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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

キレる後花園天皇

題名は田村航氏の「揺れる後花園天皇」(『日本歴史』818、2016年7月)のパクリです。

 

田村氏の論文は、永享の乱における治罰綸旨の復活をめぐって、従来は幕府権力の動揺を朝廷の権威で補おうとした、とされてきたものを、逆に動揺する後花園天皇の権威を治罰綸旨で安定させようとした、という趣旨です。後光厳流と崇光流の皇統の対立に注目した論文で、非常に示唆に富む論文です。

 

嘉吉三年の正月二十七日のことです。禁裏に松囃子がやって来ました。看聞日記には次のようにあります。

 

内裏で松囃子を柳原が行った。但しつまらなかったので一番が終わる前に御追い出しになった。小犬を呼ばれた、ということだ。(内裏松拍柳原仕、但比興之間一番不終御追出云々。小犬召仕云々。 

 

貞成親王が「御追出」と敬語を使う「内裏」関係者は後花園天皇以外いないだろう、と考え、面白くなさにキレて追い出したのは後花園天皇と考えました。まあ、自己主張の強そうな天皇らしい逸話であると思います。

嘉吉二年正月一日〜十二月三十日

嘉吉二年

正月一日、四方拝、御薬供、元日節会

管見記、師郷記、続史愚抄

五日、叙位

管見記、師郷記、続史愚抄

七日、白馬節会

管見記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法、この日、前内大臣西園寺公名に本座宣下あり、大臣本座宣下の始まり

管見記、東寺執行日記、続史愚抄

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

管見記、師郷記

二月三日、小除目

師郷記

四月、祈年祭

師郷記

五日、釈奠

師郷記

十一日、大原野祭延引

管見記、師郷記

十六日、足利義勝、手習始によりお手本を賜う、この日、春日祭延引

師郷記

二十一日、園韓神祭

師郷記

二十三日、大原野祭追行

師郷記、続史愚抄

二十八日、春日祭追行

この月、祈年穀奉幣を延引

続史愚抄

三月三日、闘鶏

管見

十二日、別殿行幸

師郷記

二十日、内大臣花山院持忠拝賀

師郷記、続史愚抄

二十一日、北野一切経

管見記、師郷記

二十二日、御楽

管見

二十四日、祈年穀奉幣追行、御拝

管見記(二月七日・三月二十四日)、師郷記

二十八日、県召除目追行

管見記(二十六日)、師郷記(二十六日・二十七日・二十八日)

四月一日、旬、平座

師郷記

この日稲荷祭延引

六日、平野祭、同臨時祭

建内記、師郷記

七日、梅宮祭

師郷記

十三日、稲荷祭追行

師郷記、東寺執行日記

十八日、日吉祭

師郷記

二十二日、吉田祭延引

師郷記

六月八日、箏曲の伝授を前権中納言四辻季保に受ける。曲は後小松天皇より伝わるもの

康富記、管見

九日、止雨奉幣を行うべきところ、これを停止

康富記

十一日、月次祭、神今食を延引

師郷記

十四日、絃合奏始あり

管見

この日祇園御霊会

師郷記

十五日、祇園臨時祭

師郷記

十六日、去月二十五日降誕の皇子(後土御門天皇)、伏見宮家に入御の由を仰せ出す

康富記(十一日・十六日)、管見記(五月二十五日)、東寺執行日記(五月二十五日)、続史愚抄(五月二十五日)

十七日、実相院増運僧正に准三后宣下

康富記、続史愚抄

二十日、吉田祭、松尾祭を追行

康富記、師郷記

二十四日、この日より七日間清涼殿で贈太政大臣足利義教一周忌辰法華懺法講を修す。清涼殿に出御、行道あり

管見記、康富記、師郷記

二十九日、大祓

師郷記、管見

七月七日、乞巧奠、御遊

管見記、康富記

八月八日、北野祭、同臨時祭

康富記、師郷記

九日、釈奠

康富記、師郷記

十五日、石清水八幡宮放生会

康富記、師郷記、東寺執行日記

十六日、駒牽

康富記、師郷記

九月九日、重陽節句、平座

康富記、師郷記

十一日、伊勢例幣を延引

師郷記

二十六日、吉田社仮殿遷宮日時定

康富記

三十日、月次祭、神今食

康富記

十月一日、旬、平座

十日、興福寺維摩

康富記

十三日、別殿行幸、この日いささか不調

康富記

十五日、背中にできた癰(大きなおでき、足利尊氏の死因)に罹患、管領畠山持国より医師派遣

康富記、師郷記

十六日、伊勢例幣を追行

康富記、師郷記

十七日、医師下郷、針を行う、この日より御悩祈祷のため賀茂在貞私宅で泰山府君祭を行う

康富記

この日、御悩御祈のため、今日より三日間内侍所臨時御神楽くぉ行う。この日関白二条持基、告文を多武峰に奉納

師郷記、続史愚抄

十八日、御神楽第二夜、秘曲、この日賀茂在方私宅で泰山府君

康富記、管見記、続史愚抄

十九日、御悩御祈のため七社奉幣使を発遣、叡慮によって伊勢に代えて北野を加える、この夜内侍所御神楽第三夜、またこの夜より清涼殿に金剛童子法を行い、諸寺社にも祈祷を仰せつける

管見記、康富記、師郷記

二十二日、病状が快方に向かう

康富記

二十五日、快癒

康富記

三十日、禁裏御修法結願

康富記

十一月一日、忌火御飯、御贖物などを供す、体調不良により出御なし

康富記

三日、平野祭を行う、同臨時祭は延引、この日、春日祭を延引

康富記、師郷記

四日、梅宮祭を延引

康富記、師郷記

七日、足利義勝元服、蔵人権右中弁坊城俊秀を使者として冠、直衣を賜う、この日、義勝に正五位下左近衛中将、禁色昇殿、征夷大将軍などの宣下

管見記、康富記、師郷記

十五日、吉田祭、この日再び春日祭延引

康富記、管見記、春日祭上卿已下参行歴名部類、続史愚抄

十六日、梅宮祭追行

管見記、康富記

十九日、大原野

康富記

二十一日、鎮魂祭

康富記

二十二日、新嘗祭

康富記

この日、腫れ物快癒の後、初めて沐浴

康富記

二十三日、豊明節会を停止、平座

康富記

二十七日、春日祭を追行

康富記

十二月十一日、月次祭、神今食延引

康富記

二十四日、軒廊御卜

康富記

二十七日、貢馬御覧

管見

永享十三(嘉吉元)年正月〜十二月三十日

永享十三年正月一日、四方拝、小朝拝、元日節会

看聞日記、管見記、師郷記

二日、殿上淵酔、御薬供

看聞日記(二日、三日)

五日、別殿行幸

師郷記

六日、叙位追行

看聞日記、管見記、師郷記

七日、白馬節会、この日降雪、御製を梅枝に添えて貞成親王に賜う、親王これに答える

看聞日記、管見記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

東寺執行日記(八日、十四日)、続史愚抄

十日、大雪に寄せた御製を貞成親王に賜う、親王返歌あり

看聞日記

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

看聞日記、管見記、師郷記

二十日、この年辛酉革命のため改元するべく辛酉勘文宣下に関し、左大臣近衛房嗣に仰せ下す、房嗣、勅を奉じ、諸道勘申すべく有司に命ず

管見記、師郷記、師富記

二十九日、年号勘者宣下

師郷記、管見

二月四日、祈年祭を行う、春日祭を延引

建内記、師郷記

九日、園韓神祭

師郷記

この日、釈奠延引

建内記、師郷記

十三日、辛酉条事定

看聞日記、師郷記

十六日、春日祭追行

師郷記、続史愚抄

十七日、改元、永享十三年を嘉吉元年とする。辛酉による孔雀間で密かに仗議を聞く。赦令

看聞日記(十七日、十八日)、管見記、師郷記、元秘別録

嘉吉元年二月十九日、釈奠追行、この夜別殿行幸

建内記、師郷記

この日、辛酉御祈天曹地府祭

看聞日記

二十五日、祈年穀奉幣使

管見記、建内記、師郷記

二十九日、嘉吉の年号について勘者万里小路時房に賞美の言葉

建内記

三月三日、御灯

師郷記

四日、貞成親王、梅枝に添えて和歌を奉る、返歌

看聞日記

十二日、公卿注進する書籍目録、この日に万里小路時房より奏聞、これを校閲し、返す

建内記

十三日、後白河天皇聖忌、長講堂で御経供養

建内記続史愚抄

十六日、県召除目追行

看聞日記、管見記、建内記、師郷記

十七日、一両日病気、良薬を進む

看聞日記

二十一日、赤斑瘡(はしか、麻疹)と診断、足利義教、医師清阿弥に診断させる

看聞日記、建内記

この日より七日間、禁裏で仁和寺宮承道法親王木寺宮系)に孔雀経法を修させる。辛酉の厄を攘うため

看聞日記、管見記、建内記、師郷記、東寺執行日記

この日、北野一切経

管見記、建内記、師郷記

二十三日、病状回復せず、生母の庭田幸子と春日御乳人見舞いに参内、医師清阿弥日々往診

看聞日記、建内記、師郷記

二十七日、病気快方に向かう

看聞日記(二十五日・二十七日)、建内記(二十六日)

二十八日、禁中御修法孔雀経法結願、病気快癒、勧賞として承道法親王に牛車を許す

看聞日記、師郷記、東寺執行日記、続史愚抄

四月一日、旬、平座

建内記、師郷記

この日、稲荷祭延引

続史愚抄

二日、夜、風雨激しく、盗人あり、春興殿神前に登って鈴などを取り、月華門唐居敷の落とす。近日禁裏の警備が弛緩し、しばしば盗難あり、近衛の夜行を再考する議が起こる

建内記(二日、十二日)

三日、別殿行幸

師郷記

四日、貞成親王に十二神絵を賜う

看聞日記

六日、貞成親王に三寺談話絵を賜う、翌日返却

看聞日記(六日、七日)

この日、平野祭を行う、同臨時祭は延引、松尾祭は社家に附す

師郷記、続史愚抄

七日、梅宮祭

師郷記

十三日、病後初の湯浴み、足利義教、剣を献上して祝賀

看聞日記

この日、稲荷祭を追行

師郷記、東寺執行日記

十五日、貞成親王、剣を献上して病後の湯浴みを祝賀、この日親王に絵五巻を賜う

看聞日記

十八日、日吉祭

管見記、建内記、師郷記

十九日、賀茂祭

建内記、師郷記(十九日・二十日)

二十二日、大外記清原業忠、侍読のことを奏聞したところ、咳が出るので、近々指示すると指示

建内記(二十一日・二十二日)

この日、内大臣西園寺公名より文鳳抄十帖を天覧に供す、翌日返却

建内記(二十一日、二十二日)

この日、吉田祭

建内記、師郷記

二十六日、辛酉勘文を諸道に覆問宣下あり

続史愚抄

二十七日、止雨奉幣

師郷記

三十日平野臨時祭追行

建内記

五月九日、今宮祭

建内記(七日、九日)

この日夜より七日間内裏で御修法

看聞日記、建内記(二日、十二日、十五日)

十二日、大外記清原業忠を召し、春秋左伝第八巻を進講させる、咳がまだなおらず、講義後に入御

建内記

十五日、別殿行幸

師郷記

二十六日止雨奉幣使を丹生川上、木船神社に発見

建内記、師郷記

この日、貞成親王粉河縁起絵七巻一合、次いで太神宮法楽寺絵、貞任宗任討伐絵を賜う

看聞日記(二十六日、二十七日)

六月二日、これより先、伏見宮家に病者続出し退出のことを聞き、祈祷を厳重に執行すべきと仰せ出す、三日に百座仁王経真読を執行

看聞日記

六日、辛酉御祈二十二社奉幣に関し沙汰あり

管見

十一日、月次祭、神今食

建内記、師郷記

十四日、祇園御霊会

看聞日記、建内記、師郷記

十五日、祇園臨時祭

建内記、師郷記

十七日、因幡堂本尊薬師を新造本堂に移し、勅封、曼荼羅供、この日、延暦寺根本中堂本尊として薬師如来大和国より登山

建内記、東寺執行日記

二十日、辛酉祈祷のため、二十二社奉幣使を発遣、南殿に出御、御拝

看聞日記、管見記、建内記、師郷記

二十五日、禁裏小番の制を改、十番を減じて五番とする

建内記

二十九日、故将軍足利義教に贈太政大臣宣下、義教は去る二十四日薨ぜし所なり

看聞日記、管見記、建内記、師郷記

この日、大祓を諸司に附す

建内記管見記、続史愚抄

七月二日、洛中物騒のため、禁裏の警備

建内記

七日、乞巧奠

建内記

十三日、世上物騒のため陰陽師賀茂在方をして禁裏御祈祷を行わせる

建内記

十七日、世上物騒のため、辛酉御祈仏眼法を速やかに執行すべく仰せ出す

建内記

十八日、日吉神輿二基を山上に上げる

師郷記

二十三日、小御所において辛酉御祈のため、仏眼法を行う、三十日、結願

建内記(二十三日・二十七日・三十日)

二十五日、去る十八日より御願として泉涌寺において曼荼羅供を行なったが、この日宸筆寿量品および御衣を寄進

建内記

二十六日、赤松満祐節討伐のため、管領右京大夫細川持之より綸旨を奏請しようとして、万里小路時房に議するところあり

建内記

二十九日、八朔の進物を停止、叡慮による

建内記

八月一日、細川持之に赤松満祐父子の討伐の綸旨を賜う

管見記、建内記、薩戒記、師郷記

三日、釈奠延引

続史愚抄

四日、北野祭延引

管見

六日、病気

薩戒記

十三日、釈奠追行

建内記、薩戒記、師郷記

この日、別殿行幸

建内記

十五日、石清水八幡宮放生会

管見記、建内記、薩戒記、東寺執行日記

十六日、駒牽

建内記、薩戒記、師郷記

十七日、月がきれいなので近臣を召し、観月の宴を開く和漢連句一折あり、発句を担当

建内記

十八日、御霊御輿迎を追行

建内記

十九日、贈太政大臣足利義教息に叙爵宣下、宸筆で名を義勝と賜う、この日小除目及び叙位を附行する

管見記、建内記、薩戒記、師郷記

二十三日、読書について事変のため中絶していたが、来たる二十五日、二十七日の間に行うことをおおせ出す

建内記

二十七日、御学問所において大外記清原業忠を召して春秋左伝巻十一を講じさせ、終了後黒戸に出御し連句を行って発句の御製

建内記

三十日、梶井門跡前大僧正義承に准三宮宣下

建内記、師郷記、続史愚抄

九月二日、先月末より風邪気味であったが、回復したので高倉永基、召により参内、鬢役勤仕

建内記

三日、御燈

師郷記

九日、重陽節句、平座

師郷記

十八日、御霊祭追行

建内記

閏九月八日、この年朔旦冬至だが章首に当たらない状況で賀礼を行うべきかどうかを紀伝道明経道の博士および左大弁菅原為清、大外記清原業忠に勘申させるべきであると宣下

管見記、建内記、師郷記

十月一日、旬、平座

建内記、師郷記

二日、朔旦冬至の仗議を延引

建内記

この日、前権中納言四辻季保、黒戸で筝を授ける

建内記

六日、亥子の儀

建内記

十日、別殿行幸

師郷記

十三日、黒戸に出御、和漢連句の催、発句

建内記

十四日、朔旦冬至に関する紀伝道明経道などの勘文を奏進

管見

十六日、夜、臨時朔旦冬至仗議

建内記、師郷記

十八日、亥子の儀

建内記

二十九日、これより先に改暦の宣下、この日を晦日とする

建内記、師郷記

十一月一日、この日、暦では十月三十日だが改暦、臨時朔旦冬至により、十月を小月としたため

建内記

この日、来年の暦奏あり

建内記

十日、平野祭、同臨時祭、この日春日祭を延引

建内記、師郷記

十五日、園韓神祭

師郷記

十六日、鎮魂祭

師郷記

十七日、新嘗祭

建内記、師郷記

十八日、豊明節会を止め、平座

建内記、師郷記

二十二日、春日祭を追行、吉田祭を行う、この日別殿行幸

建内記、師郷記

二十三日、梅宮祭

建内記、師郷記

二十六日、大原野

建内記

二十八日、春日若宮祭礼

建内記

十二月七日、権大納言花山院持忠内大臣に任ず、この日小除目

建内記(十一月五日・十二月七日)、師郷記

十一日、月次祭、神今食を延引

師郷記、康富記

十二日、大外記清原業忠、読書のことを伺う、おって沙汰すると勅答

建内記

十七日、節分、別殿行幸

師郷記

二十六日、内侍所御神楽

師郷記

二十八日、内裏の井戸壊れ、死者、触穢

建内記、師郷記

永享十二年正月一日〜十二月三十日

永享十二年

正月一日、四方拝、出御、小朝拝、御薬、元日節会

建内記、師郷記

二日、殿上淵酔、御薬

建内記、師郷記

三日、御薬

建内記

五日、叙位延引

建内記

六日、叙位を追行

建内記、師郷記

七日、白馬節会、出御

建内記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

建内記、東寺執行日記

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十二日、年始毎年の例により大納言典侍局に渡御

建内記

十四日、吉書三毬打

建内記(十四日・十五日)

十六日、踏歌節会、出御

建内記、師郷記

十九日、建内記

二月四日、祈年祭を行う、釈奠は延引

建内記、師郷記

六日、大原野祭延引

師郷記、建内記

九日、別殿行幸

師郷記

十一日、春日祭

建内記、師郷記

十三日、足利義教の主催で内裏で松囃、清涼殿に出御

建内記、師郷記

十四日、釈奠追行

建内記、師郷記

十六日、園韓神祭

建内記、師郷記

十七日、祈年穀奉幣使を発遣

建内記、師郷記

十八日、大原野祭追行

建内記、師郷記

十九日、法勝寺大乗会

建内記

二十一日、この日より読書の侍すべき旨、清原業忠の仰せ下す

建内記

二十五日、来月二十一日に北野一切経会を行うためにこの日宸筆を染める

建内記

三月二日、大外記清原業忠、礼記の読書に侍す

建内記

三日、御灯、御拝を行う

師郷記

この日御祓

建内記

十二日、大外記清原業忠、学問所において礼記の読書に侍す

建内記

十三日、後白河天皇国忌、長講堂で経供養

続史愚抄

十五日、除目延引

師郷記

二十日、別殿行幸

師郷記

二十一日、北野一切経

師郷記

三十日、県召除目追行

師郷記、続史愚抄

四月一日、平座

師郷記

七日、稲荷祭

東寺執行日記

十二日、平野祭、同臨時祭を行う、この日松尾祭延引

師郷記

十三日、梅宮祭

師郷記

二十四日、日吉祭を行う、松尾祭追行

師郷記

二十五日、賀茂祭

師郷記

(二十三日・二十五日・二十六日)

二十八日、吉田祭

師郷記

五月六日、この日より禁裏で御懺法、十二日結願

師郷記(六日・九日・十二日)、続史愚抄

二十八日、延暦寺六月会

師郷記

六月十一日、月次祭、神今食を延引、一色義貫暗殺で室町殿が蝕穢

師郷記

十四日、祇園御霊会

師郷記

二十五日、月次祭、神今食を追行

師郷記

二十七日、祇園臨時祭

師郷記

二十八日、神泉苑御池を掃除

東寺執行日記

二十九日、大祓

管見記、師郷記

七月二十日、称光天皇十三回忌、安楽光院にて曼荼羅供および御経供養

師郷記

二十六日、別殿行幸

八月四日、北野祭、同臨時祭

師郷記

七日、釈奠

師郷記

十五日、石清水八幡宮放生会

師郷記、東寺執行日記

十六日、駒牽

師郷記

九月三日、御灯

師郷記

八日、別殿行幸

師郷記

九日、重陽節句、平座を停止、前日に光範門院逝去

師郷記

十一日、伊勢例幣、御拝

師郷記

十月一日、旬、平座

師郷記

十一月三日、小除目

管見記、師郷記

八日、万里小路時房に本朝書籍の抄本を目録を以って注進させる

管見

九日、平野祭、同臨時祭、春日祭

師郷記

十日、梅宮祭

師郷記

十三日、大原野

師郷記

十四日、園韓神祭

師郷記

十五日、鎮魂祭

師郷記

十六日、新嘗祭

師郷記

十七日、豊明節会を停止し平座

師郷記

二十一日、吉田祭

師郷記

十二月二日、伊勢一社奉幣

師郷記

五日、別殿行幸

師郷記

十一日、月次祭、神今食

師郷記

二十三日、御楽

管見

二十五日、内侍所臨時御神楽、この夜小除目

管見記、師郷記、続史愚抄

二十七日、貢馬御覧

管見

後花園天皇の陵墓

この前、後花園天皇陵の参拝に行ってきました。後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)といいます。京都市右京区にある、とは行っても、かつての北桑田郡京北町ですから、かなり不便なところにあります。京都駅からJRバスで周山、そこから乗り換えて常照皇寺前です。私は車で行きましたが、市内から安全運転で一時間ほど、残酷なことで有名な走り屋さんならもっと短縮できるでしょうが、川に転落のリスクがありますのでオススメしません。

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常照皇寺に山門の隣に参道があります。もともとは常照皇寺の境内だったのでしょうが、明治に入って宮内庁の管轄とされたために参道が整備されたのでしょう。

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現在はここから見るのが精一杯です。

北朝天皇の多くは深草北陵(ふかくさのきたのみささぎ)に葬られています。具体的に深草北陵には後深草・伏見・後伏見・後光厳・後円融・後小松・称光・後土御門・後柏原・後奈良・正親町・後陽成の諸天皇が葬られています。まさに北朝の正統(しょうとう)というべき人選です。

 

ここに入っていない持明院統天皇を示しますと、十楽院上陵(じゅらくいんのうえのみささぎ)に葬られている花園天皇と大光明寺陵(だいこうみょうじのみささぎ)に葬られている光明・崇光両天皇、山国陵(やまくにのみささぎ)に葬られている光厳天皇、後山国陵(のちのやまくにのみささぎ)に葬られている後花園天皇になります。

 

深草北陵に多くの天皇が葬られていることを以って金がなかった、というのをどこかで見たことがありますが、そんなことはありません。金がなくて、というのであれば、花園も光明も崇光も全部まとめて葬ればいいわけで、彼らが深草北陵に入っていないことに意味があるわけです。それは何か、と言えば、花園・光明・崇光は「正統」(しょうとう)ではない、ということです。深草北陵は「正統の天皇」のみが入ることを許された陵墓なわけです。花園天皇と光明・崇光両天皇が分けられているのは、自らの属する皇統の始源をめぐる意識があるでしょう。すなわち持明院統後深草天皇を始祖とし、伏見・後伏見ときて、光厳天皇で大きな画期があった、という認識なのです。花園天皇はプレ光厳における「非正統」の天皇であり、光明・崇光はポスト光厳における「非正統」の天皇なわけです。

 

では、光厳天皇後花園天皇はどうなっているのでしょうか。

 

そもそもこの二人の陵墓が分けられているのが、明治以降の天皇の歴史の歪曲にあるのはいうまでもありません。後花園天皇光厳天皇は同じ陵墓に入っています。しかし明治時代、民間右翼とそれに連携した犬養毅ら、そして新聞に押された時の内閣第三次桂太郎内閣は北朝天皇皇統譜から削除する、という挙に出ます。光厳天皇も削除され、光厳天皇後花園天皇は別々の陵墓扱いとなります。

 

しかしこういう扱いが後花園天皇の意図を見誤らせるもととなっています。

 

光厳天皇の陵墓が常照皇寺にあるのは、光厳天皇がいろいろな事情から丹波国山国荘に隠遁してしまったことに由来があります。

 

そして光厳に続く持明院統の正統(しょうとう)の天皇たちは、自らのルーツを後深草天皇に求めたわけです。だから彼らは後深草天皇と同じ深草北陵に入ったのです。

 

後花園天皇はご存知の通り、傍系から登極しました。それは彼にとってはより「正統」を主張するエネルギーともなったでしょう。だから彼は持明院統の第二の始祖である光厳天皇と同一化することを選んだのでしょう。特に後花園天皇南朝に脅かされ続けたため、南朝と戦うルーツとして光厳天皇と同一化することは必要でした。

 

山国陵に入ったことを以って、京都から離れた静かな場所を求めた、という見方はおそらく正しくありません。後花園天皇にとっての安らげる場所が伏見であることは、後花園天皇応仁の乱が激化しつつある時期に弟の貞常親王に送った書状からも明らかです。もし彼が魂の安らぎを求めるのであれば、大光明寺陵こそ、まさに彼の故郷です。そこに葬られるべきでしょう。

 

後花園天皇は出家後も応仁の乱の和平に向けて懸命の努力を続けますし、南朝に対する治罰院宣を出すなど、皇統の統一にも並々ならぬ努力を行なっています。特に大覚寺統後醍醐流を根絶やしにすることは、後花園天皇の生涯の課題です。その課題を崩御後も指し示すには山国陵というのは絶好の場所であり、山国陵というのは後花園天皇の遺志をこの上なく示しているのです。事実後花園天皇はその崩御の直前に後醍醐天皇の子孫とも言われる日尊という人物を処刑させています。日尊の首は皇族に準じて処理された、ということで、後醍醐流の抹殺を一つ成し遂げた、ということでしょう。後花園天皇崩御は日尊の祟りだ、という噂は大乗院門跡尋尊*1が書き残しています。後花園天皇にとってはそういう噂が立ったこともむしろ本望だったでしょう。

 

後花園天皇崩御後もしばらく後南朝の動きは続きます。山名宗全後南朝を擁立しようとしたからです。しかし文明十一年を最後にその記録は途絶え、長享二年には義政が東求堂に後醍醐天皇の位牌を置きます。もはや後醍醐流は絶え果て、室町幕府にとっても朝廷にとっても全く危険な存在ではなくなったことを意味します。

 

それにしても後醍醐流抹殺にかけた後花園天皇の執念は、後醍醐天皇崩御に臨んで「たとえ骨は南山の苔にうずもれたとしても、魂は常に北闕をにらみ続けよう」と述べたことに匹敵するものです。その背景についてはまた考えたいと思います。

*1:最初は甘露寺親長と書いていましたが間違いです。『大乗院寺社雑事記』でした。

後花園天皇の生涯−永享十一年正月一日〜十二月三十日

永享十一年

正月一日、四方拝、小朝拝、供御薬、元日節会

薩戒記、師郷記

二日、殿上淵酔、供御薬

薩戒記、師郷記、続史愚抄

三日、供御薬

続史愚抄

五日、叙位、御前の儀

薩戒記、師郷記

七日、白馬節会

薩戒記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

薩戒記、東寺執行日記、続史愚抄

この日女王禄および若菜のことあり

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十三日、方違により泉殿に行幸

薩戒記

十四日、主水司、立春水を献上

薩戒記

十六日、踏歌節会

薩戒記、師郷記、続史愚抄

閏正月二日、関白二条持基並びに右大臣鷹司房平を召して宴を賜い、猿楽張行

薩戒記

十一日、不与、医師投薬

薩戒記

十七日、足利義教の子息(足利義視)の生誕により馬、剣を賜う

薩戒記

二月一日、大原野祭延引

師郷記、建内記

この日、別殿行幸

二日、大外記清原業忠に礼記を講じさせる。この日権大納言万里小路時房を召し、過去の天皇の御記のどれから学習するべきかを問い、後円融院御記から学ぶべきと答える

建内記

四日

祈年祭

建内記、師郷記

六日、春日祭

建内記、師郷記

九日、釈奠

建内記

十一日、園韓神祭延引

師郷記

十二日、大外記清原業忠、御読に侍す、礼記王制を講ず

建内記

十三日、新年穀奉幣祭

建内記、師郷記

十九日、女官等伊勢神宮に代官として参拝、この日帰還

建内記

二十三日、園韓神祭を追行

建内記、師郷記

二十五日、大原野祭追行

建内記

三十日、彗星出現、よってこの日より七日間寺社等をして祈祷

建内記

三月三日、御灯

師郷記

八日、彗星出現により禁裏で仁王経を修す、十四日結願

師郷記、続史愚抄

十二日、和歌当座会を行う、御鞠は中止、十七日、再び和歌会

師郷記(十二日・十七日)

十八日、県召除目追行

管見記(十四日・十五日・十六日・十八日)、師郷記(十四日・十五日・十八日)

二十一日、北野一切経

管見記、師郷記

四月一日、旬、平座

師郷記

二日、稲荷祭延引

続史愚抄

七日、平野祭・同臨時祭並びに松尾祭

師郷記

八日、梅宮祭

師郷記

十三日、和歌会を行う、御鞠は中止

師郷記

十四日、稲荷祭追行

東寺執行日記

十九日、日吉祭

師郷記

二十日、賀茂祭

管見記、師郷記(十八日・二十日・二十一日)、続史愚抄(十八日・二十日・二十一日)

二十三日、吉田祭、この日より彗星祈祷のため禁裏で尊星王法

師郷記、管見

二十七日、尊星王法により免者を行う、この日諸国殺生禁断宣下

師郷記(二十七日・二十九日)、管見記(二十八日・二十九日)

五月十九日、止雨奉幣

師郷記

六月十一日、月次祭、神今食

建内記、師郷記

十四日、祇園御霊会

管見記、師郷記(七日・十三日・十四日)

十五日、祇園臨時祭

建内記、師郷記

十九日、別殿行幸

師郷記

二十二日、小御所南庭に鞠場設営

建内記

二十六日、祈雨奉幣使を丹生川上、貴船両社に発遣

建内記、師郷記(二十五日)

二十七日、勅撰集の撰歌、去年四季の部を進めたが、その残部が完成したので奏聞、真名仮名序ともに前摂政一条兼良の撰進、新続古今和歌集と名付ける

師郷記(二十七日・二十九日)、建内記(二十八日)

三十日、大祓

管見記、建内記、師郷記

七月五日、祈雨奉幣

師郷記

七日、乞巧奠、この夜御楽、御所作あり、笙を吹く

管見記、師郷記、続史愚抄

八月四日、北野祭、同臨時祭、この夜止雨奉幣

管見記、師郷記

五日、別殿行幸

師郷記

十一日、釈奠追行

師郷記

十五日、石清水八幡宮放生会

師郷記、管見記、東寺執行日記、続史愚抄

十六日、駒牽

師郷記

九月三日、御灯、御拝

師郷記

九日、重陽節句、平座

師郷記

十一日、伊勢例幣

師郷記

二十二日、別殿行幸

師郷記

十月一日、旬、平座

師郷記

十一日、後小松院七回忌追善懺法講の習例、同聖忌御八講を安楽光院で行う。十五日結願。

管見記(十一日・十五日)、師郷記(十一日~十五日)

十六日、この日より七日間清涼殿で後小松院七回忌懺法講を行う、出御、十九日、安楽光院で曼荼羅

管見記、師郷記(十六日~二十二日)

二十三日、足利義教が参内し、物を献上、精進解のため

師郷記

十一月三日、平野祭、同臨時祭、春日祭

師郷記

四日、梅宮祭

師郷記

十五日、吉田祭

師郷記

十九日、大原野

師郷記

二十日、園韓神祭

師郷記

二十一日、鎮魂祭

師郷記

二十二日、新嘗祭

師郷記

二十三日、豊明節会を停止、平座

師郷記

十二月十一日、月次祭、神今食

師郷記

十三日、この日より内裏で不動準大法、二十日結願

続史愚抄

後花園法皇の最期

後花園法皇最期の様子を最も克明に今日に伝えるのは『親長卿記』です。後花園院の側近を長く務めた甘露寺親長の日記です。

 

文明二(一四七〇)年十二月二十六日、親長は引越しの当日でした。その日、暇を取り、晩に退出しています。ちなみにこの頃後花園法皇後土御門天皇は室町第に仮住まいしていました。亥の刻といいますから、思い切りざっくり言えば午後十時前後になります。娘婿の中御門宣胤今川義元の外祖父)がやってきます。宣胤らによれば「法皇が御気分がすぐれないので、医者を呼びました」(法皇只今損御心地、被召御医師云々)ということです。

 

親長はあわてて馳せ参じますが、すでに重体となっていたようです(已御大事之体也)。医者たちがやってきてそれぞれ中風である、と診断しています。脳血管の障害などにより麻痺が出る症状です。

 

「御薬を進ずべきの由、之を仰せらる」とありますが、「仰」の主体が難しいです。とりあえずこの段階で親長が「仰」と表記する主体は後花園法皇以外には考えづらいので、ここではまだ後花園法皇に意識があり、「薬をくれ」と言ったことにしておきます。続けて親長は「御正念已に失い了ぬ」と書いてあります。意識が朦朧としていた、ということでしょうか。

 

親長は後ろから抱きかかえて薬をのませようとしますが、うまくいきません。

 

「灸治等所々御沙汰ありと雖も叶わず」ということで、この「御沙汰」の主格も後花園法皇ということになるでしょう。とすれば、「御正念已に失」っているにも関わらず、生への執着はなかなか強いものがあった、と言えるでしょう。

 

その後「主上後土御門天皇)・室町殿(足利義政)・御台(日野富子)等御参りあり」ということで、臨終の場には多くの人が詰め掛けたことがわかります。

 

親長は「元三大師等御立願等然るべきのよし」申し入れます。「主上尤もの由、仰せあり、已に御筆を染められ、勅使を立てらるべきの由、仰せあるのところ、卯の刻ばかりに已に御命終わる」ということで、後土御門天皇が厄除けに効き目のある元三大師の護符を勅使を立てて求めようとしている最中、午前六時に崩御します。

 

後土御門天皇は臨終に立ち会ったのでしょうか。この点が非常に気にかかります。天皇は死に立ち会わないというのが決まり事ですから、父親の法皇であろうとその死に立ち会うことはできないはずです。「御筆を染め」、勅使を立てるために席を外している間に臨終を迎えたのかもしれません。さらに言えば、灸や投薬を指示し、生への執着を見せる後花園法皇とは逆に、後土御門天皇はその死を予感し、死の穢れを避けるために理屈をつけて退出していたのかもしれません。しかし同じ室町第にいることは避けられません。この点は結局そもそも天皇が室町第に長く滞在していることが異例で、そのために朝儀も行われない状況になっています。

 

法皇の弟の伏見宮貞常親王が著した「山賤記」(やまがつき)によると、二十七日夜中、伏見にいた貞常親王のもとに「法皇が中風で突然倒れた、いそぎ参られよ」という知らせがきたので(法皇の御方御中風にや、にはかに御ことそこなはれぬる。いそぎまいるべきよし侍りしかば)、「くれはてぬほどのまいりつきて聞しに、はや此明ぼのに御事きれはべる」ということです。

 

後花園法皇は泉殿の座敷に北を枕に寝具もそのままかけて、生きているような姿だった、と貞常親王は述べています(泉殿の三間の御ざしきにや、北を御枕にて夜の御ふすまなども、只そのままひきかけて御とのごもりぬる、ありしに替らぬ御姿ながら、むなしく見なし奉るかなしさ)。

 

貞常親王は臨終の様子をことこまかに尋ね、それを書き記しています。同じ場所にいたので天皇足利義政がやってきて、医師たちもいろいろ手を尽くしたが、いささかも持ち直すことなく、明け方に灯火の消えるように命も消えて行ったことなどを聞き出すにつけても、臨終に立ち会えなかった無念さを書き記しています(おなじ殿の中にわたらせたまへば、行幸もやがてなり、准后もまいり給ひて、くすしなにかのさはぎにて、さまざまの事ども、夜とともにしつくさせ給へど、聊もみなをし奉らず、あけはつる程に、灯火のひかりと共にきえはてたまひし御ことなど、たずね聞き侍るに、いまはの御きはにさへ、あひ奉らぬかなしさ、いへばをろかなり)。

 

貞常親王がここまで無念だったのは、単なる文学的修辞の可能性も否定できませんが、臨終に間に合わなかったことが実際無念だったのではないでしょうか。貞常親王法皇危篤の報を受け取ったのが夜半、到着が「くれはてぬ」ころで、グレゴリウス暦では一月十八日なので午後五時ごろには到着していたとは思いますが、伏見から烏丸今出川付近までの所要時間を考えれば、午後になってから出発したのでしょう。楽観視していたのかもしれません。

 

にしても、思うのは、例えば後白河法皇の臨終は、念仏を七十篇唱えて座ったまま眠るが如くであった、と言います。棚橋光男氏は『後白河法皇』(講談社メチエ、一九九五年)の中で「後白河らしく最後までにぎやかな、文字どおり眠るがごとき大往生であった」(p125)と述べています。

 

白河法皇は「霍乱」で「死期が近いことをさとった法皇は、新院と待賢門院が「死穢」にふれぬようにと、還御をうながした」と、美川圭氏は『白河法皇』(NHKブックス、二〇〇三年、p243)と述べています。

 

死期を悟り、それへの備えをしている彼らに比べると、後花園法皇の場合はその死が突然やってきたこともあって、バタバタしています。本人も無念さが先だったのではないでしょうか。体の自由がきかず、意識も混濁していく中で彼の脳裏をよぎったものは何だったのでしょうか。それを考えて見たいと思っています。

 

後白河法皇 (講談社学術文庫)

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白河法皇  中世をひらいた帝王 (角川ソフィア文庫)

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