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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

崇徳上皇

一言で言えば悲運の人です。

 

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崇徳院 天子摂関御影

歌人として知られており、百人一首では77番の歌です。

瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ

 

鳥羽天皇の長子として待賢門院藤原璋子との間に産まれ、諱を顕仁といいます。曽祖父白河法皇の意を受けて鳥羽から譲位され皇位を継承します。まさに「正統の天皇」というべきスタートでした。しかし白河が没した後、鳥羽の寵愛は待賢門院から美福門院得子に移ります。

 

とは言っても待賢門院は閑院流藤原氏の出で、由緒正しい家柄です。対して美福門院は魚名流藤原氏の末裔で、長い間公卿になることもできず、受領などを歴任していた家系です。それが藤原顕季が白河の乳兄弟であったことから院近臣として台頭してきた家系です。美福門院の兄の藤原家成の家には若き平清盛が出入りしていました。平清盛の属する伊勢平氏もまた院近臣として急速に台頭してきた家系です。

 

崇徳といえば待賢門院と白河の間に生まれた不義の子で、鳥羽から見れば叔父にあたる、というので「叔父御皇子」と呼ばれ、鳥羽から忌み嫌われた、という伝説があります。これに関しては肯定説、否定説がありますが、実際のところは分かりません。ただ『古事談』にのみ見えるところから、当時囁かれた噂ではあったようで、最終的にこの風説が彼の運命を暗転させることになります。

 

ただ鳥羽が終始一貫して崇徳のことを忌避していたか、というと私は少し疑問があります。もしそこまで鳥羽が崇徳のことを忌避しているのであれば、崇徳の皇子の重仁親王を美福門院の猶子にして伊勢平氏のバックアップを付けたりはしないでしょう。鳥羽は場合によっては崇徳に治天の地位に就かせても構わない、と思っていたのではないか、と考えます。

 

ただ崇徳と鳥羽の関係が円滑でなかったのは、崇徳が白河から「正統」を引き継いでいる側面があったからではないでしょうか。崇徳の正統性は白河によって担保されているのです。

 

鳥羽は自らの皇統を作ろうと企図して白河によって決められたのではない近衛天皇を選び、美福門院の子孫に皇位が継承されるようにしました。しかし近衛は病弱で1153年には失明寸前に至り、譲位を考えるようになります。忠通はこの時崇徳の同母弟の雅仁親王の皇子の守仁親王を擁立しようとして「関白狂へるか」と忠実に呆れられています。

 

近衛は一旦は回復しましたが、行く末は見えており、崇徳の皇子の重仁親王守仁親王が美福門院の猶子として万が一に備えることとなります。そして近衛の死去で忠通が今度は雅仁親王を推し、後白河天皇即位ということになります。

 

崇徳を追い込んだのは鳥羽よりは忠通でした。忠通は自分の娘の皇嘉門院が皇子を生まず、他の女性から皇子が生まれたことを根に持ち、崇徳の排斥に取り掛かりました。待賢門院と白河の話を吹き込んだのは忠通ではないかと考えられています。

 

そして鳥羽の死に目に安楽寿院に向かった崇徳は鳥羽に面会を断られます。鳥羽の死去を境に大きく政局は動き、「上皇左大臣が謀反を企てている」として厳戒態勢が取られ、摂関家の本拠地で氏長者頼長の管理下にあった東三条殿が源光保らによって没官されます。元来崇徳を支える有力な勢力であった伊勢平氏を切り崩した後白河サイドは崇徳と頼長をまとめて処分しようとしたのです。

 

追い詰められた崇徳は誰も想定していなかった動きに出ました。白河院のゆかりの白河殿に無断で侵入し、武士を招集したのです。頼長も知らされていなかったと見え、あたふたと白河殿に向かっていますが、個人的に不思議なのは、崇徳と頼長はいつのまに連携関係になっていたのか、ということです。近衛死去時に頼長が失脚し、崇徳が治天の君の可能性を失ったのがきっかけでしょうが、彼らを結びつけたものはなんだったのか、私としてはすっきりしていません。もう少し勉強します。

 

白河殿に篭った崇徳は後白河に対して何回か使者を遣わして交渉しています。山田邦和氏は崇徳を養父として治天の君にすること、重仁親王を皇太子にすることではないか、と推測していらっしゃいますが、私も従いたいと考えます。

 

交渉は敗れましたが、そもそもこのような無理ゲーをなぜ崇徳はあえてしたのか、どこがポイントオブノーリターンだったのか、考える必要があります。また崇徳がもし挙兵しなければ彼の運命はどうなっていたか、とか、いろいろ考えたいところがあります、もっともそれらは「もし」なのであまり好まれない問いではあります。しかし故棚橋光男氏は次のように書いています。

「歴史に〈もし〉はない」「歴史の〈もし〉は禁句だ」などというわらうべき俗言がある。しかし、私に言わせれば歴史はまさしく無数の〈もし〉の集合体なのだ。そして、そのいくつもの〈もし〉が切り捨てられていく政治のダイナミズムの追跡、これこそが真の政治史、政治史の王道にほかならないのだ。(『後白河法皇』「プロローグ」)

 


後白河法皇 (講談社学術文庫)

 

 乱後、為義らに擁立されて東山に逃れますが、御室仁和寺にいた同母弟の覚性法親王を頼りますが、捕縛され、讃岐に流罪となります。彼が剃髪したのはそれで許されるだろうという甘い目論見があったのでしょうが、出家剃髪したところで院政期には治天の君になることができるため、政治的に無力にするには淡路廃帝以来の天皇経験者の流罪という過酷な処分が要求されたのです。

 

崇徳は写経に専念し、その経本を都に納めてほしい、と送りましたが後白河はそれを送り返し、崇徳の死去にも何もせず、讃岐院という追号を贈るに留められました。しかし20年後に建春門院や六条院が次々と亡くなり、また延暦寺の強訴や鹿ケ谷事件などの事件が頻発すると「讃岐院の祟り」という風説が流れ、崇徳院という追号が付けられました。これ以降非業の死を遂げた天皇には「徳」の字を付けた諡号が贈られることとなりました。

 

正親町天皇の生涯ー永禄四年正月一日〜十二月晦日

永禄四年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止
御湯殿上日記、公卿補任続史愚抄
四日、千秋万歳、五日同じ
御湯殿上日記(四日・五日)
五日、叙位を停止
続史愚抄
七日、白馬節会停止
続史愚抄
八日、太元帥法聴聞、後七日御修法は停止
御湯殿上日記(八日・十一日・十四日)、厳助往年記、東寺執行日記
十二日、別殿行幸
御湯殿上日記
十五日、三毬打
御湯殿上日記
十六日、踏歌節会停止
続史愚抄
十八日、三毬打
御湯殿上日記(十七日・十八日)
十九日、和歌会始
御湯殿上日記
二十七日、貝合、後数このことあり
御湯殿上日記(正月二十七日・二月四日・閏三月二日・十五日)
この日臨時の御拝を始める
二月
二日、連歌会、後数このことあり
御湯殿上日記(二日・三日・五日・六日)
三日、三条西公条をして源氏物語系図を書写せしむ、この日公条これを献上
御湯殿上日記
六日、三条西公条をして御製に批点を加えしめる、また古今和歌集の進講を仰せつける
御湯殿上日記
十一日、春日祭に付き奏上あり
御湯殿上日記
この日、山科言継をして源氏物語を書写せしむ
御湯殿上日記
二十二日、水無瀬宮法楽連歌会並びに当座和歌会
御湯殿上日記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記
三月
三日、闘鶏
御湯殿上日記
九日、楽始
御湯殿上日記
十三日、将軍足利義輝参内して歳首を賀す
御湯殿上日記(九日・十三日)
二十四日、和漢会
御湯殿上日記
閏三月
八日、甘露寺経元に薫物を賜う
御湯殿上日記
九日、別殿行幸
御湯殿上日記
十日、築地修理のことを幕府に仰せつける
御湯殿上日記(十日・十六日)
二十二日、月次の御製を三条西公条に示す、この日公条、伊勢物語の奥書を書いて献上
御湯殿上日記
二十九日、閏三月昼当座和歌会並びに月次和歌会
御湯殿上日記(二十七日、二十九日)
四月
七日、受戒
御湯殿上日記
八日、稲荷祭
東寺執行日記
二十四日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十六日、この日より七日間、諸社に天変御祈を修せしめる
続史愚抄
この日、月次の御製を三条西公条に示す
五月
四日、諸社寺に天変御祈を修せしめ、この日諸社寺、その巻数を献上
御湯殿上日記
十三日、歓喜天に近侍の代官詣
御湯殿上日記
十六日、恒例念仏
御湯殿上日記
十九日、不予
御湯殿上日記(十九日・二十日・二十一日・二十二日・二十三日)
二十五日、鞍馬寺に近侍の代官詣
御湯殿上日記
二十九日、誕生日により看経あり、また内侍所御百度、この日御霊社に近侍の代官詣
御湯殿上日記
六月
一日、庚申待
御湯殿上日記
七日、楽あり、後、またこのことあり
御湯殿上日記(七日・九日)
十四日、月食により御祈
御湯殿上日記
この日、祇園御霊会
御湯殿上日記
二十日、この日より三日間臨時御拝
御湯殿上日記(二十日・二十二日)
二十五日、北野社法楽和漢会並びに当座和歌会
御湯殿上日記
二十九日、御湯召、この日大祓
御湯殿上日記
七月
六日、楽習礼あり
御湯殿上日記
七日、七夕節、和歌会並びに楽会
御湯殿上日記
十二日、三条西公条の申請により、越前国赤藤社縁起の外題に宸筆を染める
御湯殿上日記(十一日・十二日、五年九月十六日)
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
二十四日、世上物騒(畠山高政・細川晴之・六角義賢らの挙兵)により警固のため、掘割、小屋建などの備えを設けさせる
御湯殿上日記(二十四日・二十五日・二十九日)
八月
十二日、三条西公条のもとに御手元御箱類を預ける、世上物騒の故
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
二十三日、月次会の御製を三条西公条に示す
御湯殿上日記
九月
五日、後奈良天皇の法事
御湯殿上日記(四日・六日)
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記
二十日、宸筆般若心経を三条西公条に賜う
御湯殿上日記(十二日・二十日・二十二日)
二十九日、九月昼当座和歌会
御湯殿上日記
十月
二日、明日、三条西実隆の二十五回忌によりその子公条に阿弥陀経料、御製などを賜う、よって三日、公条、これを謝して返歌
御湯殿上日記(二日・三日)
四日、庚申待、連歌
御湯殿上日記
六日、山城国禅林寺の仏像を召して叡念あり
御湯殿上日記
七日、亥子の儀を行う、十九日また同じ
御湯殿上日記(七日・十九日)
十五日、日待
御湯殿上日記
十七日、別殿行幸
御湯殿上日記
十八日、三条西公条より嵯峨天皇宸筆般若心経を叡覧に供す、よって勅封
御湯殿上日記(十七日・十八日)
この日、三条西公条に古今伝授
御湯殿上日記(十八日・十一月四日)
十一月
六日、薫物を調合し廷臣に賜う
御湯殿上日記(六日・七日・八日・九日)
十二月
一日、大納言四辻季遠に生花を写させる
御湯殿上日記
二十二日、誠仁親王、雪に寄せる歌を献上、よって返歌
御湯殿上日記
二十三日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十九日、長講堂の綸旨のことについて万里小路輔房に仰せつける
御湯殿上日記(二十五日・二十九日)

稀代の寝業師藤原忠通

寝業師という言葉があります。私は故根本陸夫氏を思いつきます。裏工作が得意な人ということですが、根本氏も緻密な情報網を駆使して大胆なトレードを仕掛けたり、有力なアマチュアを裏技的な手法で入団させたりして西武やダイエーソフトバンクを強豪球団に変貌させました。

 

藤原忠通もその意味では寝業師といってよいでしょう。

 

藤原忠通百人一首では「法性寺入道前関白太政大臣」として入っています。

わたの原 漕ぎ出でてみれば 久かたの 雲ゐにまどふ 沖つ白波

 

保元の乱後白河天皇側について藤原頼長らを破った人物という印象しかありません。さらに『保元物語』に基づく「崇徳・頼長によるクーデタ」というイメージが強く着いてしまっているために忠通の凄みが伝わりづらい、という面もあります。

 

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藤原忠通 天子摂関御影

 

忠通は藤原忠実の嫡男ですが、忠実が次男の頼長を偏愛したため、関白とは名ばかりの宙ぶらりんの前半生だったようです。そのような中で彼は院近臣層への接近を図ります。摂関家のプライドと強烈な自負意識によって院近臣との対立を先鋭化させていった頼長とは逆に彼は院近臣との連携に活路を見出したのです。

 

忠通の話は山田邦和氏の「保元の乱の関白忠通」(朧谷壽・山中章編『平安京とその時代』思文閣出版、2009年)に依拠しています。

 

近衛天皇の四条東洞院殿が放火によって炎上し、避難先の小六条殿も放火によって避難を余儀なくされ、忠通の提供した近衛殿を里内裏と定めることとなりました。これは結果的に藤原頼長の養女の多子(まさるこ)を近衛から引き剥がすことに成功したことになります。

 

さらに忠通は白河法皇と待賢門院との不義の子が崇徳である、という醜聞を鳥羽に吹き込みます。これが本当かどうかは議論の分かれるところですが、少なくとも鳥羽はこれを事実と信じ込み、崇徳に対する恨みを募らせていきました。

 

忠通とて崇徳との関係はもともと悪くはありません。忠通の娘の皇嘉門院藤原聖子は崇徳の中宮でした。したがって崇徳が治天の君になることについては忠通にとって悪いディールではありません。しかし忠通の狭量なところがこういうところで出ます。忠通は皇嘉門院ではなく兵衛佐局という女性との間に唯一の皇子重仁親王を生んだことで忠通と崇徳の関係は悪化します。重仁親王伊勢平氏を後ろ盾として時期天皇の座を狙うこととなります。

 

近衛天皇を完全に囲い込んだ忠通は、病状の悪化した近衛から譲位の意思を知らされると鳥羽に対して守仁親王への皇位継承を進言して鳥羽から叱責されます。これで忠通の立場は再び悪化しましたが、近衛の死去の際にその死因を忠実・頼長による呪詛であると訴え出たことで再び表舞台に立つことに成功します。

 

頼長にとって不幸だったのは姉の高陽院が死去したことでした。彼女は鳥羽の皇后となっていましたが、忠実・頼長と鳥羽を結ぶ重要なパイプだったのです。彼女の死去によって鳥羽と忠実・頼長の関係は断ち切られてしまいました。

 

近衛の後継者を選ぶ時に雅仁親王を強く推した忠通によって雅仁即位の道筋がつけられ、雅仁ー守仁という皇位継承のラインが引かれます。実はこの段階に至っても重仁親王皇位継承の候補に残っていたようですが、忠通が主導権を握った以上は重仁即位、崇徳の治天の君の可能性は残されていませんでした。ちなみに美福門院は重仁・守仁双方を天秤にかけています。

 

鳥羽法皇の死去に当たって後白河陣営は活発な切り崩し工作を行います。鳥羽の葬儀には伊勢平氏は参列していません。重仁親王の乳母だった池禅尼を擁立する伊勢平氏は崇徳派とみられていたのでしょう。しかし三日後には池禅尼の決断によって伊勢平氏は崇徳を見限ることにしたようです。この段階で崇徳は詰みました。

 

と同時に後白河派は源光保を派遣して摂関家の本邸の東三城殿を接収し、頼長を謀反人認定します。

 

ここまでは忠通の筋書き通りに進んでいたとみてよいでしょう。崇徳は政治的な権力を永久的に失い、頼長も完全に失脚しました。忠通としては頼長は流罪という名目で摂関家領に一旦退いた後に復帰させて儀同三司にでもすればいい、と考えていたのではないでしょうか。崇徳も和歌の道に没頭させれば手駒としては使えます。

 

しかしここから事態は忠通の想定から離れていきます。

 

崇徳が白河殿に侵入し、挙兵したのです。これについては誰もが予想外でした。宇治に退いていた頼長もあたふたと白河殿に駆けつけます。その後崇徳と後白河の間で何回か交渉があったようです。山田氏は崇徳を治天とし、重仁親王立太子藤原頼長復権を要求したのではないかと考えていらっしゃいます。しかしこの条件は忠通にとっては受諾できるはずもなく、決裂します。

 

伊勢平氏河内源氏の主流を抱え込んだことで忠通サイドは圧倒的に有力になりました。忠通としては熟柿が落ちるのを待てばよかったのです。圧倒的な武力を背景にすれば頼長らは没落するしかありません。兵を集めて挙兵した以上は崇徳も頼長も無事ではすみませんが、逃亡すればまだ許される可能性はありました。

 

そのころ崇徳のもとに集った源為義が提案した夜襲は最終的には頼長らの離脱を示唆するものでした。これは同時に忠通にとっても望ましい展開だったでしょう。

 

しかし崇徳と頼長は徹底的に抗戦する道を選びます。武力で崇徳らを排除するのか、忠通は苦悩します。信西源義朝は口々に早期武力行使を主張し、彼らに押し切られる形で忠通は排除を命じます。

 

この忠通の「目をパチパチさせて見上げるばかりであった」という逡巡が忠通の怯懦なのか、忠通の熟慮なのか、議論は分かれます。その後の忠通の運命に与えた影響についても議論は当然分かれます。ともあれ義朝らによる排除は成功し、崇徳は讃岐へ流罪、頼長は逃避行の後に死去し、その墓を暴いて検死が行われました。

 

乱後、忠実も頼長と与同したと見なされ、所領没収の危機にあいますが、忠通の奔走で忠実は辛うじて赦免され、晩年は知足院に幽閉されたままその生涯を閉じます。

 

忠通は改めて後白河から氏長者に任命されるという屈辱を受け、抵抗するも最終的には押し切られます。保元の乱を通じて摂関家の権威は大きく傷つき、摂関家天皇家に従属する権門となってしまいました。

藤原頼長という人物

藤原頼長。この人ほど個性的な人物はいるだろうか、というほどの人物です。この人の個性の前には全て霞んでしまうほどの個性です。

 

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藤原頼長 『天子摂関御影』

彼は藤原忠実の次男で兄の忠通よりも24歳年少でした。彼については故棚橋光男氏の『後白河法皇』に詳しいです。

 


後白河法皇 (講談社学術文庫)

 

 これは氏の遺稿集ともいうべきもので、1995年に講談社メチエから出版されました。頼長について触れられたのは『講座前近代の天皇 第1巻』に載せられた「後白河論序説」の第1節「悪左府頼長」です。ここで棚橋氏は五味文彦氏をかなり厳しく批判しています。

 

それはともかく、ここで描き出される頼長像は強烈です。棚橋氏がかなり頼長にシンパシーを感じていたのではないか、となんとなく思います。根拠はありません。棚橋氏とは残念ながら面識はありませんでした。

 

ざっくり彼の全体像をまとめますと、「日本一の大学生(だいかくしょう=学者)」と呼ばれた知識人ですが、棚橋氏によれば、それは従来の訓詁注釈ではなく自ら理を窮め、その体系化に特徴があった、とのことです。そしてそれは朱子学の地平に限りなく接近していた、と。そして彼が歴史の闇に消えた時、日本は大きな可能性を自ら葬った、と。

 

しかし一方で彼の滅亡は彼自身の破天荒な生き方の当然の帰結でもありました。窮めて厳格な、あまりにも厳格な規範意識は時に下手人の暗殺や対立した人物の関係者の腕の切断という私刑の行使も問わないいびつな「正義感」として発露しました。

 

またその規範意識摂関家としてのプライドは、当時急速に力をましていた院近臣層に向けられ、特に諸大夫層出身の美福門院のことを露骨に軽んじ、その兄の藤原家成の屋敷を破却したことは美福門院のみならず近衛天皇鳥羽法皇の感情を損ね、彼のその後の人生に大きく陰を落とすことになります。

 

頼長の人気を不滅のものにしているのは男色を赤裸々に描き出した『台記』です。男色はノーマルでしたので、それをことさらに書く人はいなかったのです。当時の日記は子孫への規範であり、記録でした。その記録にいちいち「誰とヤッた。ものすごく気持ちよかった」と書く権力者はいないでしょう。頼長を除いては。

 

頼長は異常者だったのでしょうか。私はそうは思いません。彼は彼なりに真面目な人です。彼は男色を通じたネットワークは大事だ、ということを子孫に残したかったのでしょう。「何回射精した」とか「よかった」とか「押し倒されたのは初めてで、最初はムカついたけど意外によかった」とか、子孫にとってはおそらくどうでもいい話なのですが、彼にとってはそこが伝えたいところなのでしょう。少しずれている、という感じなのだと思います。

 

殺人犯を諸事情で釈放した時、その殺人犯は突如襲撃され暗殺されました。その出来事を書いた頼長は「殺された被害者は国家の忠臣であった。その殺人犯が殺されたのは天罰だ。誰が殺させたかはわからない」と書いてその割注に「実は私が秦公春に殺らせたのだ」と書いています。これを書くと意味がないような気がする、というか、書くんだったら最初から書けばいい話で、もったいぶって「不吉な雲が流れていた」というおどろおどろしい書き出しから「誰が殺させたかわからない」と書かなければいいのに、と思います。

 

棚橋氏は「内乱前夜、〈存在の不安〉と隣り合わせた魂のおののきーこう頼長の異常性を説明したら、あまりにも現代的解釈に過ぎようか」としています。私は一瞬「結果論的解釈」という言葉が浮かびましたが、それは多分私の認識が甘いのです。

 

当時が「内乱前夜」であるのは現在の我々から見れば自明ですが、歴史家は後世の目から見た結果論的解釈ではない当時の見通しを提示しなければならない、と考えています。そう考えるならば、鳥羽院政期というのは表面的には平穏に進行しているように見えますが、天皇家にも摂関家にも軋みが見え始め、社会の矛盾が露呈した頃ではないでしょうか、院の豪壮な生活を支えていたのが院近臣が受領として収奪してきた地方の富で、それが限界に近づきつつあることを鋭い人は感づいていたかもしれません。頼長が実際にカタストロフィーを覗き込んでいたかどうかは定かではありません。

 

ただ彼が若い頃、藤原通憲に師事していた事実、通憲が出家する時に手を取って泣いた事実などから、この師弟はカタストロフィーを見据えていたのかもしれません。保元の乱を勝ち抜いた通憲こと信西は保元新制を実施しています。

 

皮肉なことにこの師弟は保元の乱で激突し、乱後には師匠は弟子の墓を暴き、その死体を検めています。

本当に強い戦国武将は誰かベスト5私案

Qさま!で6月24日に放映された「本当に強い戦国武将ベスト15」がいろいろ言われているようで、そもそも「強い」ってどういう意味なのか、とかまあ悩むわけですが、普通に考えれば結果で見ても織田信長豊臣秀吉徳川家康に集中するだろうな、ということが容易に予測できるわけです。ガチの「歴史のプロ」に聞いたらどう考えてもそうなります。

 

で、これでは製作サイドも困るわけでいろいろ工夫するわけです。

 

ちなみに「歴史のプロ」の一員として私が当初挙げた五人(一応五人挙げろということなので)は以下の通りです。

 

ちなみに貼り付けている画像は「戦国IXA」の画像です。

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一人目 織田信長

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高い戦争遂行能力を評価しました。

二人目 豊臣秀吉

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結果論ではこの人を選ばない理由がありません。戦国時代を終わらせた人物です。「個の武力」はほぼ期待できないのでそこはマイナスです。

三人目 徳川家康

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江戸幕府260年の太平を築いた能力はまさに最強。家臣団の統率、人望など何を取っても圧倒的、後世の人々から嫌われるのも最強ゆえか。

四人目 足利義輝

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近年の研究の進展で新しい義輝像が出されつつあり、無力という評価は覆されつつあります。個の武力も申し分ありません。

五人目 上杉謙信

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戦さの強さと塩止めされた甲斐国に塩を高額で売りつけ儲けのタネにする経済観念とそれを美談に変えてしまう時空を歪める超人。イメージ先行の武将ですが実際にはイメージ以上の能力を持っていたと思われます。

 

で、三英傑に集中するのを避けたい、という意向で新たに作り直したのがこれ。

 

一人目 織田信長

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これは外せません。他の二人は信長に乗っかった、として除外できても、そもそも戦国時代を一気に終結に持ち込みかけたのは信長の卓越した能力故であり、これだけは別格と思います。

二人目 島津義弘

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あとは順位はあまり関係ありません。義弘は九州統一まであと一歩と迫った実力は島津四兄弟全体の問題ですがそこに加えて「島津の退き口」で加算しました。

三人目 朝倉宗滴

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九頭竜川の戦いでの奮戦ぶりと、78歳まで最前線で活躍し続けた元気さを評価してランクイン。あまり他の人が挙げないだろう、ということで選びました。

四人目 柴田勝家

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フロイスが「日本で最も勇猛な武将」と評価したことでランクイン。勇猛一途でこそこそした政治力はなさそうなイメージですが、賤ヶ岳に先行して足利義昭長宗我部元親まで巻き込んで羽柴秀吉包囲網を築こうとするなど政治力もあなどれません。

五人目 明智光秀

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謀略家というイメージが先行しがちですが、優れた軍略家であり、鉄砲の名人として個の武力でも秀でていましたが、領国での善政でも知られ、光秀の故地では今なお慕われています。

 

戦国時代の強い女性という項目もあって、私は以下の三人を選びました。

 

一人目 洞松院

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「誰やねん!」というツッコミが入りそうですが、細川勝元の娘です。赤松政則の妻となり、政則死後は養子の赤松義村を後見して三ヶ国の守護権を行使します。義村の挙兵をしのぎきり、数十年にわたって知行地安堵や諸役免除の「つほね(局)」名義の黒印状を発給し続けます。

二人目 高台院

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周囲の反対を押し切って身分差のある藤吉郎への恋愛結婚を貫く芯の強い女性であると同時にフロイスからも「大変な人格者」と言われる強い女性でした。

三人目 ガラシャ

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本能寺の変の後の運命の暗転の中でキリスト教と出会い、夫の細川忠興にだまって洗礼を受け、忠興と離婚しようとするもキリスト教徒は離婚できないと説得されるほど悪化した夫婦仲にも関わらず、関ヶ原では壮絶な死を遂げ、東軍の勝利に貢献した烈女。彼女の最期は戯曲「強き女」の主人公グラツィアの殉教として表現されました。

 

番外編として「総合的には弱かったけど、実はこの能力が、とっても秀でていた!戦国武将」という項目もあります。私はこの二名。

 

一人目 小田氏治

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「弱い戦国武将を選べ」と言われたら満票で彼でしょう。佐竹義重上杉謙信に敗れ続け、それでも再起し続けた最弱の武将です。名門小田家のネームバリューで生き続けたようなものです。あそこまで負けても負けても再起できたのは人望が無限大だったからかもしれません。もっとも佐竹義重上杉謙信という相手が悪すぎた、という説もあります。

二人目 足利義昭

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室町幕府を滅ぼした暗君ですが、信長包囲網を作るなど政治力はありそうです。ただ信長からも義教と並ぶ「悪御所」と指弾されるなど人望、統率力には問題おおあり。そういえば義教と信長って似ている、と言われたものですが信長は義教のことをディスっている、というのが面白いです。更にいえば故星野仙一氏は「好きな戦国武将はやっぱり信長ですか」と聞かれた時に「信長は裏切られるようなダメ人間(大意)」と発言し、「京極高次」と答えています。

 

保元の乱3−戦争の日本史

保元の乱の主役は鳥羽・崇徳・後白河・藤原忠実・忠通・頼長であることは論を俟ちませんが、もう一つは伊勢平氏平清盛河内源氏源義朝でしょう。特に義朝はこの戦いでその地位を飛躍的に向上させ、清盛に次ぐ軍事貴族の地位を手に入れます。

 

伊勢平氏平貞盛の子の平維衡が伊勢北部に拠点を築いたことをきっかけに伊勢平氏と呼ばれます。彼は伊勢守になっていますが、それ以前から伊勢国に勢力を築いていたようです。ただいつから、何故に伊勢に基盤を持つようになったかは今ひとつ明らかでもないようです。

 


増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)

 

 東国で平直方河内源氏源頼義の影響下に吸収されていくと、元来東国で広く栄えていた桓武平氏河内源氏の影響下に入っていき、東国は河内源氏の有力な地盤となります。

 

伊勢には良兼流の平致頼平維衡が争っており、最終的に貞盛流の平維衡が勝利して伊勢平氏の源流が成立します。

 

維衡やその息子の平正度は伊勢に地盤を築きながら都に拠点を持ち、受領を歴任するという中下級貴族として存在し、11世紀における家格の成立・固定期の競争の中で地位を低下させ、官歴の最後に受領に到達するという下級貴族、いわゆる侍品と呼ばれるレベルに低下します。

 

平正盛源義親を討伐して一気に時流に乗りますが、その背景には院近臣という院との個人的な関係を通じて引き立てられる勢力が出現し、院にその能力を通じて勤仕することによって財をなし、勢力を広げていくことがありました。白河院の乳兄弟であった藤原顕季が白河院に引き立てられ、その孫の美福門院が鳥羽の寵姫として権勢を振るい、頼長と対立したことは前述しました。

 

正盛の子の平忠盛も鳥羽に気に入られ、一気に勢力を伸ばしていった側です。その子の清盛になると若年で累進をとげ、もはや中級貴族を脱して上級貴族に届こうとする勢いでした。忠盛の妻の藤原宗子重仁親王の乳母となっていました。

 

伊勢平氏はそういう意味では彼らは崇徳院と関係を深めていったと考えられます。鳥羽の葬儀には伊勢平氏は呼ばれませんでした。しかし宗子が後白河へつくことを指示したために伊勢平氏は崇徳を見限り、後白河派に急遽参戦することになります。7月5日、頼長を謀反人認定する時に警備についた武士の中に平基盛の名が見えます。保元の乱勃発の四日前でした。

 

乱後は崇徳を見限り、後白河へ寝返ったことで最大限の恩賞を拝領することになりました。安芸守から播磨守への転任となり、清盛は参議にあと一歩とせまります。

 

河内源氏はその東国での基盤が有名ですが、本来は河内国が地盤です。ただ頼義の代に平直方の婿となって直方の勢力を継承したことで東国での地位を固めていきます。しかし義家の末期から義親の乱、義忠の暗殺、義綱と義光の争いを経て急速に没落し、為義は受領にすら届きませんでした。

 

義家は白河の院近臣でしたし、為義も白河・鳥羽の院近臣としてスタートしていますが、為義は自身の不祥事も響いて低迷し、摂関家に接近することで失地挽回を図ります。

 

義朝は為義の嫡子にはなれず、早くから東国に勢力を築くことに専念します。当初は為義と共同歩調を取っていましたが、やがて関東の豪族の争いに介入して勢力を拡大し、東国を河内源氏の牙城とすることに成功します。実は東国と河内源氏の関係が強化されたのは義朝の代です。

 

義朝は為義と共同歩調をとっていた段階では摂関家と関係を持っていましたが、東国で独自の基盤を築くと都で院近臣であった藤原季範の娘や近衛天皇中宮の雑仕女であった常盤御前と婚姻関係を結び、急速に鳥羽の院近臣としての地位を築きます。その甲斐あって義朝は父が届かなかった受領の下野守に31歳で任ぜられ、翌年には右馬助を兼帯することになります。

 

為義はその対抗のために頼長と関係の深かった次男義賢を武蔵国に遣わしますが、義朝の長男の義平に滅ぼされます。

 

義朝は保元の乱では抜群の勲功を挙げ、右馬権頭となりますが、不満をとなえ左馬頭となります。

 

この義朝の恩賞に対しては義朝は不満であり、それが平治の乱への伏線となる、という考え方が主流でした。しかしそもそも正四位下で大国安芸守の受領であった清盛と、従五位下の下野守の義朝では同等の恩賞は求むべくもないものであり、義朝は保元の乱に関してはそれほど不満を持っていなかった、という見方が有力になってきています。

 


保元の乱・平治の乱

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

それに対してその考え方は公家の考え方ではあっても武家の義朝の考え方と一緒とは限らないだろう、という反論もあります。

 


中世初期の〈謀叛〉と平治の乱

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

実際、当時の軍事貴族、いわゆる「兵の家」と呼ばれる「武家」では他の貴族とは若干違う行動原理で動いているのも事実で、軍事貴族が単に都のみで発展を遂げたのではなく、都と地方のハイブリッド、ということも踏まえるならば、その辺を考慮する必要もあるかと思います。

 


武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)

 

 武家の特徴として前の当主の妻が大きな権限を掌握することが挙げられます。承久の乱における北条政子の果たした役割は有名ですが、武家とは無関係な家から武家に入ってきた藤原宗子の場合を見ても、先年死去した忠盛の妻である宗子が保元の乱における伊勢平氏全体の帰趨を決定づけたことを見ても、武家における後家の権限の強さというのは特筆されます。もし宗子の決断が違っていればその後の歴史も大きく変わっただろうと思われます。

室町将軍家御教書(『朽木家古文書』62 国立公文書館)

『朽木家古文書』62です。

 

とりあえず写真を。

 

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室町将軍家御教書 朽木家古文書 国立公文書館

釈文

 若州發向事不日可被

致忠節之由所被仰下也

仍執達如件

嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)

  佐々木朽木満若殿

 

一行目の一番下の「被」と二行目下から四字目の「被」ですが、後者の方がよく見るくずしです。個人的には「被」と「致」は意外と似ている気がするのですがいかがでしょう。

 

読み下しです。

若州発向の事、不日忠節を致さるべきの由、仰せ下さるるところなり。よって執達件の如し。

嘉吉元年十一月三日 右京大夫(花押)

  佐々木朽木満若殿

 

差出人は管領細川持之です。宛先は朽木貞高です。嘉吉元年は足利義教が弑殺された嘉吉の乱の時です。

 

嘉吉の乱で弑殺された義教の後継は当時八歳、当然幕政は管領細川持之が担うことになります。この文書は一応室町将軍家の意を持之が奉じて執達する形式となっていますが、持之が幕府の代表者ということになります。

 

文中の「若州発向」というのは嘉吉の乱に乗じて一色氏が蜂起し、若狭国を奪おうとしているので若狭国に近い朽木氏に軍勢の派遣が求められたものです。

 

若狭国はもともとは一色氏が守護職を保持してきました。しかし丹後・三河・若狭の三ヶ国の守護を兼帯していた宿老の一色義貫が足利義教の命を受けた武田信栄に暗殺されます。信栄はその功績によって若狭守護職を獲得し、一色氏は義貫の甥の教親が継承し、丹後一ヶ国を与えられます。

 

しかし若狭には国際交易港の小浜を抱えています。この小浜の権益をめぐって一色氏と武田氏は争うことになります。寛正年間には十三丸という船をめぐって両者の関係者が争っています。

 

小浜が禁裏御料だったことについてはここで述べています。

sengokukomonjo.hatenablog.com

十三丸についてはいずれ述べたいと思います。