記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

後花園天皇をめぐる人々ー後土御門天皇

息子です。次の天皇です。遺体を40日間放置され腐敗してしまった、ともっぱらの噂です。五回も「朕は退位する」と宣言して、結局最後まで退位しなかった「やめるやめる詐欺」の人です。

 

とまあ、あまりいいイメージのない天皇ですが、実際父親の後花園天皇の頭を悩ませる程度には英邁とは言い難いところがあったようです。

 

後花園天皇は儲君時代の成仁親王に「小鳥をかわいがってばかりいないように」と文句を垂れています。まあ偉大すぎる親父を持った子どもにありがちな話ではあります。十歳でいきなり天皇にならされて、他人の中で暮らしてきた後花園天皇からすれば、後土御門天皇が自分の趣味に没頭しているのは歯がゆく見えたでしょう。後花園天皇はその年頃には実父と養父のプレッシャーの中で学問にひたすら励んでいましたから、実父のもとでのびのびと羽を伸ばしている後土御門天皇は甘ちゃんだと思えたでしょう。

 

後花園天皇後土御門天皇の有名なエピソードとして三条西実隆が、後花園天皇は40過ぎても化粧をし続けていたが、後土御門天皇は40になって化粧をやめてしまった、というのを挙げています。

 

個人的な意見ですが、後土御門天皇は、称光天皇後小松天皇後円融天皇後光厳天皇に比べるとはるかに帝王としての資質はあると思いますが、何しろ比較されるのが、歴代でも傑出していると言われている後花園天皇ですからねぇ。気の毒な面はあると思います。

 

後土御門天皇に関してはやはり渡邊大門氏の『戦国の貧乏天皇』から読み始めるのがいいと思います。

 

戦国の貧乏天皇

戦国の貧乏天皇

 

 

後土御門天皇は、十年にわたって室町殿に仮寓し続け、その間に富子の女房に手を出して皇子女を四人も(!)産ませています。普通は一回で出入り禁止、下手すれば殺されても文句は言えません。しかし相手が天皇だったので、黙認から公認へということになったのでしょう。

 

毎日のように酒宴を行なっていたようで、それもかなり乱れた酒宴を行なっていたようです。甘露寺親長が伝えるところによると、こんなやりとりがされています。

天皇「明日、義政が来るねんけど、その時に久我通尚を連れて来る、言うてんねん。でもあいつ(通尚)、後花園院の時もそんなに来てたやつやないやん。で今、義政と朕がやってるホームパーティ、完璧に乱交パーティになってもうてるやん。そこにそんなディープな関係でないヤツ呼んだらびっくりしよれへんかな、思てんねん。まああいつは近習やからしゃーないんかな」

甘露寺親長「まあ義政さんが連れて来る、いう人を拒否ったら義政さんも面目丸潰れですからね、日野勝光さんや広橋綱光さんとよくよく相談した方がいいですよ」

 

まあちょっと誇張してます。「男女混乱」を「乱交」と訳すのは行き過ぎかもしれません。というのも、後醍醐天皇が「男女共服を着ないでパーティ」という「花園院日記」の記述を訳すると「全裸でパーティ」と読めますが、厳密にはそれぞれの身分に合わない服を着ている、ということなので、この場合も男女が入り乱れていて、という話で、別に(だめだめ〜)に及んでいる、ということではないかもしれません。

 

ただ、朝廷というのは伝統的にそういう(アッハーン)なところにはゆるいところがあり、まあ全く「ただお酒を呑んでおしゃべりを楽しんでいる」だけ、と言い切れないところも多々あります。

 

現に後土御門天皇日野富子はものすごく気があったみたいで、夫の義政が帰宅したのちも二人で二次会・三次会をやってたそうで、後土御門天皇にとっては富子は二歳年上のお姉さんみたいなものだったのかもしれません。

 

で、もう一つ重要なのは、この時に政治が進むか、と言えば、一ミリも進みません。中世はやはり身分制が強固に存在する社会であって、公式的に左大臣足利義政と現職の天皇が直接やりとりを行うことはありません。公式のやりとりはあくまでも伝奏を通じた交渉になります。でも毎晩のようにパーティで盛り上がっているわけです。この時に非公式の話になることはなかった、とは言い切れないのでなんとも言えませんが。

 

この話を持ち出したのは、後土御門天皇と義政の関係がふしだらなものであった、と言いたいわけではなく、次の話の伏線ですが、話が拡散してきたので、エントリを分けたいと思います。