明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉連署状
今日は明智光秀・中川重政・丹羽長秀・木下秀吉連署状を読みます。禁裏御料であった丹波国山国荘の関係です。山国荘は光厳院が常照皇寺に入り、修行したところであり、光厳天皇・後花園天皇の山国陵と後山国陵があります。
藤田達生・福島克彦編『明智光秀 史料で読む戦国史3』(八木書店)の「明智光秀文書集成」4号、7号文書です。
4号文書です。
禁裏御料所山国庄之事、数年宇津右近大夫押領仕候、今度信長遂糺明宇津ニ可停止違乱之由申付候、両御代官へ信長以朱印申渉候、如前々為御直務可被仰付候由、御収納不可有相違候、宇津かたへも堅申遣候、此等之旨可有御披露候、恐々謹言
四月十六日 木下藤吉郎 秀吉(花押)
丹羽五郎左衛門尉 長秀(花押)
中川八郎右衛門尉 重政(花押)
明智十兵衛尉 光秀(花押)
立入左京亮殿
奥野高広『織田信長文書の研究』165号です。
読み下しです。
禁裏御料所山国庄の事、数年宇津右近大夫(頼重)押領仕り候、今度信長糺明を遂げ、宇津に違乱を停止すべきの由申し付け候、両御代官(庭田重保・高倉永家)へ信長朱印を以って申し渡し候、前々の如く御直務として仰せ付けらるべき候の由、御収納相違あるべからず候、宇津かたへも堅く申し遣わし候、此等の旨御披露あるべく候、恐々謹言
禁裏御料所(天皇の所領)で丹波国の国人の宇津頼重が収めるべき年貢を納めていなかったので、困っていたのが禁裏御倉職(みくらしき)の立入(たてり)宗継でした。御倉職は朝廷御用達の金融業者です。つまり禁裏の財政を掌握していたのは金融業で、ある意味民営化ですね。
この辺は渡邊大門『明智光秀と本能寺の変』(ちくま新書、2019年)に詳述されています。
現代語訳です。
禁裏御料所の山国荘のこと、この数年宇津右近大夫が押領しております。今度信長が糺明を行って、宇津に違反行為をやめるように申し付けました。二人のお代官様には信長が朱印状で申し渡します。以前からのように朝廷の直務(朝廷が直接支配すること) として仰せつけられるようにとのこと、年貢の収納について違反があってはなりません。宇津方へもしかと申し遣わしました。これらの点を披露なさってください。
当然山国荘の年貢を横取りしている宇津頼重へも信長の命令は伝達されます。これが7号文書です。これは写真版がありますので、改行を写真版の通りにします。「明智光秀文書集成」をお持ちの方は33ページをご覧ください。
此中申旧候
禁裏御料所
山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉如
先規、自
禁中可被仰付之
旨、信長以朱印
被申渉候、聊不可
有御違乱候、此旨
各より可申旨候、恐々
謹言
丹羽五郎左衛門尉
四月十八日 長秀(花押)
秀吉(花押)
中川八郎右衛門尉
重政(花押)
明智十兵衛尉
光秀(花押)
宇津右近大夫殿
御宿所
読み下しです。
奥野高広『織田信長文書の研究』166号です。
此の中(うち)申し旧(ふ)り候禁裏御料所山国庄〈枝郷所々、小野・細川〉、先規の如く、禁中より仰せつけられ候べきの旨、信長朱印を以って申し渡され候、聊かも御違乱あるべからず候、此の旨各(おのおの)より申すべき旨に候、恐々謹言
現代語訳です。
この中でずっと申しております禁裏御料所の山国荘〈枝郷があちらこちらにあり、小野・ 細川〉は、先例のように禁中より仰せつけられる(禁裏の直接支配にする)べきであることを、信長の朱印状によって申し渡しました。一切違反してはいけません。この旨を我々から申すべきである、ということです。
『織田信長文書の研究』の解説によると、宇津氏の押領は天文9(1540)年から継続しており、弘治2(1556)年には松永長頼(内藤宗勝)の攻撃を受けたこともあります。ちなみに松永長頼は丹波国の守護代で、松永久秀の弟です。