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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇の生涯−宝徳二年正月一日〜十二月三十日

宝徳二年
正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会
康富記、師郷記
二日、御薬供、殿上淵酔
康富記、師郷記
三日、御薬供
師郷記
五日、叙位延引
康富記、師郷記
六日、叙位を追行
康富記、師郷記
七日、白馬節会
康富記、師郷記
八日、後七日御修法、太元帥法
東寺執行日記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会
康富記、師郷記
二月二日、釈奠延引
康富記
四日、大原野祭、祈年祭
康富記、師郷記
九日、春日祭延引
師郷記
十二日、釈奠を追行
康富記、師郷記
二十一日、春日祭追行
康富記、師郷記
二十六日、園韓神祭
康富記、師郷記
三月三日、御灯
師郷記
二十三日、軒廊御卜
師郷記
二十七日、筝御灌頂、内大臣洞院実熙これを授け奉る
続史愚抄
二十九日、県召除目を追行
看聞日記(二十六日・二十七日・二十八日・二十九日)、師郷記(二十六日・二十七日・二十八日・二十九日)、続史愚抄
この日、将軍足利義成参内、蹴鞠、当座和歌会
看聞日記、師郷記(二十八日・二十九日)
四月五日、稲荷祭
東寺執行日記
十日、松尾祭を行う、平野祭は延引
師郷記
十一日、梅宮祭
師郷記
十四日、この日より内侍所三箇夜御神楽、この日吉田祭延引
続史愚抄(十四日・十五日・十六日)
二十二日、日吉祭を行う、平野祭追行
師郷記
二十三日、賀茂祭
師郷記(二十一日・二十三日・二十四日)
五月二日、四角四堺祭、疫病流行による
師郷記(四月二十六日・二十七日・五月二日)、続史愚抄
八日、この日より禁裏で不動法
康富記
この日今宮祭
康富記
十四日、権大納言三条西公保を内大臣
康富記、師郷記
十六日、延暦寺と多武峯寺の奏請により根本中堂如来像および多武峯本尊を持って勅作に擬す、共に永享年中に焼亡し、この度新造された
康富記
二十七日、延暦寺六月会を行う、六月四日おわる
康富記(二十七日・六月四日)、続史愚抄(二十七日、六月四日)
六月八日、吉田祭追行
康富記
十一日、月次祭、神今食
康富記
十四日、祇園御霊会
康富記(七日・十四日)、東寺執行日記(七日)
十五日、祇園臨時祭
康富記
二十日、祈雨奉幣
康富記
二十七日、権大納言三条実量を内大臣
康富記
三十日、大祓
続史愚抄
七月七日、乞巧奠、詩歌楽会
康富記
八月四日
北野祭、同臨時祭
康富記(一日・四日)
六日、釈奠
康富記
十五日、石清水八幡宮放生会延引
康富記
十六日、駒牽
康富記
十八日、御霊祭
康富記
二十二日、夢窓国師影を禁裏に召し、御受衣および仏塔御敬礼、法号を円満智と定める
康富記、続史愚抄
二十七日、勅使を遣わして夢窓国師に仏統国師諡号を賜う
康富記、続史愚抄
九月九日、重陽節句、平座
康富記
十一日、伊勢例幣を追行
康富記
十六日、石清水八幡宮放生会を追行
康富記(十五日・十六日・十七日)
三十日、夢窓国師百年忌法会、勅使を臨川寺天龍寺に遣わす
康富記、東寺執行日記
十月一日、旬、平座
康富記
八日、大外記清原業忠、礼記を進講
康富記
十一月七日、平野祭、同臨時祭
康富記
八日、梅宮祭
康富記
十二日、園韓神祭
康富記
十三日、鎮魂祭
康富記
十五日、豊明節会を停め、平座
康富記

常盤井宮恒興王への親王宣下

宝徳元年十月二十三日、『康富記』には次のような記載があります。

今夜法親王宣下也。勧修寺宮令蒙此宣給。太上法皇之御養子也。実者常磐井宮御子也。元令任大僧都給云々

 

 彼は諱を恒興といい、1431年に直明王の第二王子として生まれ、1509年に遷化しています。常盤井宮家は亀山天皇の末子の恒明親王の子孫です。恒明親王は亀山院が寵愛した皇子で、亀山院は後宇多院後二条天皇の子である邦良親王ではなく恒明親王後二条天皇の皇太子にするように命じますが、そのような無茶がいつまでも通るわけはありませんでした。大覚寺統の分裂を招きかねない亀山院の動きに後宇多院への反感を持っていた持明院統の伏見院も乗っかりましたが、幕府は流石に大覚寺統の分裂がより混迷を招くと見て同意せず、尊治親王後醍醐天皇)が立太子し、恒明親王の登極への夢は絶たれます。

 

常盤井宮家はその後も順調に推移しますが、当時の宮家は世襲が前提ではないために、それなりの苦労をします。三代目の満仁親王は自らの愛妾を足利義満に差し出してなんとか親王宣下を勝ち取ります。この辺の世襲親王家の問題も掘り下げればいろいろ面白そうです。ちなみに『研究論集 歴史と文化』第3号所収の曽我部愛氏の「鎌倉期王家における皇統の断絶と在俗皇子について」は必読でしょう。

sites.google.com明王はさらに悲しい人生です。彼は越前の所領をめぐる裁判で一条家に敗北します。ところが世の中には優しい将軍様がいらっしゃって、敗訴して土地を取り戻せなかった失意の直明王に北海道の鮭・昆布の京都における専売権を献上します。ちなみに現在の貨幣価値に換算すれば年間5000万円相当です。太っ腹です。しかしその優しい将軍様の皇室愛あふれる処遇に不満を述べたて、さすがに優しく心の広大な将軍様もキレてその専売権(年間5000万円相当)を取り戻し、それを伏見宮家の与えてしまいます。ちなみにこの心の広大で優しい将軍様はこの人です(下図)。

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この尊皇心あふれるやさしい将軍様はどこからこの専売権を持ってきたのでしょうか。答えは先年崩御した後小松院の典侍であった国母の光範門院です。尊皇心が急速に薄れているような気がしますが、まあいいでしょう。ちなみにキレていろんな人を殺すのはやさしくない気もしますが、まあ大目に見ましょう。ちなみに後花園天皇が鮭に関して好き嫌いを言ったので後花園天皇には鮭を贈らなくなり、昆布だけになっています。好き嫌いを言うのはよくありませんね。

 

明王はその後困窮の極みに陥りますが、心優しく尊皇心あふれる将軍であらせられる足利義教様の癇に障った人を援助したりすれば、いかに心が広大な将軍様であっても許してくれそうにないので、誰も援助しなかったのでしょう。

 

義教様が赤松満祐に殺されてしまってからは直明王の皇子たちが貞成親王の庇護下に入ったようで、全明親王や今回の恒興王(恒弘法親王)を養子に迎えています。室町時代大覚寺統を保護した天皇家についても調べてみたいと思っています。

 

後花園天皇の生涯−文安六年(宝徳元年)正月一日〜十二月三十日

文安六年
正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会出御、敷政門院のことにより国栖歌笛停止
師郷記、続史愚抄
二日、御薬供、殿上淵酔は停止
師郷記
三日、御薬供
師郷記
五日、叙位
師郷記
七日、白馬節会、出御、但し立楽を停止
師郷記
八日、後七日御修法、太元帥法
東寺執行日記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会、出御、但し国栖立楽停止
看聞日記別記院号事、師郷記、続史愚抄
二月四日、祈年祭大原野祭延引
康富記、師郷記
この日蘇合香伝授、洞院実熙より
洞院実熙蘇合香伝授状
六日、釈奠、但し宴穏座を停止
康富記、師郷記
九日、春日祭延引
康富記、師郷記
十四日、園韓神祭
康富記、師郷記
十六日、大原野祭追行、小除目、この日別殿行幸
康富記、師郷記
二十一日、春日祭追行、この日海門承朝に宝智円明禅師号の宣下
康富記
この月、祈念穀奉幣延引続史愚抄
三月三日、御灯
師郷記
二十七日、県召除目追行、この日祈年祭再延引
康富記(二十三日・二十四日・二十五日・二十六日・二十七日・二十八日)、師郷記(二十三日・二十四日・二十五日・二十六日・二十七日・二十八日)
四月一日、旬、平座
康富記、師郷記
二日、祈年祭追行
康富記、師郷記
五日、稲荷祭
康富記、東寺執行日記
十日、大地震神泉苑築地破損、松尾祭、平野祭延引
康富記(十日・十三日)、師郷記
十一日、梅宮祭
康富記、師郷記
十三日、敷政門院一回忌、安楽光院で御経供養
康富記、師郷記
十四日、吉田祭延引
康富記、師郷記
十六日、左馬頭足利義成元服により御剣を賜う、義成剣、馬、砂金を献上
康富記、東寺執行日記
十七日、地震により諸社寺に祈祷命令
康富記
二十二日、平野祭、同臨時祭、日吉祭を行う、この日松尾祭再延引
康富記、師郷記
二十三日、賀茂祭
康富記(二十三日・二十四日)、師郷記(二十一日・二十三日・二十四日)
二十六日、吉田祭を追行
康富記、師郷記
二十七日、伊勢一社奉幣使発遣、地震の厄を祈禳のため
康富記、師郷記
二十九日、左馬頭足利義成に征夷大将軍並びに禁色等の宣下
康富記、師郷記
五月九日、今宮祭
康富記
十四日、別殿行幸、この日仁王経を法身院に修せしめる、二十日結願
師郷記、続史愚抄
十五日、軒廊御卜、連日地震並びに春日社羽蟻の事による
康富記、師郷記
二十九日、祈雨奉幣使を発遣
康富記
六月四日、延暦寺六月会を延引
続史愚抄
十一日、月次祭、神今食を行う、八社奉幣を附行
康富記(五月十八日・六月十一日)
十二日、諸社寺に祈祷命令、疫癘飢饉による
康富記、続史愚抄
十四日、祇園御霊会延引
康富記
二十八日、丹生川上、貴船両社に止雨奉幣使を発遣
康富記
二十九日、大祓
康富記
七月七日、乞巧奠、詩歌楽会
康富記
二十日、改元年号勘者宣下
康富記、師郷記
二十八日、改元、文安六年を宝徳元年とする、天災地変の厄による。この日京畿諸国に大般若経、仁王経などを転読せしむべきことを仰せ出す
師富記、元秘別録、看聞日記別記、東寺執行日記、続史愚抄
宝徳元年八月四日、北野祭延引
康富記、続史愚抄
九日、釈奠、但し宴穏座を停止
康富記
十五日、石清水八幡宮放生会を延引
康富記
十六日、駒牽
康富記
二十二日、軒廊御卜、六月に伊勢外宮に怪異のため
康富記
二十三日、祈年穀奉幣使発遣
康富記
二十四日、松尾祭追行
康富記
二十七日、小除目、小叙位を附行
康富記、続史愚抄
二十八日、六月に伊勢外宮怪異、この日宣旨を神宮禰宜に下し、祈祷せしむ
康富記
この日征夷大将軍足利義成初めて参内、議定所で謁見
康富記
二十九日、昨夜より虫腹(寄生虫による腹痛)に罹患したが今夕改善
康富記
九月九日、重陽節句、平座
康富記
十一日、伊勢例幣
康富記
十四日、造伊勢外宮御杣は美濃国木曽内岩殿山にすべき宣旨を造宮使に賜う
康富記
二十六日、随心院前大僧正祐厳に准三宮宣下
康富記
十月二十三日、常磐井宮王子大僧都恒興に法親王宣下
康富記
閏十月二十三日、天地災変祭を陰陽師賀茂在貞の宅で行わせる、前月二十五日、三星合による
康富記
十一月一日、朔旦冬至、旬
看聞日記別記
三日、平野祭を行う、春日祭は延期
康富記
四日、梅宮祭
十五日、再び石清水八幡宮放生会、春日祭延引
康富記
十七日、朔旦叙位延引
続史愚抄
十九日、大原野
康富記
二十日、園韓神祭延引
康富記
二十一日、鎮魂祭
康富記
この日、石清水八幡宮放生会を追行
康富記
二十二日、新嘗祭
康富記
二十三日、豊明節会を停止し、平座
康富記
二十七日、吉田祭を行う、春日祭追行
康富記
十二月一日、この日より延暦寺六月会
康富記(一日・五日)
十二日、朔旦冬至叙位追行
康富記
十四日、朔旦冬至恩詔宣下
康富記
この日、祇園御霊会を追行
康富記
この日不動小法を禁裏で始修せらるべきを御神事によりにわかに阿闍梨権僧正宗済坊に附行
続史愚抄
十五日、北野祭結願
康富記
二十五日、軒廊御卜、先月二十七日に吉田社怪異のため。この夜内侍所御神楽
康富記(二十五日・九日)
二十六日、月次祭、神今食を追行
康富記
二十七日、貢馬御覧
康富記
三十日、追儺
康富記

後花園天皇、やってしまいかける

永享十年のことです。

 

足利義教が桜の枝を後花園天皇に献上しました。

 

後花園天皇はそれに対して「御製」(天皇自作の和歌)を贈ります。

 

すゑとおき 八百万代の 春かけて 共にかざしの はなをみるかな

 

それに対して義教からは次の二首が返ってきました。

 

すゑとおき 君にひかれば 万代の 春まで花や ともにかざさむ
今夜しも 君がこと葉の 花をみて 袖にも身にも あまるうれしさ

 

それに対して後花園天皇から再び御製が返されます。

 

たぐひなき 君がこと葉の 花かづら かけていく世も かはらずぞみん

 

しかしここで後花園天皇はハタと気づきます。

「もしかして、天皇であるオレが臣下である義教に『君』なんて主君みたいな言い方してもいいものなのか?」

 

そこで父親の貞成親王のもとに御乳人を遣わして尋ねさせます。しかし御乳人もその生誕からずっと面倒を見ているとはいえ、こんな話まで付き合わされて大変です。

 

貞成親王は一日調査をしてから結論を出しています。やっぱりまずかったのです。「君」という言葉は天皇上皇、でなければ恋人に使うもののようです。義教が後花園天皇の主君である、という意味か、義教が後花園天皇の思い人である、という意味にしかならない、ということになってしまいました。

 

後花園天皇は慌てて御製を差し替えます。

 

ことの葉の ふかきなさけの 花かづら かけていく世も かはらずもみん

 

これでことなきを得ました。しかし後花園天皇の中に足利義教を「君」という言葉で表したい(この場合は思い人ではなく、主君)ほどには彼の中に「室町殿によって存在している自分の天皇という地位」というのが内面化していたことが興味深いです。

 

嘉楽門院の父親

嘉楽門院は後花園天皇の下臈で、後土御門天皇の生母です。彼女は室町時代のシンデレラです。

 

藤原孝長という地下の家の娘として生まれた彼女は和気郷成、後にその子の保家の猶子となり、さらに大炊御門信宗の猶子となって後花園天皇に召され、寵愛を受けます。後花園天皇は彼女以外に男子を産ませることができなかったため、彼女の生んだ成仁親王が登極します。後土御門天皇です。

 

彼女の実父について『椿葉記』に見つけました。これ、別に「見つけました」と誇らしげにいうことでもない気もしますが、とりあえず指摘している人が見当たらなかったので、とりあえず記してみます。まあ備忘録程度のもので、「新発見」というものでもありません。ちなみに村田正志氏は「孝長朝臣 藤原惟孝流の一家で、孝道の後裔である」と注釈しています。また孝長の曽祖父の孝重が光厳院に琵琶を教えているところをみても、孝長の家が琵琶を伝授していることは間違いがないでしょう。

 

貞成親王後花園天皇が笙を習うことについて「院の御例めでたき御ことなるべし」とはいいながら「相構へて御琵琶をもあそばるべきなり」と言っています。笙は後光厳皇統のもので、伏見宮家は代々琵琶をやってきたので、貞成親王が「めでたき」と言っていても腹の底ではイラついていることは容易に想像できます。

 

で、貞成親王は「当時は園中納言・孝長朝臣ならでは比巴ひく人なし」「孝長朝臣は当道の物なるうへ、代々御師範にまいれば、尤めさるべき物なり」と言っています。藤原孝長はどうも貞成親王の伝手で後花園天皇に近づいたことがわかります。

 

道理で成仁親王伏見宮家で養育されるし、名前も貞成から一字を取っているわけです。

 

2018年12月7日追記

この点、彼女が大炊御門家の養女となっているのは意味深です。大炊御門信宗の姉は伏見宮に出入りしていました。後花園天皇外戚を考える上では重要な問題と思います。この点また考えます。

敷政門院の病

『看聞日記』(かんもんにっき)と言えば、室町時代に関心のある人ならば必ずどこかで関わっているはずの日記です。このブログでもしばしば言及していますが、もう一度復習しておきますと、後花園天皇の実父である伏見宮貞成親王の日記です。しばしば「看聞御記」(かんもんぎょき)とも記載されます。

 

この日記は応永二十三年(1416年)正月一日より始まり、文安五年(1448年)四月七日条まで続く長い日記です。ただ嘉吉三年年末以降は途切れがちになり、文安四年の太上天皇尊号宣下の記事がいくつかあるだけで、文安五年四月七日に最後の記事が書かれます。文安五年の記事自体、わずかに二月二日、二月四日、四月七日の三日間だけで、もはや貞成親王は記事を書く気力がほぼ無くなっていたことがうかがえます。

 

文安五年といえば貞成親王はもう七十七歳、持病の脚気と中風の具合もよくなかったのでしょう。しかも長く連れ添った妻の庭田幸子の病状が文安四年の冬以降思わしくなかったようです。

 

貞成親王への尊号宣下の問題ですが、禁闕の変の直前に後花園天皇は貞常王の元服親王宣下の後に行うことを考えていたようですが、禁闕の変が起こり、延期になってしまいます。そして貞常王の元服直後に貞成親王に関するスキャンダルで親王宣下も遅れ、その関係で広橋兼郷らが追放処分になります。具体的にはよくわかりませんが、小川剛生氏は貞成親王後花園天皇を退位させ、貞常王を登極させようとしている、という噂ではなかったか、としていらっしゃいます。

 

看聞日記と中世文化

看聞日記と中世文化

 

 

そのこともあってか、貞成親王への尊号宣下はのびのびになっていましたが、文安四年十一月二十七日、ついに尊号宣下、つまり貞成親王への太上天皇号が贈られたのです。万里小路時房の日記には庭田幸子から後花園天皇への働きかけがあったことを記しています。

 

ここから判断すると尊号宣下が遅れたのはやはり後花園天皇自身にためらいがあったのであって、それは貞成親王にまつわる噂と無関係ではないでしょう。

 

冷えた関係をとりなしていたのが庭田幸子だったのでしょう。そのころにはすでに病状が悪化していたようで、後花園天皇も病状の重くなった、余命も少ない母に頼まれれば拒否できなかったのかもしれません。

 

贈られた尊号ですが、三ヶ月ほどで貞成親王はそれを辞しています。これは当初からの予定でしょう。

 

尊号辞退の六日後、後花園天皇貞成親王のもとに行幸して幸子を見舞います。三月四日には敷政門院の女院号を贈りますが、この一連の行動は幸子の病状が深刻化したからです。その前日には趣味の闘鶏も中止しています。

 

その一ヶ月後の四月十三日、敷政門院庭田幸子は薨去します。

 

後花園天皇は後小松上皇と光範門院日野西資子の猶子であるため、諒闇とはなりませんでした。しかしその後の朝廷行事は少なからず変更されています。

 

結局この期に及んでも実は後花園天皇が後光厳皇統か崇光皇統か、という問題は解決していない、といえそうです。

後花園天皇の生涯ー文安五年正月〜十二月

文安五年
正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供、元日節会、出御
康富記、師郷記、続史愚抄
二日、御薬供、殿上淵酔
康富記、師郷記
三日、御薬供
康富記、師郷記
五日、叙位
康富記、師郷記
七日、白馬節会、雨儀、出御
康富記、師郷記
八日、後七日御修法、太元帥法
康富記、東寺執行日記、続史愚抄
十一日、県召除目延引
続史愚抄
十六日、踏歌節会、出御
看聞日記、師郷記
十八日、三毬打
康富記(十五日、十八日)
二十七日、大判事坂上明世等を遣わして南朝皇胤の首級を実検
康富記、師郷記、諸門跡伝、嘉吉記、南方紀伝
二十九日、県召除目追行
看聞日記(正月二十九日、二月一日)、康富記(正月二十六日、二十八日、二十九日)
二月一日、釈奠延引
康富記、師郷記
四日、祈年祭
康富記、師郷記
この日春日祭延引
康富記
六日、別殿行幸
師郷記
九日、園韓神祭延引
康富記、師郷記
この日天台座主大僧正公承に綸旨を下し、仏像・仏具・宝物を延暦寺根本中堂に安置
康富記
十一日、釈奠追行
康富記、師郷記
この日大原野祭延引
康富記
十六日、春日祭再延引
康富記、師郷記
二十一日、園韓神祭停止
康富記、師郷記
二十二日、貞成親王太上天皇の尊号を辞する報書を提出
看聞日記(二月十日・二十一日・二十二日)、康富記、師郷記
二十三日、大原野祭追行
康富記
二十八日、春日祭追行
康富記、師郷記
この日仙洞御所に行幸し生母庭田幸子を見舞う
康富記、師郷記
二十九日、伏見宮家より引き物を進上
三月三日、御灯、御拝、この日闘鶏を中止、母庭田幸子の病による
師郷記
四日、生母庭田幸子に敷政門院の院号宣下
小槻時元記(明応五年)、師郷記
この日より禁中において御修法
師郷記
二十一日、別殿行幸
師郷記
四月一日、旬、平座
師郷記
五日、平野祭、同臨時祭、松尾祭
康富記、師郷記
六日、梅宮祭
康富記、師郷記
十二日、稲荷祭
師郷記、続史愚抄、東寺執行日記
十三日、生母敷政門院薨ず、後小松上皇の猶子ということで諒闇略し仙洞触穢に及ばざるの儀仰せ下す
康富記、師郷記
十七日、日吉祭
康富記、師郷記
十八日、賀茂祭、但し敷政門院の薨去による歌舞音曲の停止
康富記(十六日・十八日・十九日)、師郷記(十六日・十八日・十九日)
二十一日、吉田祭
康富記、師郷記
五月七日、別殿行幸
師郷記
六月六日、軒廊御卜、伊勢内宮変異ありによる
康富記、師郷記
十一日、月次祭、神今食延引、伊勢一社奉幣延引
康富記、師郷記
十四日、祇園御霊会
康富記、師郷記
十五日、祇園臨時祭
康富記、師郷記
十八日、月次祭、神今食追行、伊勢一社奉幣追行、夜御拝
康富記、師郷記
この日、月次和歌会
康富記
十九日、春日若宮遷宮日時定
康富記、師郷記
二十日、止雨奉幣を行う
康富記、師郷記
二十三日、御談義再興、孟子を読む
康富記(二十二日、二十三日)
二十八日、春日若宮遷宮
康富記、師郷記
三十日、大祓
師郷記
七月七日、乞巧奠、御薬は停止、敷政門院の事による
師郷記
八日、東寺仏舎利を禁裏に召す、議定所に出御
康富記、師郷記、東寺執行日記
十八日、止雨奉幣
康富記
二十三日、敷政門院百か日、仏事料を進ず
康富記
八月三日、釈奠、但し宴隠座および廟拝停止、敷政門院薨去のため
康富記、師郷記
四日、北野祭、同臨時祭
康富記、師郷記
十五日、石清水八幡宮放生会延引、井戸に転落事故の死者出たため
康富記、師郷記、東寺執行日記
十六日、駒牽
康富記、師郷記
十八日、御霊祭
師郷記
九月九日、重陽節句、平座
康富記、師郷記
十一日、伊勢例幣
康富記、師郷記
十五日、石清水八幡宮放生会延引、神人の訴訟による
康富記、師郷記(十五日・十六日・十七日・十八日)
十六日この日より禁裏で不動法、二十一日結願
康富記(十六日・二十一日)
十九日、石清水八幡宮放生会追行
康富記、師郷記
二十一日、内宮遷宮行司所始日時定延引
康富記
二十四日、造伊勢内宮行司所始および造神宝始等あり
康富記、師郷記、続史愚抄
二十九日、西宮左大臣源高明に贈従一位宣下
康富記、師郷記
十月一日、旬、平座
康富記、師郷記
十一月一日、平野祭同臨時祭、この日春日祭延引
師郷記、続史愚抄
二日、梅宮祭延引
師郷記
十三日、吉田祭延引、春日祭延引
師郷記
十四日、梅宮祭追行
師郷記
十七日、大原野
師郷記
十八日、園韓神祭
師郷記
十九日、鎮魂祭
康富記、師郷記
二十日、新嘗祭
師郷記
二十一日、豊明節会を停止し、平座
師郷記
二十四日
延暦寺霜月会停止
師郷記
二十五日、春日祭、吉田祭追行
師郷記
二十七日、政始
師郷記、続史愚抄
十二月十一日、月次祭、神今食延引
師郷記
二十三日、外宮山口祭日時定
師郷記
二十五日、内侍所御神楽、この日請印政
師郷記
二十六日、三宝院前大僧正義賢に准三宮宣下
康富記、続史愚抄
二十九日、追儺を行う、大祓は諸司に附す
師郷記
この年、祈年穀奉幣使を停止
康富記(宝徳元年八月二十三日)