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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

足利義教にまつわる誤解

足利義教の評伝をいつかどこかで書こうと決めましたが、まずはネタ作りです。

 

NHKの「知恵泉」という番組でそういえば足利義教が取り扱われていました。ググってみるとその番組の中身が分かりました。ただかなり違うんじゃないかな、と思わせるところがあります。やっぱり義教はかなり誤解されてますね。

 

tvpalog.blog.fc2.com

 

もっとも「知恵泉」にそのレベルの精緻な見解を求めるのは、木に寄りて魚を求めるようなものでしょうが。そもそも「知恵泉」は正確な学問的成果を披露するところではなく、歴史の出来事を今日に活かす、というものですから。

 

具体的に見ていきましょう。

 

一つは義教が比叡山を攻撃した話です。

 

延暦寺の僧たちが幕府にどれだけ横暴を働いていたのかを知っていたから

 

いやいや、それは違います。

 

義教がうまく誘い出して殺害した金輪院は実は青蓮院に所属した山門使節です。山門使節の話を無視していきなり幕府と延暦寺を対立関係で把握するのは間違えています。

 

金輪院は明らかに天台座主時代の義円准后(のちの足利義教)を支えていたのであり、それゆえ彼らは暴走したのです。

 

そのきっかけはこれまた比叡山の山僧でした。光聚院という山門使節を義教は優遇したのです。ただ問題は光聚院は延暦寺で不祥事を起こして排斥された人物であったために山門使節内部、特に義教と近かった山門使節に不満が高まっていた、ということを抑えなければなりません。

 

また義教が延暦寺を攻撃したのは、義教が延暦寺を勝訴としたあと、延暦寺側が幕府の威光を背景にして暴走し、園城寺を焼き払ったのです。これがきっかけであり、むしろ延暦寺と幕府の密接な関係が背景にありました。

 

禁闕の変で活躍した護正院は梶井門跡(三千院)の院家です。青蓮院から梶井に変えたのは義教が青蓮院を優遇しすぎた、と思ったからではないでしょうか。

 

こう考えてみると、「知恵泉」の言い分は無茶苦茶です。

 

詳しくは以下のエントリで。

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

あとこれも問題ですね。

 

南朝の皇室の残党から皇籍をはく奪、遠方に追放したのです

 

まあこれは 拙著『乱世の天皇』を読んでくれ、としか言いようがありません(笑)

 


乱世の天皇 観応の擾乱から応仁の乱まで

 

本当のことを言えば森茂暁氏の『闇の歴史 後南朝』か、渡邊大門氏の『奪われた三種の神器』をしっかりと読むべきです。

 

 


闇の歴史、後南朝 後醍醐流の抵抗と終焉 (角川ソフィア文庫)

 

 


文庫 奪われた「三種の神器」: 皇位継承の中世史 (草思社文庫)

 

 

この辺の書物を読めば、南朝の皇室の残党である護聖院宮家の王子を出家させていることがわかります。遠方ではありません。預け入れ先は長慶天皇皇子の海門承朝足利直冬の息子の宝山乾珍です。彼らはいずれも臨済宗の高僧ですから、「追放」とは言えません。厳密に言えば護聖院宮家の取り潰しです。護聖院宮家としては小倉宮家と同じ扱いが我慢できず、のちに大事件をやらかします。もっとも私は主犯は称光天皇外戚日野有光であると考えています。

 

ただこの「知恵泉」の間違いですが、これ、必ずしもNHKの責任だけでもないですね。歴史学でも義教を「独裁者」とか、「権力の強化」という側面だけで見てきましたからね。だから義教にすごい力を与えてしまう。

また後南朝の問題でも、義教の事績を大げさにとらえているところも多いです。この辺はまだまだ学問レベルの議論が必要で、私見が正しい、というつもりもありませんが。

 

義教については実際以上に強硬で独裁的なイメージを持たれています。

 

このブログでも、拙著でも主張している、津軽への「介入」もそうです。

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

義教をやたら強硬策に走る人物という先入観があって、安藤氏と南部氏の紛争に際して南部氏を押さえつける、という図を描いてしまう。

 

しかしあの史料を素直に読めば「口先介入」を主張する畠山満家に対して、それが無視された時の「外聞」(メンツ)にこだわって「口先介入」すら拒否する義教の姿が現れているだけです。

 

津軽安藤氏が足利義教の強力な後押しで十三湊に還住できた、という話も、1980年代までは還住説は少数派でした。しかし足利義教に関する研究が進み、「弱体化する室町幕府」像に対して、「将軍権力を強化する足利義教」という像が提出されると、それに影響されたか、北方史の研究でも南部氏に圧力をかけて津軽安藤氏の還住を実現する足利義教、という見方が出てきているわけです。

 

日明貿易でも義教に関しては看過すべきではない誤解がいろいろあります。私自身も加担してきた自覚はあるので、自分自身の過去の研究にも決着をつける必要があります。ちなみに論文では自己批判を含めた論文として拙稿「室町時代における天皇論」があります。

ci.nii.ac.jp

流石に義教が琉球を島津氏に与えたという「琉球附庸説」を信じる人はいない、と信じたいですが、油断はできません。琉球足利将軍家の関係についてもこの際にしっかりと一般書レベルで叙述することにも意味があるでしょう。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

後花園天皇に比べると海域アジアとの関わりの章は大幅に強化する必要があります。

 

このように足利義教に関する誤解が行き渡ったおかげで、結構あちらこちらに影響が出ています。足利義教の等身大の人物像に迫る評伝が必要であると考えます。

 

現在歴代の足利将軍家の評伝は初代尊氏・三代義満・四代義持・八代義政・十一代義稙・十二代義晴・十三代義輝・十五代義昭が出ています。ここに六代義教を早急に入れるべきです。