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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座二月第四回「蝦夷地・琉球と室町幕府」2

オンライン日本史講座のお知らせです。

 

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テーマは「蝦夷地・琉球室町幕府」ですが、私の専門上、蝦夷地が中心になります。

 

室町時代の「蝦夷地」を理解するためには二つの視点が必要です。

 

一つは室町幕府の都鄙関係論です。室町幕府はいかにして遠国を統治していたのか、という視点です。ここをすっ飛ばして足利義教の「酷薄」「先制」というイメージで義教が遠国に強力に介入した、と考えてしまうところから十三湊還住説が出てきているのではないか、と考えています。

 

もう一つは、アイヌと和人の関係です。関根達人氏が提唱する「蝦夷地史」が今日の代表的な視点でしょう。本来「日本」ではなかったアイヌモシリが「蝦夷地」として「内国化」していくという視点も必要でしょう。

 

その見方がクロスする研究分野が津軽安藤氏研究ではないか、と考えています。津軽安藤氏研究は実際に中世の北海道史を研究する際に非常に大きな手がかりとなってきました。

 

津軽安藤氏が注目されたのは皮肉なことに今日では完全に「偽史」として認定された『東日流外三郡誌』がきっかけです。天皇中心のヤマト史観を脱構築するものとして神武天皇と戦い敗れた長髄彦の子孫という安藤氏が作り上げた十三湊というもう一つの中心から見た日本史が人々の心を捉えたのは70年代以降です。

 

しかしその中身は荒唐無稽で、かなりのデタラメが含まれていることは一見して明らかでした。問題はその中にどの程度使えそうな古史古伝が含まれているか、ということだったのですが、現状ではそこを深く追求しても多分無理である、というのがコンセンサスと言っていいでしょう。仮にそこに実は注目すべきだった古史古伝が残されていた、としてもあそこから拾い出す気はしないし、すべきでもない、ということは言えると思います。

 

では『東日流外三郡誌』から離れた津軽安藤氏ということになりますが、これも非常に曖昧なものしか出てきません。いわゆる一次史料はほぼありません。

 

数少ない一次史料から津軽安藤氏の姿を復元する取り組みは私も進めておりますが、なかなか進みません。その一端は「鎌倉・室町幕府体制とアイヌ」にまとめてあります。

eprints.lib.hokudai.ac.jp

 

一次史料から見た安藤氏は木曜日のお楽しみ、ということにして、ここではインチキな面も含んだ津軽安藤氏像をお届けします。

 

津軽安藤氏の末裔は福島県の三春町を中心とした三春藩の秋田氏が嫡流です。他には松前藩の家老であった下国氏、秋田藩の家臣の湊氏などがいます。

 

秋田氏と下国氏にはそれぞれ家系図が伝わり、長髄彦を祖とする「蝦夷系譜」を持つ系図も伝わっています。したがって彼らが一定程度「蝦夷」認識を持っていたことは伺えますが、即彼らが蝦夷であった、とは言えません。ただこの蝦夷系譜を持っていたことを以って安藤氏が津軽地域の土着勢力である、と捉える見方が有力です。ちなみに私はそれに反対です。その見方は『地蔵菩薩霊験記』の記述を無視しているからです。『地蔵菩薩霊験記』の安藤五郎と津軽安藤氏が全く無関係である、というのであればまだわかりますが、この安藤五郎を津軽安藤氏と関連づけた段階で津軽安藤氏の遠祖は得宗御内人以外にはあり得ません。それも鎌倉にいた人物であるはずです。これは『保暦間記』の記述や『諏訪大明神縁起』の記述とも矛盾しません。

 

ちなみに『諏訪大明神縁起』の「蝦夷」の描写を諏訪神社と関係のあった傀儡子などに求める見解があります。私はそれにも反対です。これは通説の通りにこの時代のアイヌの姿を描いたものとすべきです。これは諏訪円忠の立場を誤解したことから出てきた憶説にすぎません。

 

鎌倉時代には安藤氏は得宗御内人であったことはほぼ間違いありません。で、安藤五郎は「蝦夷管領」で、文永年間に「エソに頸をとられ」たことが日蓮の書状からわかります。海保嶺夫氏はこれをサハリンに攻め込んだアイヌの動きと絡ませて「エソ」をモンゴルと考えていました。

 


エゾの歴史―北の人びとと「日本」 (講談社選書メチエ)

 

それはともかく、安藤氏はその後分裂します。安藤宗季と安藤季長の間で内輪揉めが起こり、御内人のトップの長崎高資が双方から賄賂をとって双方に都合のいい判決をだしたためにこの話はこじれ、鎌倉幕府滅亡の糸口となります。なお、私はこの見方についてはいくつか付け加える必要があると思っています。特に長崎高資の立場については『保暦間記』を丸々信じるわけにはいかない、という見方を取っています。

 

南北朝時代には安藤氏は一貫して北朝方につきます。

 

東日流外三郡誌』ではこのころ大津波があって十三湊は壊滅的な打撃を受けた、とされますが、発掘調査の結果、十三湊が滅亡したのは津波ではなく火災であることがはっきりしています。

 

室町時代には「安藤陸奥守」が室町幕府にラッコの皮を贈ってきたことが足利将軍家の御内書からわかります。この辺の事情は『十六世紀史論叢』第十号所収の拙稿「中世ラッコ関係史料の基礎的考察」で述べました。中世ラッコ関係論文では関口明氏の「中世日本の北方社会とラッコ皮交易」(『北海道大学総合博物館研究報告』6、2013年3月、これもHUSCAPにあります)がまず読まれるべき業績であると考えていますが、その末席に加えていただきたいと思っております。

関口氏の論文です。

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また室町時代には下国氏・湊氏・潮潟氏の三つに分流します。それぞれ津軽十三湊、出羽秋田湊、陸奥後潟(現在の青森市付近か)を支配するようになります。

 

永享年間には「奥の下国」が「南部」と合戦して敗れ、北海道に没落するという記事が『満済准后日記』に出てきます。足利義教が必死に調停しているという記事ですが、通説では南部氏に対して義教の調停が効き、下国氏は津軽十三湊に還住できた、とされています。私はこの見方には断固として反対します。この辺は拙稿「『満済准后日記』における下国安藤氏没落記事の検討」(『研究論集 歴史と文化』第三号)をご覧ください。

 

ここで宣伝です。ここで紹介した拙稿は以下で購入できます。残りは意外と少ないらしいので、欲しい方は急いでください。他にもいい論文がいっぱいです。

sites.google.com「中世ラッコ関係史料の基礎的考察」はこちらから。残り17部と聞きました。

sites.google.com

南部氏に対して下国康季、義季は果敢に津軽奪回の戦闘を仕掛けますが時に利あらず、康季・義季は戦死し、南部氏は傀儡として捕虜となった後潟師季を新たに下国氏の当主に据えるとされています。この師季はのちに足利義政から一字拝領して政季と名乗るとされています。私はこの意見にも反対です。そもそも将軍家の偏諱はそこまで乱発されません。そこまで乱発したのは足利義輝くらいでしょう。私はそもそも師季と政季が同一人物である、という確証はないと考えています。ただ同一人物でない、という証拠も全くありません。百歩譲って同一人物であったとしても、むしろ師季→政季よりも政季→師季の方が辻褄は合います。どうでもいいレベルになりますと、安藤氏を放逐した南部義政が足利義教の「義」の字を拝領した、という話があります。南部氏の系図にも出てきます。ただこれに関してはありえない、としか言いようがありません。足利義輝でさえ南部氏には「義」の字を渡していません。相良義陽に「義」の字を渡しても、南部氏には渡していません。まして義輝ではない義教が「義」の字を拝領することなどありえません。

 

後潟あらため下国政季は突如として下北半島大畑から北海道に逃亡し、そこを三つに分けて下国定季、下国家政、蠣崎季繁という三人の守護を置いて自らは湊氏の招きに応じて陸奥国檜山に移住します。

 

その間隙をついて蜂起したのがアイヌの英雄コシャマインです。和人との交易トラブルからアイヌが一斉に蜂起し、和人の館主たちを次々と撃破しましたが、下国家政と蠣崎季繁だけは陥落せずに、蠣崎季繁のもとの客将で若狭武田氏の係累を自称する武田信広コシャマインを討ち取り、和人を救った、とされています。これがコシャマイン戦争であり、それ以降100年にわたって和人とアイヌの戦争が続くとされています。

 

これは今日ではかなりあやしいとされています。和人とアイヌとの関係については見直しが進んでおり、特に上ノ国夷王山墳墓群の発掘調査によって和人とアイヌを戦闘状態であった、と見る見方は今や成り立たなくなっています。この両者の戦闘の実態を明らかにしたのが新藤透氏です。

前回もご紹介したこの本が一番読みやすくいいでしょう。

 


北海道戦国史と松前氏 (歴史新書)

 

ちなみに私は、といえば、コシャマイン戦争というアイヌ対和人の戦争があったことについて大きな疑念を抱いています。この疑念は中村和之氏の以下の文章にすでに書かれていて、私もその影響を大きく受けています。私は室町将軍家の御内書を集めていますが、それを読んでいて中村氏の見方が正しいと確信を持ちました。中村氏の見方は御内書からも正しいと裏付けることができます。

 

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

週刊 新発見!日本の歴史 2013年 12/15号 [分冊百科]

 

 

ちなみに当日に金子哲氏(兵庫大学教授)からご指摘があると思いますが、三守護に分けた、というのはほぼ違うだろう、と考えられています。三守護ではなく、松前守護の下国定季が「守護」(実際に守護と呼ばれていたかまで含めて要検討)で、他の二人よりも上位にあった、と考えています。これは「松前下国氏大系図」には「定季」を義季の子としているからです。定季はコシャマイン戦争で力を失ったのちに、息子の恒季の代に滅ぼされています。家政の子孫はアイヌとの戦いに敗れて蠣崎氏の庇護下に入ります。私は茂別下国氏が蠣崎氏の庇護下に入る前にセタナイアイヌの庇護下に入っている事実に注目しています。

 

1550年に下国舜季が北海道に渡り、蠣崎季広、ハシタイン、チコモタインの三者の間に「夷狄商舶往還法度」が定められ、和人地が確定します。これについては和人が勝った、だの、アイヌが勝った、だの、いろいろ言われていますが、私はこれはこの三人が勝ったのだと考えています。蝦夷地南部の戦国時代を勝ち抜いたのがこの三人だった、というだけの話で、当時の北海道史を和人対アイヌの図式でとらえるのは不毛です。

 

安藤氏の末裔は安東愛季の代に最盛期を迎えます。檜山下国氏に生まれた愛季は湊氏を併合し、出羽国の北半分を支配下に組み込みます。織田信長とも関係を持ち、浪岡北畠氏の跡を襲って侍従の官途も獲得します。この前後から安東氏と呼ばれています。

 

その子の実季の代に蠣崎慶広が上手く立ち回って安東氏配下から自立し、豊臣大名となります。逆に言えば安東氏は北海道を失うわけです。実季は秋田氏を名乗り、のちに改易されます。ただ息子は秋田氏継承を許されますが、常陸国宍戸藩を経て陸奥国三春藩五万五千石の外様大名として明治維新を迎えます。

では木曜日によろしくお願い申し上げます。

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