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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

拙著『乱世の天皇』見どころ5ー津軽安藤氏は十三湊に還住していない

発売も近づいてきた拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)ですが、いきなり津軽安藤氏が出てくることに戸惑う方も多いかもしれません。しかし拙ブログにて何回も述べてきたように、後花園天皇は東北・北海道史にもゆかりの深い天皇です。拙著の、他の後花園天皇に触れた著作に比べたアドバンテージは、後花園天皇と東北・北海道史の関係についても一応目配りされている点だと言えるでしょう。

www.tokyodoshuppan.com

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

 

後花園天皇の東北・北海道史との深い関わりを示すのが、若狭国小浜の羽賀寺再建事業です。

 

羽賀寺が焼失し、それに心を痛めた後花園天皇が再建を志したが、その時のスポンサーとなったのが「奥州十三の湊日の本将軍安倍の康季朝臣」であった、と『本浄山羽賀寺仮名縁起』に記されています。これについて従来は「南部氏によって一旦十三湊を追われた下国康季が足利義教の和睦調停によって十三湊に還住することができたからだ」とされてきました。

しかし十三湊に還住できた、というのは『新羅之記録』に一切誤りがない、という前提に立たなければ成立しないことは拙ブログでも、あるいは拙稿「『満済准后日記』における下国安藤氏没落記事の検討」(『研究論集 歴史と文化』第3号)でも折に触れて述べてきたところです。

 

ただいくらこのような弱小ブログで主張していても、学術論文で主張しても、実は一般書で広められたものの見方は覆りません。そして津軽安藤氏の十三湊還住説は数多くの一般書によって広められ、今や還住説以外はほぼ息をしていません。

 

しかし還住説は十重二十重に間違った史料解釈と、考古学の成果の拡大解釈から成り立った代物です。拙著では考古学の問題には触れませんでした。そこでここでは考古学的なデタラメを指摘しておきたいと思います。文献史料からの指摘は拙著を読んでくだされば幸いです。

 

考古学からも還住説が裏付けられる、と言われていますが、その内実は「焼けた跡に再建されたあとが残っている」という事実だけです。考古学発掘の成果からはっきりするのは十三湊が焼かれ、その後再建された、ということです。つまり「誰が」は明確ではありません。なぜ再建した人物が南部氏ではなく安藤氏であると断定できるのでしょうか。

 

しかも問題がもう一つあります。焼けた跡に再建された遺跡は焼けた形跡がないことです。もし安藤氏が還住して南部氏が再び攻撃をしたのであれば二度目の焼け跡が残らなければなりません。しかし出土する遺物からは火災は一回であったことが読み取れます。そのことは発掘調査書を虚心坦懐に読んでいればわかることです。

つまり考古学的な成果からは「還住した」とも「還住しなかった」ともわからないのです。更にいえば考古学的にはそもそも十三湊遺跡に勢力を張っていたのが安藤氏である、ということを明確に示す証拠も出土していません。

それはともかく、考古学では当初は還住説をはっきりとは打ち出していませんでした。しかし近年は文献史学の「成果」を入れる形で「還住」説を取り入れるようになっています。

 

文献史料の検討は拙著に述べましたのでこちらでは省略しますが、文献史学の側でかなり恣意的な解釈と史料操作が行われているのが分かります。それをもとにして記述すれば当然に不正確な記述にならざるを得ない、と危惧します。

 

考古学と文献史学がお互いの欠点を埋めるべく協働するのは必要です。だからこそ文献史学の立場から言いますと、文献史学はしっかりとした成果を出して、考古学に迷惑をかけないようにしないといけません。この問題は文献史学のデタラメな史料操作に考古学が引きずられてしまった、という話であると思います。

 

近年の一般書はほぼ「還住説」一色ですが、それに一石を投じようと思っています。