府の名前で自分の軍を動かすことができ、室町幕府は信長の軍を室町幕府の軍として扱うことができる、という形になっているわけです。
2 織田信長包囲網とは何だったのか
戦国IXAでカードを入手するには「くじ」を引きます。くじを引いた時に出た武将の説明をしてくれるのですが、義昭については昨日示しましたように紹介してくれています。
その中にこのような文言があります。
「将軍の権威を蔑ろにする織田信長に対し、諸将と連携して信長包囲網を張ったワン!」
「信長包囲網」といっても実は3回作られています。よほど信長はあちらこちらから目の敵にされていたのでしょう。そういえば面白いネタを見かけました。どこで見かけたのか、覚えていませんが、一応次のようなネタです。細かいところは覚えていなかったのでこちらでアレンジしています。
織田信長「朝廷をもっと大事にしないとお兄さんみたいになりますよ?」
足利義昭「タヒね」
織田信長「ちょw、信玄さん、竹千代くんと何かあったの?」
武田信玄「タヒね」
織田信長「ちょw、謙信さん、なに本願寺と和睦しちゃってるんすかwww」
上杉謙信「タヒね」
第一次信長包囲網と呼ばれるものは、信長が朝倉義景の上洛を求めたところ、拒否されたために出兵中に浅井長政に裏切られ、京都に命からがら逃げ帰ったあとに形成されたものです。姉川の戦いで勝利した信長・徳川家康連合に対し、比叡山延暦寺・長政・義景・荒木村重・三好三人衆などが信長打倒を掲げて立ち上がりますが、信長は正親町天皇と義昭を動かして和睦を結んでしまいます。したがって第一次信長包囲網では義昭は信長と共同歩調をとっており、義昭も場合によっては包囲の対象だった、ということもいえます。
第二次信長包囲網はもう少しややこしく、義昭が武田信玄らに御内書を出し、信長包囲網を構築したかのように考えられがちですが、実際近年の研究では信長と信玄の決裂はもっと遅く、義昭が信玄に御内緒を出しているころはまだ信玄と信長は親しかった、と見られています。
しかし義昭が信長と本願寺の和睦を信玄を仲介して行わせようとしたことから雲行きが怪しくなります。信長としては室町幕府の権威はあくまでも信長が独占したいところです。しかし義昭は信長に全てを委ねるのはリスクが高すぎます。義昭・信長の両者にとって脅威である本願寺顕如の妻は幸いにも信玄の妻と姉妹でした。義昭はそこに賭けたのでしょう。しかしこれは信長との取り決め違反でした。信長と義昭の関係は明らかに悪化します。
信玄と信長の関係の決裂を決定づけたのは、上のネタでもありますように徳川家康との関係がややこしくなったからです。信長と家康の同盟と同時に信長は信玄とも同盟を組んでいました。しかし信玄と家康は遠江の支配権をめぐって対立関係にあり、信玄が家康の領土に侵入を開始した時に信長と信玄の関係も決裂しました。信長は家康に援軍を送りますが、織田・徳川連合軍は三方原で無惨な敗北を遂げます。
信玄の遠江侵攻を受けて義昭は信長を見限ったようで、三方原の合戦直後に信長は伊達輝宗(伊達政宗の父親)宛の書状で義昭への怒りを表明しています。信長はこのころ上杉謙信にも信玄の「裏切り」への怒りを表明しており、信長にとっては大変な時期だったと思われます。
ブチギレた信長は義昭に対して「異見十七箇条」を出し、義昭が朝廷を蔑ろにしていること、義昭の依枯贔屓が幕臣の間の分裂と不満を招いていること、義昭が金品を強引に集めていることなどを非難しています。
このころの信玄や本願寺などによる信長への敵対行為を第二次信長包囲網と呼んでいますが、始まりの元亀二年(1571)あたりはまだ信長と義昭は対立を深めておらず、信長と信玄の決裂が元亀三年(1572)9月以降、義昭と信長の決裂が元亀三年末と考えられることなどを見ると、第二次信長包囲網の存在が義昭と信長の離反を誘った、といえそうです。
義昭は三方原の合戦における信長・家康連合軍の惨敗を見て挙兵しましたが、最悪のタイミングで信玄が病死し、信長は一息つきました。ここに信長包囲網は崩壊しました。
足利義昭3に続きます。ここでは室町幕府の滅亡と鞆幕府論について説明します。
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ガチ?の戦国時代研究者?が戦国ixaの武将を学術的に説明します1足利義昭
私は室町時代を専攻する歴史学研究者の端くれです。最近は戦国時代のことも勉強しています。その成果として以下の著書にも書かせていただいています。
1 戦国ixaとは
戦国ixaとは、ファイナルファンタジーなど数々のゲームで有名な株式会社スクウェア・エニックス様がやっている戦国シミュレーションゲームです。
プレーヤーは12名の戦国大名のいずれかに属して戦うゲームですが、詳しくは以下をご覧ください。
2010年8月からサービスが開始され、11年目に入っています。
今回の大殿は「足利義昭」「本願寺顕如」「安東愛季」「南部晴政」「佐竹義重」「里見義弘」「武田勝頼」「前田利家」「雑賀孫一」「宇喜多直家」「有馬晴信」「相良義陽」となっています。「織田信長」や「豊臣秀吉」や「徳川家康」あるいは「武田信玄」や「上杉謙信」「伊達政宗」といったわかりやすい武将は今回は登場していません。前回は先程のわかりやすい武将は全て登場していましたが。
というわけで、戦国ixaに出てくる武将カードを片っ端から説明していきたいと思います。
2 足利義昭
今回は足利義昭を説明していきます。
言わずと知れた室町幕府最後の将軍です。幕府を滅ぼしてしまった、ということもあって「ダメ人間」扱いですが、最近では見直しも進んでいます。私の印象は、評価の難しい人間、という印象です。
以下彼の人生をざっくりみていきます。
足利義輝の弟で室町幕府第15代将軍だワン!
将軍の権威を蔑ろにする織田信長に対し、
諸将と連携して信長包囲網を張ったワン!
歴代足利将軍の中では最も長生きしたワン!
以上です。
「これでは足りない。IXAブルの説明で済ますな、という声もあるのでもう少し詳しくみていきます。
足利義昭は室町幕府12代将軍足利義晴の次男として生まれました。母は近衛尚通の娘の慶寿院、同母兄に13代将軍足利義輝、 同母か異母かは分かりませんが弟に相国寺鹿苑院主周暠(しゅうこう)がいます。
彼自身当初は母の実家の近衛家と関係の深い興福寺の一乗院門跡となり、覚慶(かくけい)と名乗ります。
しかし永禄の変で兄の足利義輝と弟の周暠が殺害され、覚慶自身も幽閉されます。覚慶が殺されなかったのは、興福寺の高僧である覚慶を殺すと興福寺を敵に回すことになり、大和国に絶大な力を持つ興福寺を敵に回したくなかったから、と言われています。これが覚慶の命を助け、三好三人衆の運命を決定づけました。
覚慶は叔父の大覚寺門跡義俊(ぎしゅん)や幕臣の三淵藤英・細川藤孝・一色藤長らの手引きを受けて脱出し、還俗して義秋(よしあき)と名乗ります。当初は近江国矢島御所(滋賀県守山市)に本拠を置いて上杉謙信らに上洛と三好三人衆及び彼らに擁立された14代将軍足利義栄の排除を呼びかけていましたが、実際問題、義昭を擁して上洛し、三好三人衆と足利義栄を排除するのは面倒くさいです。乗り気だったのは三管領家の一つで河内と紀伊の境目にわずかに勢力を残していた畠山高政・滋賀県南部を押さえていた六角承禎程度で、その中で義秋らは敵対していた織田信長と斎藤龍興の和睦を実現させ、六角承禎と信長を連合させて上洛させよう、というものでした。しかし龍興と信長の和睦は実現せず、上洛を開始した信長に対して龍興は襲撃して信長を尾張に撃退し、六角承禎も離反して足利義栄派に寝返ってしまいます。
このような状況を見て義秋は若狭の武田義統を頼りますが、最終的に越前の朝倉義景を頼ることになります。
越前に移った義秋ですが、ここで義昭と改名し、上洛するために色々と努力しますが、実際問題、挙兵して足利義栄と三好三人衆を排除するのはかなり大変です。義景も当然そのようなことに力を使うのも気が進まないでしょう。我々はややもすれば「なぜこのチャンスに上洛して天下を取ろうとしない」と思いがちですが、すでに天下は三好三人衆と足利義栄によって握られている、というのが正しく、それをひっくり返す一種のクーデターを起こそうというものです。
そのような無謀な動きに乗ってくれる人物が現れました。尾張の守護代の織田氏の一門である織田信長です。このころには尾張国を統一し、さらに美濃国を制圧して斎藤龍興を追放し、浅井長政との同盟を組んで尾張から近江を制圧していた信長にとってはさらに勢力圏を西に伸ばしていくには義昭を擁立して三好三人衆を排除することができる状況になっていました。義昭は越前を出て尾張に向かい、義昭を擁立した織田信長は上洛を開始して三好三人衆を排除することに成功します。摂津国に滞在していた足利義栄は阿波国に退き、ここに信長による「天下布武」は成功しました。
ちなみに「天下布武」とは「日本を武力で制圧する」という意味ではありません。斎藤龍興を排除した段階で足利義昭を擁立し、畿内を制圧して室町幕府を再興させる、という意味です。この辺は神田千里氏の以下の本を読んでいただければ書かれています。もちろん上掲の『虚像の織田信長』の秦野担当部分を読んでいただければ大変嬉しいのですが、ネタ元は神田氏の下記の著作です。
足利義昭、次回に続きます。
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2月3日受付開始のラボール学園「府市民講座」のお知らせ
私、秦野が登場する講演です。
公益社団法人京都勤労者学園(ラボール京都)府市民教室の講座の講師として講演します。
府市民教室 2020年度第4期 文芸・歴史コース ★戦国古文書 大友氏の文書
府市民教室 2020年度第4期 文芸・歴史コース 京都の寺院
2月3日(水)午前10時より受付開始(4日以降は午前9時から受付)
申し込みは授業料を添えて直接ラボール学園まで
(075)801ー5925 e-mail gakuen@labor.or.jp
★戦国古文書 大友氏の文書
本講座では、戦国時代のくずし字に慣れ親しむことを主目的とし、当時を代表する人物が残した古文書などをテキストに授業を進めます。
今回は豊後国(大分県)を中心に北九州を支配した大友氏の文書を読んでいきます。大友義鑑、大友義鎮(宗麟)の時代の文書を読んでいきます。
字のくずれ方の激しい文書も登場することがありますが、努力次第で読めるようになります。難解なくずし字、むずかしい言い回しを読み解いた時の達成感は格別です。難解な文書を読み解く喜びを味わってみませんか。
講師 秦野(はたの) 裕介(ゆうすけ)(立命館大学授業担当講師)
受講料 5回 7,000円(資料代含む)
日程 3/12、 4/9、 5/14、 6/11、 7/9
曜日・時間 毎月 第2金曜日
午前10時~正午
持ち物 筆記用具・くずし字用例辞典
★京都の寺院
京都には多くの寺院があります。寺院の歴史を知ることは、京都の歴史を知ることにもつながります。本講座では京都を代表する寺院から三つを選んで取り巻く歴史・関わった人々に焦点を当てて神社の歴史を見ていきます。
今回は金閣寺・等持院・妙心寺を取り上げます。いずれも京都を代表する寺院で、その歴史は波乱万丈の歴史でした。金閣寺では、足利義満による創建、室町幕府衰退の中での苦労、観光寺院に活路を見出す近代、等持院では足利尊氏の菩提寺として室町幕府の中で与えられた特殊な地位、さらには歴代将軍の木造の秘密に迫り、妙心寺では花園天皇の創建に始まり、多くの戦国大名にゆかりのある禅僧の輩出などの歴史を見ていきます。
講師 秦野(はたの) 裕介(ゆうすけ)(立命館大学授業担当講師)
受講料 3回 4,800円(資料代含む)
日程とテーマ
3/24 金閣寺
4/28 等持院
5/26 妙心寺
曜日・時間 月1回 第4水曜日(祝日は休講)
午後1時30分~3時30分
持ち物 筆記用具・くずし字用例辞典