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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

生首が届いたら−後花園天皇の政治責任

いきなり物騒ですみません。

 

生首が届けられた時の反応について見て見ました。

 

永享五年九月十四日のことです。

 

大外記をつとめた中原師郷の日記『師郷記』の記述です。

今日九州賊首被御覧之。去月十六日・十九日両度合戦、大内討少弐父子三人云々。

大内持世が少弐満貞・資嗣父子を打ち取り、嘉頼・教頼兄弟を対馬に敗走させます。この首が届いた時の記述です。この「御覧」の主語はもちろん足利義教です。

 

次は永享九年八月一日における生首の到着に対する反応です。

 

参議中山定親の日記『薩戒記』です。

山名刑部少輔某乱入於備後国奪取国府城楯籠之。仍守護兵⬜︎押寄攻之、討取件刑部少輔、召進首於京都了。仍人々賀申相府各⬜︎銀剣等、又自内裏被遣御剣了。予為御使。 

 わざわざ「内裏より御剣を遣わされおわんぬ」とあります。これについては『師郷記』の同じ事件を述べた同年七月三十日・八月三日条にもないので、永享五年でも「御剣を遣わ」すことはあったかもしれません。

 

でも直感でしかないのですが、「御剣を遣わす」ことはのべつまくなしにやっていた訳ではないと思います。少弐満貞にせよ、山名持熙にせよ、天皇や国家に背いた、というよりは将軍に部下が背いたものでしかない、というのが室町幕府の本来のスタンスだったはずです。応永の乱明徳の乱上杉禅秀の乱足利義満足利義持時代のこういう戦乱は朝廷は局外にあったわけで、室町幕府はあくまでも幕府内部の問題として処理していました。少弐満貞は大内持世の叔父の大内盛見を討ち取ったことで持世の恨みを買っていました。ただ持世の父は足利義満に滅ぼされた大内義弘、盛見は義弘にしたがって幕府に頑強に抵抗したのち帰順した人物であることを考えれば、皮肉なものではあります。

 

山名持熙は弟持豊(宗全)との後継者争いに敗れ、それを逆恨みしたものですから、朝廷の出る幕ではないはずです。しかし後花園天皇が「御剣を遣わす」という形で参加しているのは、足利義教の方針ではないか、と思います。

 

これは義教が勤王家で、天皇の権威を上昇させるために戦争行為に加担させたのでしょうか。私は逆ではないか、と最近考えるようになってきました。明徳の乱応永の乱天皇権威を持ち出さなかった足利義満は、皇位簒奪という側面が強調されてきたこともあり、天皇権威を低くするために戦争に関与させなかったと見られてきました。しかし将軍と部下の争いに天皇を関与させることは、ある意味天皇の政治利用であり、そのような小事に天皇を関与させる必要はない、と考えていたともとれます。

 

義教は天皇権威を自己の権威を荘厳するのにフルに活用します。山名持熙の首が届いたくらいでわざわざ天皇から「御剣」を拝領する、という関係性は義満や義持には考えづらいのではないでしょうか。

 

後花園天皇永享の乱には治罰綸旨を発給し、嘉吉の乱では朝廷の多数の反対意見を押し切り、サボタージュもなんのその、自ら文案を練った治罰綸旨を出します。その後も求められるまま、というよりは自らも室町幕府の政局にどっぷり関与し、挙げ句の果てに応仁の乱を引き起こすことになります。応仁の乱の責任者に後花園天皇を挙げる人は少数派かもしれませんが、この一連の動きと、畠山政長治罰の院宣を発給したことは、まぎれもなく応仁の乱勃発のトリガーを弾いたことに他ならず、極めて重い政治責任を背負っているのはいうまでもありません。後花園天皇の評伝を著す場合には、ここは避けて通れない論点ではないでしょうか。

 

そうであるからこそ、後花園上皇伏見宮貞常親王宛の宸翰が余計に際立つわけです。彼は自らの政治責任を深く感じていたからこそ、出家し、伏見への隠遁を考えるわけですが、結局停戦交渉に奔走することになります。その半ばで血管系の疾患(中風)に倒れ、崩御します。

 

ちなみに大学で史料講読の講義をしていますと、崩御が読めず、意味も知らない学生が結構いて「昭和は遠くなりにけり」と思ってしまいました。まあ考えれば、保育園の娘の同級生のお母さんがたの中でも若い人は昭和の末年生まれだったりするわけで、学生は平成10年代の生まれなわけですから。

後花園天皇の生涯−永享十年正月一日〜十二月三十日

永享十年

正月一日、四方拝、小朝拝、供御薬、元日節会

師郷記、管見記、続史愚抄

二日、殿上淵酔、供御薬

看聞日記、師郷記、続史愚抄

三日、節分、別殿行幸、供御薬

師郷記、続史愚抄

五日、叙位

師郷記、管見

七日、白馬節会、出御

看聞日記、管見記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

東寺執行日記、東寺長者補任、続史愚抄

 

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二十九日、泉殿に出御、梅花を御覧、御製あり

看聞日記

二月一日、大原野

薩戒記、師郷記

三日、釈奠

薩戒記、師郷記

四日、祈年祭

薩戒記、師郷記

六日、春日祭

師郷記、続史愚抄

七日、雪降る、御製を貞成親王に賜う、親王返歌

看聞日記

この日、足利義教桜枝を献上、御製を賜う

看聞日記

八日、貞成親王、和歌中に君の字を用いることの先例を奏進

看聞日記

十一日、園韓神祭

師郷記、薩戒記

十九日、禁裏においてこの日より御修法を行う、別殿行幸

看聞日記、師郷記

二十八日、和歌会始

看聞日記、薩戒記、師郷記

二十九日、貞成親王のもとより春日御絵を召す

三十日、祈年穀奉幣

看聞日記、師郷記

三月三日、御灯

師郷記

四日、清涼殿檜皮葺修理、よって泉殿に遷御

看聞日記、管見記、師郷記

五日、足利義教、桜花を一枝進上、御製を賜う

看聞日記

九日、蹴鞠始

看聞日記、師郷記

十四日、貞成親王のもとより事林広記を召す

看聞日記

十六日、笙の師範として豊原頼秋祗候すべきを仰せ出す

看聞日記

十八日、豊原頼秋、初めて祗候、御楽

看聞日記

二十一日、北野一切経

看聞日記、管見

二十二日、別殿行幸、ついで清涼殿に還御

看聞日記、師郷記

二十八日、北野社に進ずる御製を貞成親王に見せる

看聞日記

四月一日、県召除目追行

看聞日記、管見記、師郷記、続史愚抄

この日、旬、平座

師郷記

五日、別殿行幸

師郷記

六日、平野祭、同臨時祭並びに松尾祭

師郷記

七日、梅宮祭

師郷記

十日、月次和歌会、足利義教以下参仕、以後の和歌会は十日を定日とする。この日蹴鞠会

看聞日記、管見記、師郷記、続史愚抄

十三日、稲荷祭追行

東寺執行日記

十六日、内侍所を宜陽殿に遷す、春興殿修理による、懸壺に降りる、この日御鞠、月次和歌会

看聞日記、師郷記、管見

十八日、日吉祭

管見記、師郷記

十九日、賀茂祭

看聞日記、管見記、師郷記

二十一日、清涼殿東庭にて舞御覧、足利義教以下参列

看聞日記、管見

二十二日、吉田祭

師郷記

二十五日、足利義教の奏上により舞御覧、この日義教物を献上

看聞日記(二十五日・二十六日)、管見記、師郷記

二十八日、内侍所還御の儀を延引

師郷記

この日、月次和歌会、御鞠

看聞日記

五月一日、御稽古として和歌会

看聞日記

十日、和歌会並びに御鞠

看聞日記

十三日、御修法

看聞日記

十九日、月次和歌会

看聞日記

二十二日、別殿行幸

師郷記

二十八日、足引絵書写の着色のため、山門よりこれを召す、女房奉書

看聞日記

六月二日、足引絵第一の裏打ちのことを仰せ

看聞日記

四日、風邪

看聞日記(四日・五日)

五日、地震

看聞日記

六日、快方に向かう

看聞日記

七日、貞成親王に地蔵霊験記絵六巻を下す、足利義教の献上するもの、後、重ねて別絵を下賜

看聞日記(九日・十日・十一日・十三日・十六日)

十一日、月次祭、神今食

管見記、師郷記

十四日、内侍所、春興殿に還御、懸壺に降りる、この日祇園御霊会

看聞日記(七日・十四日)、師郷記(七日・十四日)

十五日、貞成親王に法楽和歌三帖を書き進むべきことを仰せ、この夜祇園臨時祭

看聞日記、師郷記

十七日、貞成親王、法輪院絵四巻を献上

看聞日記

二十三日、この日より禁裏で御修法、不予による、二十九日結願

看聞日記(二十一日・二十三日・二十九日)

二十五日、貞成親王法然上人絵四巻を天覧に供す、次いで同親王のもとより平家物語一合を召す

看聞日記(二十四日、二十五日、二十七日)

二十九日、大祓

師郷記

この日、貞成親王に足引絵第二・第五を書き進むべきむね仰せ

看聞日記(二十一日・二十七日・二十九日・七月一日・二日・四日・二十二日・二十八日・八月七日)

七月七日、乞巧奠

看聞日記、師郷記

八日、別殿行幸

師郷記

十八日、御霊祭

看聞日記

二十九日、足引絵第一、第五巻に宸筆

看聞日記(十一日・二十九日)

三十日、祈雨御祈のことを仰せ出す

師郷記

八月四日、北野祭・同臨時祭

師郷記

五日、釈奠

師郷記

九日、貞成親王、源氏絵を献上、絵詞は宸筆を染めることを仰せ

看聞日記

十五日、石清水八幡宮放生会

看聞日記、師郷記(三日・十五日)

十六日、駒牽

師郷記

十八日、御霊祭

看聞日記

二十三日、飛鳥井雅世、撰集和歌四季の部を天覧に供す

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二十四日、新撰和歌集に新続古今和歌集と命名すべきを仰せ下す

看聞日記

この日、別殿行幸

師郷記

二十八日、この日足利持氏治罰綸旨を発給

横浜市大所蔵『安保文書』

九月三日、御灯

師郷記

四日、右大臣近衛房嗣左大臣に、内大臣鷹司房平を右大臣に、権大納言西園寺公名内大臣

看聞日記(四日、五日)、師郷記

九日、重陽節句、平座

師郷記

十一日、伊勢例幣、御拝

師郷記

二十一日、この日より御修法

看聞日記

二十八日、貞成親王に源氏絵詞下巻に染筆すべき旨仰せ出す、上巻は宸筆

看聞日記(二十八日、十月七日)

この月、足利義教鎌倉公方足利持氏による永享の乱のため、上杉持房を遣わす、治罰綸旨と御旗を賜う

南方紀伝

十月十一日、別殿行幸

師郷記

十三日、新続古今和歌集、当年中に撰進すべきむね、撰者に仰せ下す

看聞日記

二十一日、去年室町第行幸の日に当たるため、御製を足利義教に賜う、義教返歌を奉る

看聞日記

十一月三日、平野祭、同臨時祭、並びに春日祭

師郷記

四日、梅宮祭

師郷記

十五日、吉田祭延引

師郷記

十九日、小除目、叙位、大原野

看聞日記、管見記、師郷記

二十日、園韓神祭

師郷記

二十一日、鎮魂祭

管見記、師郷記

二十二日、新嘗祭

師郷記

二十三日、豊明節会を停止し、平座

師郷記

この日、貞成親王のもとより宇治大納言物語七帖を召す

看聞日記

二十五日、秘曲伝授祝いとして貞常王に御剣を賜う

看聞日記(二十二日・二十四日・二十五日)

二十七日、吉田祭追行

師郷記

十二月三日、貞成親王に絵一巻(むくさい房絵)を贈る

看聞日記

十一日、月次祭、神今食

師郷記

二十日、御修法結願

看聞日記

二十三日、御薬

看聞日記

二十四日、小除目

管見記、師郷記

二十五日、内侍所臨時御神楽

看聞日記、師郷記

二十六日、内侍所御神楽

看聞日記、師郷記

二十七日、貢馬御覧

管見記、師郷記

三十日、追儺、大祓

師郷記

後花園天皇の生涯−永享九年正月一日〜十二月三十日

永享九年

正月一日、四方拝、小朝拝、御薬供御、元日節会、出御

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二日、殿上淵酔

看聞日記、続史愚抄

五日、叙位

看聞日記、師郷記、続史愚抄

七日、白馬節会

看聞日記、師郷記

八日、後七日御修法、太元帥法

東寺執行日記、続史愚抄

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

看聞日記、師郷記

二十日、三毬打

看聞日記

二十一日、猿楽

看聞日記

二十六日、御祈始

看聞日記

二月四日、祈年祭

師郷記

八日、別殿行幸

師郷記

十七日、釈奠追行、園韓神祭

師郷記

十九日、大原野祭追行

師郷記

二十二日、祈年穀奉幣、南殿で御拝

看聞日記、師郷記

二十五日、去年六月に延暦寺から所蔵の足引絵詞(芦引絵詞)の染筆を貞成親王に申請があり、親王はこれを天覧に供し、天皇自ら模写して親王に下す

看聞日記(永享八年六月二十五日、永享九年二月二十五日、二十六日)

二十六日、貞成親王に梅花を賜う、親王と和歌の贈答

看聞日記

三月十三日、長講堂御経供養

看聞日記

十六日、別殿行幸

師郷記

二十一日、北野一切経

看聞日記、師郷記

二十八日、県召除目

看聞日記、(二十四日~二十八日)、師郷記(二十四日~二十七日)、続史愚抄

この日、内々御鞠始

看聞日記、師郷記、続史愚抄

四月一日、旬、平座、この日松尾祭を行い、平野祭は延引

看聞日記、師郷記

二日、梅宮祭

師郷記

八日、稲荷祭

看聞日記、東寺執行日記

十三日、平野祭追行、同臨時祭、日吉祭

師郷記

十四日、賀茂祭

看聞日記、師郷記(十二日・十四日・十五日)、続史愚抄

十七日、吉田祭

師郷記

二十三日、内侍所臨時御神楽、出御

看聞日記、師郷記、御神楽部類

二十九日、御楽

看聞日記

五月一日、別殿行幸

師郷記

この日古今著聞集を購入、貞成親王の蔵書に十六巻を欠くので貸し出し

看聞日記

九日、貞成親王に鯉と鮒を賜う、足利義教より扇献上

看聞日記

十五日、貞成親王に融通念仏絵を賜う

看聞日記

十九日、この日より北斗法

看聞日記、師郷記

二十五日、止雨奉幣

看聞日記、師郷記

六月十一日、月次祭、神今食

師郷記

十四日、祇園御霊会

看聞日記(七日・十四日)、師郷記(七日・十四日)

十五日、祇園臨時祭

師郷記

十七日、別殿行幸

師郷記

二十五日、後宇多院聖忌

東寺執行日記、続史愚抄

二十九日、大祓、節折

師郷記

七月七日、御楽、乞巧奠

看聞日記、師郷記

八月一日、備後国に乱入した山名持熙の首到着、足利義教に剣を賜う

薩戒記

三日、河内国に蜂起した楠木党の大将を討ち取ったことに対し、剣を足利義教に賜う

薩戒記、師郷記

四日、北野祭並びに同臨時祭、この夜別殿行幸

師郷記

七日、小番詰を改める、この日右大臣近衛房嗣に八朔の返礼

薩戒記

九日、釈奠

師郷記、薩戒記

十四日、因果絵五巻を貞成親王に賜う

看聞日記

十五日、石清水八幡宮放生会

看聞日記、師郷記、薩戒記、東寺執行日記

十六日、駒牽

師郷記

十八日、信濃国村上安芸守(頼清カ)降参し、この日室町幕府に見参、よって足利義教に剣を賜う

薩戒記

二十七日、十月二十一日に足利義教第に行幸の事、治定

看聞日記、薩戒記、師郷記

九月三日、御灯中止(犬のお産)、この日行幸の三船詩題者のことを仰せ出す

師郷記、看聞日記

九月九日、重陽節句、平座

師郷記

十一日、伊勢例幣

師郷記

二十一日、行幸御祈として禁裏で八字文殊大法

看聞日記

十月一日、旬、平座

師郷記

十日、足利義教に兵杖宣下

看聞日記、師郷記

十五日、御侍読始、五条為清侍読に。史記序題の句読を奉授

看聞日記、建内記

十七日、来たる二十一日の行幸祈晴のため、将軍家で武徳楽千反吹あり

師郷記

二十日、一条兼良に内覧宣旨を下す

続史愚抄

二十一日、方違として足利義教の室町第に行幸、逗留、義教以下供奉

師郷記、室町殿行幸記、永享九年十月二十一日行幸

二十二日、舞御覧、笙の所作、和歌会、御製あり

師郷記、室町殿行幸記、永享九年十月二十一日行幸

二十三日、舞御覧、所作あり

師郷記、室町殿行幸記、永享九年十月二十一日行幸

二十五日、蹴鞠会、夜に三船御会、笙の所作と漢詩御製

師郷記、室町殿行幸記、永享九年十月二十一日行幸

二十六日、室町第より還幸

師郷記、室町殿行幸記、永享九年十月二十一日行幸

十一月七日、別殿行幸

師郷記

十日、平野祭、同臨時祭並びに春日祭

師郷記

十一日、梅宮祭

師郷記

十四日、大原野

師郷記

十五日、園韓神祭

師郷記

十六日、禁裏修理事始、鎮魂祭

看聞日記、師郷記、康富記

十七日、新嘗祭

師郷記

十八日、豊明節会を停止し、平座

師郷記

この日、金銀茶具を伏見若宮(貞常親王)に賜う

看聞日記

二十二日、行幸後宴あり、貞成親王以下に物を賜う

看聞日記

この日、吉田祭

師郷記

二十五日、賀茂社遷宮並びに立御帳の日時定

師郷記

二十七日、小除目

看聞日記、師郷記

十二月五日、賀茂社遷宮

師郷記

十一日、月次祭、神今食

師郷記

十五日、内裏御修法

看聞日記

二十日、興福寺維摩

師郷記

二十一日、内侍所臨時御神楽行われ出御、恒例御神楽には出御なし

看聞日記、師郷記、御神楽部類

二十三日、別殿行幸

師郷記

二十七日、貢馬御覧

看聞日記

二十九日、貞成親王病む、五千疋を賜う

看聞日記

三十日、追儺大祓

看聞日記

後花園天皇の生涯−永享八年正月一日〜十二月三十日

永享八年

正月一日、元日節会、供御薬

看聞日記、続史愚抄

二日、殿上淵酔、供御薬

看聞日記

五日、叙位

続史愚抄

七日、白馬節会

看聞日記

八日、後七日御修法、太元帥法

東寺執行日記、続史愚抄

十一日、県召除目延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会

看聞日記

十八日、三毬打

看聞日記

二月九日、後小松院仙洞旧跡を貞成親王に賜う

看聞日記

十二日、祈年穀奉幣

看聞日記、管見

続史愚抄

二十七日、別殿行幸

看聞日記

三月三日、闘鶏

看聞日記

五日、この日より内裏に愛染法

看聞日記

この日、御楽始のため御習礼

看聞日記

八日、御楽始、所作あり

看聞日記

十五日、県召除目追行

看聞日記(十二日・十三日・十五日・十六日)

続史愚抄

二十一日、北野一切経

看聞日記

四月七日、稲荷祭

東寺執行日記、続史愚抄

二十日、貞成親王のもとに巌琵琶を預ける

看聞日記

二十五日、賀茂祭

看聞日記、続史愚抄

二十九日、春日社一社奉幣使を発遣、先ず日時、使などを定める

康富記(嘉吉三年四月二十七日条)

この日、月次御楽

看聞日記

五月十二日、貞成親王太平記一部を書写し、進上するように仰せ下す

看聞日記、九月十日・十六日・二十六日にも関連事項

二十二日、この日より内裏御修法

看聞日記

二十八日、この日より三日間祈雨のため、相国寺で観音懺法を行わせる、また神泉苑を掃除、

看聞日記、東寺執行日記(閏五月十六・二十七日、六月八日、三十日、七月四日にも関連事項)、続史愚抄(閏五月二十七日、六月八日、三十日)

閏五月八日、諸方において祈雨御祈

看聞日記

六月十四日、祇園御霊会

看聞日記

十五日、祇園臨時祭

看聞日記

十八日、貞成親王の申請により咸陽宮絵五幅を下す

看聞日記

二十二日、貞成親王に柿本人麿影像一幅を賜う

看聞日記

二十七日、貞成親王の請により絵三幅(観音・蘆・雁、牧谿)を賜う、同日咸陽宮絵返上

看聞日記

七月五日、七夕御楽習礼

看聞日記

七日、七夕御楽

看聞日記

八月十五日、石清水八幡宮放生会

看聞日記、東寺執行日記

十八日、御霊会

看聞日記

九月二十二日、御修法

看聞日記

十月九日、延暦寺根本中堂立柱日時定、十一日立柱

看聞日記

十七日、参議左中将中山定親、禁中伝奏、権中納言三条実雅、右少弁烏丸資任を内裏御料所奉行

看聞日記

十一月五日、平野祭

康富記

六日、梅宮祭

康富記

十二月十三日、万秋楽、蘇合四帖の伝授を豊原久秋より受ける

看聞日記

十七日、内裏御修法

看聞日記

二十六日、内侍所御神楽、臨時御神楽、出御

御神楽部類、続史愚抄

二十七日、貢馬御覧

この年御拭黛、続史愚抄後花園天皇の御拭黛(一八歳)を吉例として霊元天皇東山天皇が準じている

『看聞日記』永享七年八月六日条のうちから伏見宮御所移転関係

翻訳から

三条中納言(実雅)が来た。用事は何かわからない。急いで対面した。申される内容は「室町殿様(足利義教)が京都御所を建てられて、それを伏見宮様に進上したいということです。ただ御在京は御仕えする人々にとっては難儀なことなので、このまま伏見にいらっしゃるのがよろしいか、宮様の御意はいかがか、ということを内々に尋ねよとの仰せで参り申しました」ということである。「旧院御所を壊して一条東洞院内裏の近所に立てましょう」ということである。

「東御方(貞成親王の父栄仁親王の側室)が普段から伏見御所は手狭で荒廃しており、さらに在京したいということを申される。誠に御意は本当なのだろうか、東御方は耄碌してあらぬことを話しているのだろうか、そこで御乳人(後花園天皇の乳母で貞成親王後花園天皇を結ぶ女官)をお呼びになって同じことをお尋ねしました」ということである。「まず大変喜ばしいことで、何も言いようがない。大変嬉しいけど、在京はおおごとだし、なかなか実現するものでもないが、まず長年本能であり、満足で、ものすごく喜んでおります」ということを三条に申させた。

 ここの訳ですが、横井清氏の『看聞御記−「王者」と「衆庶」のはざまにて』(そしえて、1979年)では「貞成は、それでも吾が耳を疑った。公方の御意は誠なるか、東御方は『老蒙、正躰なき事を申さ」れたのではないかと。」(p298)と「ボケたんちゃうか」という言葉を貞成親王としていらっしゃいますが、原文を丹念に見る限り、やはり「ボケたんちゃうか」と思ったのは足利義教のようです。でなければ、すぐに「御乳人」を呼んで東御方がボケたのではないことを確かめることはできません。義教は室町殿、現在の同志社大学周辺に、貞成は伏見御所、現在の京阪宇治線観月橋付近にいるのですから。さらに「云々」(うんぬん)の使い方を見るに、この部分は三条実雅が伝えている義教の言い分であると考えた方が筋が通ります。横井説では「云々」がうまくいかせていません。

 

原文を以下に示しておきます。

抑三条中納言参。何事哉不審。忩対面。被申旨京都御所を被建立可被進。但御在京、祗候人男共難儀歟。地下ニ御座ハ猶可然歟。御意如何之由、内々可尋申之由被仰之間参申云々。旧院御所被壊渡て一条東洞院内裏近所ニ可被立云々。東御方不断此御所狭少荒廃、旁以有御在京度之由被申。誠御意実事歟、東御方老蒙無正躰被申歟。御乳人今朝被召此趣同有御尋云々。先以大慶不能左右、珍重無極。但在京大儀、於事雖難治年来本望之上、如此御計之間不及是非。先多年本望満足喜悦千万之由、三条へ令申。

 なぜ義教が東御方の発言を疑ったのか、ということですが、疑った、というよりは、慎重にならざるを得なかった、ということでしょう。義教としては一刻も早く貞成親王を京都に居住させたいが、貞成親王の意向がどうか、ということが気にかかっていたのでしょう。何しろ貞成親王がどこに居住するか、というのは、後花園天皇がいずれの皇統に属するのか、をめぐる一大事だからです。東御方からの情報は義教にとっては都合のいいものでした。京都の仙洞御所に住まわせれば、後花園天皇を後光厳皇統から引き剥がして崇光皇統に付け替えることができるからです。満済も逝去した今となっては絶好のチャンスです。しかし肝心の貞成親王が嫌がっていれば見送らざるを得ない、という状況で東御方の貞成親王が在京したがっている、という情報は渡りに船です。しかしそこで飛びつかずに慎重に裏どりをしているところは、さすがに義教の性格を表しています。当時、東御方は74歳、義教のよき話し相手でありました。もっとも翌年には絵の評価をめぐって義教にキレられ、殴り倒された挙句、室町御所を追放されます。義教も完全に追放するのは気が引けたのか伏見宮に伺候することは認めましたが。

後花園天皇の生涯−永享七年正月一日〜十二月三十日

永享七年

正月一日、当代初度の四方拝、小朝拝、供御薬、元日節会

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二日、殿上淵酔

看聞日記

五日、叙位

看聞日記、師郷記、続史愚抄

七日、白馬節会

看聞日記、師郷記

八日、後七日御修法

満済准后日記、東寺執行日記、東寺長者補任、続史愚抄

十一日、県召除目を延引

続史愚抄

十六日、踏歌節会、出御

看聞日記、師郷記

二月四日、祈年祭

師郷記

十一日、園韓神祭

師郷記

十八日、春日祭

師郷記

二十一日、受戒

看聞日記

二十五日、貞成親王天皇のことについて立願していたが実現していたので、聖廟法楽連歌張行。

看聞日記

この日、大原野

二十八日、祈年穀奉幣、御拝

師郷記

三月三日、御灯

師郷記

十一日、足利義教、棚・盃台を献上

看聞日記

十二日、県召除目追行

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二十一日、北野一切経

看聞日記、師郷記

四月一日、旬、平座、夜に別殿行幸

師郷記

この日稲荷祭延引

続史愚抄

六日、平野祭・松尾祭

師郷記

七日、梅宮祭

師郷記

十三日、稲荷祭追業

東寺執行日記

十七日、舞御覧

看聞日記、師郷記

十八日、日吉祭

師郷記

十九日、賀茂祭

看聞日記、師郷記

二十二日、権大納言兼左大将鷹司房平内大臣に、この日吉田祭

看聞日記、師郷記

二十三日、前大僧正義承を天台座主

師郷記、続史愚抄

五月十四日、禁裏本撰集佳句第一巻欠本による貞成親王に書進せしめられる

看聞日記(永享六年八月十五日この日条も参考)

十八日、この日より代理に御修法を行う

師郷記、看聞日記

この日貞成親王に詞花集を書進すべき旨を仰せ下す

看聞日記

六月六日、貞成親王のもとより蹴鞠文書を召す

看聞日記

八日、貞成親王に金葉集を書進べき旨仰せ下し、料紙を賜う。詞花集の書進は中止

看聞日記(九月十四日に進献)

十一日、月次祭、神今食

師郷記

十四日、祇園御霊会

看聞日記、師郷記

十五日、祇園臨時祭延引

師郷記

二十九日、貞成親王に内裏絵七巻、大嘗会御禊行幸絵を賜う

看聞日記

三十日、大祓

看聞日記

七月七日、乞巧奠

師郷記

八日、貞成親王後小松天皇宸筆詞書の八幡縁起絵を賜う

看聞日記

二十八日、延暦寺根本中堂造営日時定

師郷記

八月三日、延暦寺根本中堂事始

師郷記

四日、北野祭、同臨時祭

師郷記

六日、足利義教貞成親王に京へ移ることを提案

看聞日記

七日、後小松天皇の仙洞御所の建物を貞成親王鷹司房平泉涌寺に分かち賜う

看聞日記

十五日、石清水八幡宮放生会

看聞日記、師郷記、東寺執行日記

十六日、駒牽

師郷記

十八日、夜、来たる二十五日の笙始の習礼

看聞日記

二十一日、別殿行幸

師郷記

二十五日、笙始

看聞日記、師郷記

この日足利義教、後朱雀・後三条天皇の宸筆御記を献上

看聞日記

九月三日、御灯

師郷記

九日、重陽節句、平座

師郷記

十一日、伊勢例幣、御拝

師郷記

十四日、貞成親王、書写の金葉集を献上、御禊行幸絵の修理一巻完成しこれを奉る

看聞日記

十五日、貞成親王に返歌

看聞日記

二十日、この日より御修法

看聞日記

二十三日、当座和歌会

看聞日記

十月一日、旬、平座

師郷記

八日、別殿行幸

師郷記

九日、延暦寺根本中堂立柱日時を定める

続史愚抄

この日、天地災変祭を行う、星変(三星合)のため

看聞日記

十三日、貞成親王のもとより古今著聞集を召す

看聞日記

十七日、新たに勅撰する歌集の序を一条兼良に仰せつける

看聞日記

二十日、後小松天皇三回忌、追善のため泉涌寺雲龍院で八講、八講僧名定、免者宣下

看聞日記、師郷記、続史愚抄

二十六日、貞成親王邸立柱上棟のため、馬を賜う

看聞日記

十一月五日、平野祭、同臨時祭、春日祭

師郷記

六日、去年の病気に際し、伊勢神宮石清水八幡宮に立願したが、この日、伊勢神宮へ神馬奉献、石清水八幡宮に真読大般若経の奉納および御神楽奉納のことを治定

看聞日記

この日、梅宮祭延引

師郷記

九日、石清水八幡宮でこの日より七日間真読大般若経の奉納、また御神楽、大坂御百度詣などのことを仰す

看聞日記

十三日、伊勢神宮に神馬奉献、この日典侍日野郷子以下の代参あり、石清水八幡宮御神楽、大坂百度詣を行う

看聞日記

十七日、吉田祭

師郷記

十八日、梅宮祭追行

師郷記

二十日、大原野

師郷記

二十二日、園韓神祭

師郷記

二十三日、鎮魂祭

師郷記

二十四日、新嘗祭

師郷記

二十五日、豊明節会をやめ、平座

師郷記

十二月八日、貞成親王のもとより御禊行幸絵六巻を進む、修補終了

看聞日記

十一日、月次祭、神今食を行う

師郷記

二十一日、これより先、貞成親王新御所へ、この日勅書を貞成親王に賜い、その移転を賀し、剣を賜う

看聞日記、師郷記

この日、賀茂社木作始日時定

師郷記

二十三日御楽始、所作あり

看聞日記

二十七日、貢馬御覧あり

師郷記

二十九日、内侍所御神楽、臨時御神楽を附行

師郷記、御神楽部類、続史愚抄

三十日、追儺、大祓

師郷記

羽賀寺縁起に後花園天皇が出てくる理由について

中世北方史をやっている研究者にとって一番目にする天皇後花園天皇でしょう。というよりも後花園天皇以外の天皇を目にすることはほぼないと言って過言ではありません。

 

東日流外三郡誌』にも出てきます。『北部御陣日記』にも出てきます。これらは以前ネタにしました。

 

まじめな話をしますと『羽賀寺縁起』に出てきます。後花園天皇が十三湊の日之本将軍安倍康季に命じて若狭国小浜の羽賀寺を再建させた、というあれです。

 

これを証拠として十三湊還住説を唱える研究者も多いです。十三湊還住説についてはどう考えても成立しないことを近いうちに出す論文で示します。

 

これについては、室町幕府と南部氏の関係について、安藤氏よりも濃密な主従の関係を獲得していたために、それを補完するべく、天皇からの再建命令をとったものと解釈することができる、とする黒嶋敏氏の議論(「室町時代の境界意識」『歴史評論』767、2014年)にはいささか疑問が残ります。足利義教が少なくとも安藤氏の要請に応じて和睦に動いていることは事実ですし、義教が御内書を出すのを渋ったのは、安藤氏よりも南部氏の方により濃密な主従関係を結んでいたからではなく、南部氏にガン無視されたらメンツが立たないからです。何よりも南部氏の顔を立てるために安藤氏には天皇の命令、ということにした、というのは、なぜそこまでしなければならないか、という疑問を禁じえません。

 

黒嶋氏は『羽賀寺縁起』に後花園天皇が出てくる理由を説明しようとして以上のような説明を行なっているのですが、確かに後花園天皇が出てくる理由については不明確でした。

 

しかし今日、だらだらと『福井県史』通史編を読んでいますと「禁裏御料小浜」という話が出てきました。

『福井県史』通史編2 中世

実はこれ、何度も読んでいたのですが、なんとなくダラダラと読んでいたので、頭に残っていませんでしたが、小浜が禁裏御料であれば、禁裏御料の寺の修理の命令主体は室町殿であるよりは勅命による方が自然です。よしんば実際の決定権が室町殿にあろうとも、です。というより、実際の決定権は室町殿にあるのは自明ですが、名義上後花園天皇の勅命という形が自然だったわけです。

 

私がこれを見落としていた大きな理由は、小浜が長講堂領や室町院領といった持明院統の所領群に入っていないからです。だから小浜が禁裏御料である可能性を頭から排除していました。先入観が邪魔をしていたわけです。恥ずかしい話です。

 

しかし若狭国松永荘は小浜の東にあり、羽賀寺にも近いところにありますが、そこは室町院領で、伏見宮貞成親王の所領になっていました。貞成親王は鮭・昆布公事を管理しており、北海道とはつながりがあります。貞成親王が管理していた鮭は、干鮭で、瀬川拓郎氏が指摘するように、石狩川で漁獲され、現地で加工されたものでしょう。

 

アイヌ・エコシステムの考古学

アイヌ・エコシステムの考古学

 

 伏見宮家の鮭・昆布公事は、私見では北条得宗家から足利家を経て、足利義持の判決をひっくり返した足利義教によって、その裁判の既得権者である光範門院に替地として献上され、後小松院崩御後に義教によって取り上げられ、常磐井宮を経て伏見宮に伝領したものですが、小浜は後小松天皇から称光天皇への譲位前後に禁裏御料に編入されたもののようです。この経緯についてはもう少し詰めたいと考えています。なにせ『小浜市史』を読み直す必要がありますが、手元にありませんので。