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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

尼めうこ(妙語)譲状(『朽木家古文書』107 国立公文書館)

今日は仮名書きの書状です。女性の書状は概ねひらがな書きになりますが、鎌倉時代の譲状では男性の譲状にもひらがな書きの譲状が結構多く、私のようにひらがなのくずし字が苦手な人間には辛いところです。もっとも漢字のくずし字ならば得意なのか、と言われれば、それも口ごもるしかありません。

 

www.digital.archives.go.jpここからダウンロードすることを強く推奨します。下の解説はこの文書と見比べながら読んでいただくと分かりやすいかと思います。こういうのを動画で解説すれば売れそうな気がしています。まあ解説者がイケメンでさわやかな感じでいれば、の話ですが。

 

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尼妙語譲状 国立公文書館

では今回は1行ずつ丁寧に見ていきましょう。これは

 

⬜︎⬜︎ゆつりしやう

 これは「譲状」を漢字で書いてありますが、「ゆ」は読めますが、「つ」は慣れていないと「えっ!」と思う方もいるでしょう。ただこのブログの読者の多くは専門家が多いことがアクセス傾向から明らかですが(汗)。これは「つ」の字母である「川」の形をそのまま残しています。「り」は「里」を字母とした変体仮名です。あとは普通に「しやう」と読めます。

 

ゆつりわたす 所りやうの事

 「ゆつ」は上と一緒ですがこちらの「り」は「利」を字母とする現代と同じかなとなっています。どの「り」を使うのかは全くの自由です。「わ」も分かりますが問題は「た」と「す」です。「た」は「多」を字母とする変体仮名で、「す」は「春」を字母とする変体仮名です。「所」は漢字なので簡単に読めます。「り」は「里」で、「やう」は普通です。「の」は丸い部分です。「事」は漢字なので読みやすいです。

 

一所 た(堂)か(可)しまのつ(川)け(遣)ちの(能)うち

あんすみやう

これ、漢字で書くと「一所 高嶋の付け地のうち、案主名」となります。

「た」が虫食いで分かりませんが、「堂」を字母とする変体仮名です。「か」も小さい「の」の出来損ないみたいなのがそれですが、「可」を字母としています。長く伸びた縦棒が「し」で「まの」は普通ですが、「つ」は「川」の形を残しており、「け」はまた虫食いですが「遣」を字母としています。この虫はややこしい変体仮名を使っているところに限ってしっかりと食っていますので結構ムカつきます。「ち」は普通ですが「の」が「能」を字母とする変体仮名で、結構よくみかける「の」ですので覚えた方がいいでしょう。あとは現在のかなと同じです。

 

一所 こ(古)一てうのちと(堂)うしき

これは漢字では「一所 後一条の地頭職」となります。

「こ」が「古」を、「と」が「登」を、それぞれ字母としていますが、「と」についてはこれも肝心なところが虫食いなので自信がないです。間違っていたら虫のせいにします。「う」がやたら伸びきっていることを除くとあとは普通です。

 

くた(堂)んのところハ、四ら⬜︎ゑも(毛)んゆき(支?)つな(那)ニ

ゆつり(里)た(堂)ふへしといへともちゝ四郎

さゑもん入た(多)うのな(奈)らひをく所をも

そむきことことくふけ(遣)うのもの(能)な

る(留)に(尓)より(利)てなか(可)くかんた(多)うし候ぬ

 「件の所は、四郎右衛門行綱ニ譲り賜うべしといえども、父四郎左衛門入道の習い置く所をも背き、ことごとく不孝のものなるによりて長く勘当し候ぬ」

 

ちなみにここに出てくる「行綱」は後に朽木義信と裁判沙汰になる尼心阿の父親です。ということはこの文書は前回の文書や最初に取り上げた足利直義裁許状の原因となった書状であることがうかがえます。最後にリンクを入れます。

 

つけ(遣)ちの(能)ほんゆつりしやう

こ一てうのほ(本)んゆつり(里)し(新)やう ⬜︎れハしひつ也

 「付け地の本譲状、後一条の本譲状、これは自筆也」

 

をい之ては(者)の三ろうさゑもんよりの(能)ふニ

かの所々をゑいた(多)いをか(可)きりてゆつ

り(里)わた(多)す(春)所也さらにた(多)のさま(満)た(多)け(遣)

あるへか(可)らす候

しやうをう五ねん十月廿四日

               あまめ(免)うこ(古)(花押)

 

「甥の出羽三郎左衛門頼信にかの所々を永代を限りて譲り渡す所なり。さらに他の妨げあるべからす候」

 

今回は多くの変体仮名が出てきました。変体仮名の勉強に役立つ書籍などを集めておきました。また今回の文書の関連エントリを下に挙げておきます。

 

変体仮名は『くずし字用例辞典』の末尾にも載っていますので、それをみればいいのですが、変体仮名をマスターするのに、個人的に役に立ったのはkulaというソフトです。iOSやアンドロイドで動きます。

 

くずし字学習支援アプリKuLA

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  • Yuta Hashimoto
  • 教育
  • 無料

apps.apple.com

play.google.com

あとはこの書籍です。変体仮名にかなりスペースを割いていて、初心者から無理なくくずし字解読力が伸びていきます。

 


実力判定 古文書解読力

 

 あとはこれ。

 


寺子屋式 古文書手習い

 

この辺のどれかを立ち読みして好みで選べばいいかと思います。私は両方ともやりました。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 

源頼政挙兵の背景

以仁王は治承三年の政変で今まで知行してきた城興寺領を取り上げられたことを逆恨みして平氏打倒の兵を挙げます。

 

彼の背後には八条院の勢力がありました。八条院暲子内親王鳥羽院と美福門院の間の皇女で、鳥羽院の遺領のほとんどを伝領し、その権威と財力は圧倒的な存在感を持っていました。

 

以仁王が挙兵を決意できたのも八条院の存在感をバックにしてのことです。いわば八条院は当時の政治情勢の中でアンタッチャブルな存在であったと言えるでしょう。

 

八条院に仕えていた人々の中には平頼盛のように、清盛に反発する人々も多くいました。頼盛は寿永三年の政変で解官されています。

 

しかし清盛にとって意外な事態が起こりました。源頼政以仁王に呼応したのです。これがどれくらい意外だったか、といえば、以仁王の挙兵の報を受けた時、清盛は頼政に討伐を命じていたくらいです。

 

ここで頼政の立場を見ておきましょう。頼政摂津源氏です。摂津源氏は東国に大きく根を張った河内源氏とは違い、畿内を中心に勢力を張っていました。大内守護という、内裏の警備の責任者です。摂津源氏の祖の源頼光酒呑童子を討った、という伝説も頼光の大内守護の役目と切り離せません。

 


酒呑童子の誕生―もうひとつの日本文化 (中公新書)

 

頼政は鵺退治で有名です。近衛天皇が鵺に悩まされ、頼政が鵺を退治した、という話ですが、これは頼政近衛天皇に近いこと、ひいては美福門院ー二条天皇という系統に彼が属していることを示します。八条院の関係者としても彼の名前は挙がっています。

 

平治の乱で同じ源氏を見捨てた、というイメージもついていますが、そもそも二条天皇藤原信頼源義朝が決裂した段階で頼政には義朝に従う義理などありません。

 

平治の乱後は大内守護として二条天皇六条天皇高倉天皇に仕え、また清盛の信頼厚く、鹿ケ谷では西光を捕縛するという功績を残しています。歌人としても名高く、その甲斐あって従三位に昇叙します。いろいろ言われますが、当時の人々から見れば破格の扱いだったことが伺えます。

 

さて、問題はなぜ頼政が挙兵したか、です。この流れを見ると頼政には挙兵する動機はありません。源平の対立というのは、頼政からすれば「知らんがな」でしょう。河内源氏伊勢平氏に恨み骨髄でしょうが、頼政にしてみれば「自業自得」としか言いようがありません。

 

平家物語』では平宗盛頼政の子息の源仲綱の名馬を欲しがったものの、仲綱がそれを惜しみ、頼政に諭されて献上したものの、宗盛は惜しんだことを恨んで馬に「仲綱」と焼印を押させ、「仲綱を引き出せ、仲綱に鞭打て」などと仲綱を貶めたことで挙兵したことになっています。

 

また『平家物語』のこの創作くさい話を信用しなくても、安徳天皇の即位が近衛ー二条天皇という系統から外れていったことへの不満とか、以仁王から持ちかけられた、という説があります。

 

これらの難点は、頼政がなぜ無謀な平氏打倒に向かったのか、ということがうまく説明できません。

 

河内祥輔氏はこの辺について以下のように述べます。

  

もともと頼政以仁王の間には連携などなかった、といいます。清盛は頼政以仁王の捕縛を命じます。しかし以仁王園城寺に逃げ込みました。そして園城寺以仁王をかくまいます。そこに頼政が攻撃をかける、ということは、頼政が仏敵となることを意味します。仏敵となるのをふせぐ方途は一つ、以仁王と連携することです。

 


天皇の歴史4 天皇と中世の武家 (講談社学術文庫)

 

 

しかし以仁王と連携するために園城寺に入った頼政ですが、園城寺サイドとしては武士団が寺に入ってくると、以仁王を退去させます。結局以仁王興福寺を頼ることにし、宇治を経て奈良に向かう途中に頼政らとともに討ち取られます。

 

以仁王は令旨を諸国にばら撒きます。これが諸国の反平氏運動の先駆けになったことは事実です。しかし細かく見ると、以仁王の令旨に感激して源氏の人々が突如結集したわけではありません。以仁王の令旨が効果を発揮するにはある一つのきっかけがあったのです。そのきっかけとは何か、については明後日にアップする予定です。

正親町天皇の生涯ー永禄六年正月一日〜閏十二月晦日

永禄六年
正月
一日、四方拝、小朝拝、元日節会
御湯殿上日記、言継卿記、公卿補任続史愚抄
四日、千秋万歳、この日別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
五日、千秋万歳
御湯殿上日記、言継卿記
この日、叙位停止
続史愚抄
七日、白馬節会
続史愚抄
八日、太元帥法
御湯殿上日記(九日・十日・十四日)、厳助往年記
十一日、護身法伝授、前大僧正厳助、これを授ける
御湯殿上日記、厳助往年記
十五日、三毬打
言継卿記
十六日、踏歌節会
続史愚抄
十八日、三毬打
御湯殿上日記、言継卿記
十九日、和歌会始
御湯殿上日記(八日・十九日)、言継卿記(十二日・十九日)
二十二日、理性院厳助に源氏物語を書写せしむ
御湯殿上日記、厳助往年記(二月四日・五月二十七日・六月六日・八日)
二十五日、北野社に近侍の代官詣
御湯殿上日記、厳助往年記
二十九日、近侍に貝の絵を書進せしむ
御湯殿上日記(二十九日・二月二日)
二月
二日、この日より七日間、御祈りのため聖護院道澄に仁王経を読誦せしめ、聴聞する
御湯殿上日記(正月二十八日・二月二日・七日)、公卿補任、厳助往年記(正月二十七日)
八日、小御所において楽会始、筝の所作
御湯殿上日記(正月二十日、二月八日)、言継卿記
九日、この日より三日間天下の祈祷として伊勢神宮法楽御楽を行う、筝の所作
公卿補任、御湯殿上日記(九日・十日・十一日)、言継卿記(九日・十一日)
十一日、庚申待
御湯殿上日記
十三日、土佐光茂筆の屏風を叡覧
御湯殿上日記
二十二日、水無瀬宮法楽和歌会
言継卿記
二十五日、北野社法楽当座和歌会
御湯殿上日記
三月
二日、不予
言継卿記
三日、この日より着到和歌会
御湯殿上日記(二十二日・二十四日・四月九日・五月十三日・二十六日・六月九日・十三日)、言継卿記(六月十三日)
この日、闘鶏あり
言継卿記
八日、山科言継より音曲本を召して叡覧
言継卿記
十八日、春日祭追行
言継卿記(五日・十八日)、御湯殿上日記(十八日・十九日)、公卿補任続史愚抄(二月十日)
二十四日、月次和歌会、後またこのことあり
御湯殿上日記(二十四日・二十五日・四月十四日・二十三日・二十四日)、言継卿記
二十九日、内侍所臨時御神楽、出御、恒例御神楽を附行
御湯殿上日記(二十九日・三十日)、言継卿記
四月
七日、後柏原天皇斎日、伏見般舟三昧院で法事
御湯殿上日記
この日、松尾祭
御湯殿上日記、言継卿記
十二日、庚申待
御湯殿上日記、言継卿記
十四日、これより先、多武峰松永久秀和解のことにつき、武家より勅使を申請す、この日蔵人頭柳原淳光を勅使として多武峰に遣わす
御湯殿上日記(十日・十四日・五月八日)、言継卿記
十六日、禁中穢
御湯殿上日記
二十四日、日吉祭
御湯殿上日記(二十三日・二十四日)
二十五日、賀茂祭
御湯殿上日記(二十四日)
五月
四日、菖蒲葺
御湯殿上日記
この日診察、養生の薬
御湯殿上日記
十六日、伊勢神宮遷宮日時定
御湯殿上日記(四月三日・五月十六日)、言継卿記、公卿補任
この日、別殿行幸
御湯殿上日記、言継卿記
二十日、御霊社に代官詣、二十九日、また同じ
御湯殿上日記(二十日・二十九日)(
六月三日、曼殊院宮覚恕に屏風を書かせる
御湯殿上日記(三日・四日・七日)
四日、御霊社に宮女の代官詣、後、またこのことあり
御湯殿上日記(四日・十月十一日・十一月十八日)
七日、歓喜天並びに北野社に近侍の代官詣、後、またこのことあり
御湯殿上日記(七日・八月二十六日・十月二十一日)
十三日、清荒神に宮女の代官詣、後、数このことあり
御湯殿上日記(十三日・十月十一日・十一月十八日・二十一日)
二十四日、月次和歌会
御湯殿上日記(二十四日・二十五日・二十六日・二十七日)
二十五日、北野社法楽和歌会並びに当座和歌会
御湯殿上日記、言継卿記
二十九日、大祓
御湯殿上日記
七月
四日、議定所の屋根葺
御湯殿上日記
六日、楽習礼、筝の所作
言継卿記
七日、七夕節、和歌会並びに楽会を行う、箏の所作
御湯殿上日記、言継卿記
十三日、内宴
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
この日、清涼殿において懺法講
厳助往年記
八月
一日、八朔、この日代始により石清水八幡宮に馬・剣を寄進
御湯殿上日記
四日、記録書修理
御湯殿上日記
十二日、山城国神護寺、兵火にかかり消失せしにつき、建立のことを申請、よって綸旨を賜う
御湯殿上日記
十四日、庚申待
御湯殿上日記
十五日、当座和歌会
御湯殿上日記
十七日、風雨により禁裏の板葺、破損
御湯殿上日記
十八日、御霊祭
御湯殿上日記
二十一日、日吉社修理につき、綸旨を賜う
御湯殿上日記(十日・二十一日)
二十二日、三好義興、病む、よって内侍所御神楽を行う
御湯殿上日記
九月
四日、来たる五日、後奈良天皇七回忌により懺法あり
御湯殿上日記(八月三日・二十日・二十八日・九月二日・三日・四日)
五日、後奈良天皇七回忌、伏見般舟三昧院にて経供養
御湯殿上日記(五日・六日)
この日、受戒
御湯殿上日記
十二日、伊勢神宮一社奉幣使を発遣
御湯殿上日記(八月二十四日・二十五日・九月八日・十日・十二日)
二十二日、別殿行幸
御湯殿上日記
二十三日、伊勢外宮正遷宮
御湯殿上日記、公卿補任
二十六日、禁裏台所の修理
御湯殿上日記
二十七日、伊勢神宮法楽連歌
御湯殿上日記(二十三日・二十四日・二十五日・二十七日)
二十九日、九月当座和歌会
御湯殿上日記
十月
十八日、亥子の儀、三十日、また同じ
御湯殿上日記(十八日・三十日)
十九日、小御所において円頓戒を受ける
御湯殿上日記
二十二日、蹴鞠
御湯殿上日記
二十五日、鞍馬寺に宮女の代官詣
御湯殿上日記(二十五日・二十六日)
十一月
三日、前内大臣万里小路秀房の死去により三日間廃朝
御湯殿上日記(十二日・十三日・十五日)、厳助往年記、公卿補任尊卑分脈
十九日、この日より御拝
御湯殿上日記
この日、聖天供、二十七日結願
御湯殿上日記(十九日・二十七日)
十二月
三日、前右大臣三条西公条死去により三日間廃朝
御湯殿上日記(十二月二日・三日・六日)、厳助往年記
十一日、この日より七日間三宝院義堯に小御所において不動護摩法を修せしめ、聴聞、十四日義堯、加持に候じ、寺宝を叡覧に供す
御湯殿上日記(十一日・十四日・十六日・十七日)、公卿補任、厳助往年記
十九日、不予
御湯殿上日記(十九日・閏十二月五日)
二十一日、故伏見宮邦輔親王王子貞康並びに青蓮院尊朝に親王宣下、貞康、元服
公卿補任、御湯殿上日記(二十一日・二十二日)、伏見宮系譜
閏十二月
六日、将軍足利義輝、本圀寺を門跡に為されんことを執奏
御湯殿上日記(六日・二十一日)
九日、薫物の調合
御湯殿上日記(九日・十日・十一日)
十四日、別殿行幸
御湯殿上日記

以仁王ー歴史の闇に消えた先駆者

以仁王という名前を聞いた人は結構多いでしょう。多分中学校の歴史では習うと思います。源平合戦と一般には言われる治承・寿永の内乱の先駆者となった人です。

 

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以仁王 東京国立博物館

 

以仁王後白河天皇の第三皇子です。ちなみに第一皇子はもちろん二条天皇、第二皇子は守覚法親王で、以仁王守覚法親王の同母弟です。同母兄弟には守覚法親王の他には殷富門院、式子内親王などがいます。

 

母親は待賢門院の姪にあたる藤原成子で、幼少時より最雲法親王堀河天皇皇子)の弟子になっていましたが、最雲法親王の死去により還俗していました。基本的にはこの段階で皇位継承権は失われた、と思われますが、実際には還俗した人物の皇位継承権は喪失する、という明文化されたルールは存在しないので、何が何でも、というものでもなかったのでしょう。

 

実際彼はやがて八条院暲子内親王の猶子となりました。これは彼の人生に大きく翳を落とすことになります。

 

八条院は美福門院所生の内親王で、鳥羽院の遺領のほとんどを継承していました。近衛天皇死後は鳥羽院の後継者は二条天皇となっていましたが、一一六五年に死去していました。同じ年に以仁王八条院の猶子になったことは、以仁王が美福門院系の皇位継承者として擁立されたことを意味します。

 


皇位継承の中世史: 血統をめぐる政治と内乱 (歴史文化ライブラリー)

 

 しかし彼の皇位継承者としての擁立はかなり微妙なものでありました。当時皇位についていたのは六条天皇です。

 

二条天皇には多子や姝子内親王など身分の高い女性との間には皇子が生まれず、第一皇子は右馬助源光成の娘との間に生まれ、第二皇子の六条天皇は大蔵大輔壱岐致遠の娘との間に生まれた、という外戚のしっかりしない状態でした。六条天皇の准母として忠通の娘の育子が付き、忠通の嫡子の藤原基実が摂政に、その後ろ盾となっている伊勢平氏平清盛が従二位権中納言として控えていました。しかし頼みの綱の基実の休止で進退窮まった二条派の清盛は節を曲げて後白河に接近する以外の方途がなくなり、六条天皇の運命は窮まりました。

 

もっとも六条天皇は受禅した時はまだ満年齢では7ヶ月の乳児で、譲位した時は3歳5ヶ月の幼児でした。つまり年少組に入るか入らないか、の年で譲位しているので、自分では何が何だかわからなかったのではないでしょうか。

 

ともあれ、後白河上皇の悲願であった憲仁親王の即位が実現しました。というのも、後白河は以前にも憲仁親王皇位継承を企んで二条天皇に叩き潰されたことがあったのです。

 

憲仁親王は建春門院平滋子の所生です。建春門院は清盛の正室平時子の妹なので、清盛とも繋がりがあります。藤原経宗に拷問を加えてくれた清盛の甥を天皇につける、といえば清盛が喜んで協力してくれる、と考えた後白河の甘い考えは氷にように冷たい現実の前に吹き飛びました。清盛はこの陰謀に関わった平氏一門を処分し、二条天皇への忠誠を誓います。

 

しかし二条と基実の相次ぐ死去で情勢は後白河有利になりました。後白河の軍門に清盛が降ることで二条派は瓦解します。その二条派のもとにひっそりと入り込んだ以仁王に対する建春門院の警戒心は強く、伯父の藤原公光が失脚するという事件も起こりました。

 

建春門院が以仁王を露骨に警戒したことについては、伊勢平氏がそのバックにあるような記述を多く目にしますが、そもそも伊勢平氏がおしなべて建春門院と利害を一致させていたわけではないことは、清盛の動きから見ても明らかです。この段階での以仁王の不遇の原因は建春門院にあるでしょうが、その背後には伊勢平氏ではなく、堂上平氏および後白河の意向を見る必要があると考えます。

 

建春門院・後白河と清盛の連携が完成した時、六条天皇の運命だけでなく、以仁王の運命も閉ざされてしまいました。二条派のレッテルが貼り付いてしまい、憲仁親王のスペアにもなれなくなってしまったのです。

 

やがて憲仁親王が受禅して高倉天皇となり、後白河院政が開始されると以仁王の居場所はなくなり、彼は三条高倉の屋敷でひっそりと暮らすことになります。

 

清盛と後白河の利害に基づく連携は、その紐帯となってきた建春門院の死去によって一気に崩壊に向かいます。鹿ケ谷事件の真相は今尚はっきりしませんが、少なくとも後白河と清盛の間が平穏ではないことは伺えます。後白河の院近臣の藤原成親が密かに殺され、そのことで清盛の長男で後白河の側近であった平重盛は板挟みに苦しみ、やがて死去します。その遺領の処分や、清盛の娘で基実の正室であった盛子の遺領は基実の子の基通に引き継がれず、基実の弟の藤原基房に引き継がれました。このような執拗な後白河の挑発に清盛のフラストレーションが爆発して治承三年の政変が引き起こされます。

 

清盛は後白河の院政を停止し、高倉天皇を皇太子の言仁親王に譲位(安徳天皇)させ、院政を敷かせます。高倉上皇を治天とする高倉院政の始まりです。

 

この一連の清盛による朝廷再建策の中で以仁王保有していた城興寺領が没収され、以仁王平氏を恨むようになります。

 

もっともこれは逆恨み、というべきで、城興寺領は本来梨本門跡に付せられたものです。以仁王は梨本門跡に入るはずだったので城興寺領を獲得しましたが、還俗したため、本来はその段階で返却されるべきだったのです。しかしなし崩し的に領有が認められてきただけだったのです。清盛は「あるべき姿にもどす」という、政策を実行したにすぎません。城興寺領は本来の所有者である梨本門跡に返還されました。

 

しかし食い物の恨みは忘れない、といいますが、収入をいきなり切られた恨みも簡単には消えませんし、これは納得しようとしても納得しきれるものではありません。以仁王の心中には暗い復讐の炎が燃えさかっていたに違いありません。

 

ticket.asanojinnya.com

 

平清盛と源義朝

平治の乱の原因の一つとして挙げられているのが、源義朝平清盛に対する敵愾心です。源平合戦の前哨戦というような見方すらなされています。

 

本当でしょうか?

 

そもそも源義朝平清盛を恨む動機が考えられません。もちろん人間ですから、何を考えても不思議ではありませんが、義朝が清盛を敵視するのはお門違いもいいところです。

 

源義朝平清盛に比べて恩賞が薄いことに不満を持った、とされています。本当でしょうか。とすればそこで清盛を排除する方向に向かうのはそれこそ相手を間違えています。

 

清盛と義朝の差は位階でいえば四位と五位と聞けば一つ違いに見えますが、厳密に言いますと、正四位下の清盛と従五位下の義朝ではものすごく差があります。「正四位下従四位上従四位下正五位上正五位下従五位上従五位下」です。間に6段階あります。さすがにこれは近いとはいえないレベルです。

 

もっとも保元の乱の翌年には従五位上正五位下と二段階昇叙していますから、義朝は一挙に出世の階梯を歩み始めたことがわかります。

 

平治の乱で一気に四位(従四位下?)に登り、播磨守に任ぜられます。

 

清盛の立場を見てみましょう。

 

清盛は自分の留守中に信西排除のクーデタを起こされています。清盛は信西と信頼の双方と姻戚関係を結んでいますので、信西排除を目指す場合にどのように行動するのかわからない、という状態です。信西打倒のクーデタに清盛が抵抗すれば失敗するかもしれません。そこで信頼・義朝は清盛が熊野詣でに出かけていて六波羅が身動きが取れない状態でクーデタを決行したものと思われます。ここで義朝が清盛を打倒することを考えていたのであれば、六波羅も攻撃されなければおかしいでしょう。実際には六波羅に逃げてきた信西の遺族を捕縛して信頼に送り届けています。何のことはありません。伊勢平氏は信頼の味方についたのです。

 

ただ清盛としてはそのクーデタが誰をターゲットにしたのかわからない以上、極めて不安を覚えたでしょう。西国に一旦逃亡するという案が出たのも頷けます。

 

しかしリサーチの結果、清盛がターゲットではないことがわかったので清盛は帰京したのでしょう。源義平が清盛を滅ぼそうとして兵をだすことを献策した、というのはフィクションである、と私は考えます。少なくとも信頼・義朝陣営が積極的に清盛を敵視する理由はありませんし、実際その後の動きを見ても信頼・義朝陣営は清盛を敵視していないどころか、味方と思い込んでいる節があります。

 

一方清盛の心中を考えるとどうでしょうか。清盛の留守中にクーデタがおきたことで清盛のメンツはつぶされています。要するに信用されていない、と考えたとしても不思議はありません。

 

さらに清盛にとっては義朝の急激な地位の上昇は望ましいものではありません。藤原公教の切り崩しはそこを的確についたものでした。清盛が信頼・義朝を見限り、公教サイドについたことで彼らの命運は決したも同然です。

 

ここで勝敗は決したのであり、あとは信頼・義朝に対する処断を待つだけだったのですが、ここで義朝はおそらく多くの人々が想定していなかった暴挙に及びます。懸けまくも畏き一天万乗の君であるところの二条天皇の御座所に突撃を開始したのです。さらにそれに敗れると東国に落ち延びて再起を図ろうとします。結果的に義朝は尾張国で殺害され、義朝の東国自立政策は頓挫します。もし彼が東国に落ち延びることに成功していたらどうなったでしょうか。何ともわかりませんが、いろいろな可能性が出てくるでしょう。まあ実際には誰かにやられて鎮圧されたとは思いますが。

薄命の明主、二条天皇

立命館大学の近所に二条天皇陵の香隆寺陵(こうりゅうじのみささぎ)があります。

 

阪急から市バスに乗って立命に向かうと、衣笠校前で降りることになるわけですが、衣笠校前のバス停のすぐ近くの道をまっすぐ西に向かうとすぐに二条天皇陵に出ます。

 

www.kunaicho.go.jp

上のリンクは文字化けしていますが、「隆」の字を旧字にこだわって外字を使ったため、リンクが文字化けしたものと思われます。困ったものです。

 

あまり知る人もいないどちらかといえば影の薄い天皇ですが、彼が長命を保っていたら、歴史もかなり変わってしまっただろうと私は思っています。

 

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二条天皇 天子摂関御影

 

二条天皇後白河天皇の第一皇子で、諱は守仁、関白藤原師実の孫の懿子との間に生まれ、近衛天皇の健康不安の中で美福門院の猶子となり、やがて鳥羽法皇の後継者として位置づけられました。ただ父親がまだ天皇になっていなかったために、父親の雅仁親王がとりあえず即位し、すぐに守仁親王に譲位する、というプランが立てられました。

 

保元の乱で勝利した後白河天皇ですが、美福門院はプランの遵守を求め、一刻も早い後白河天皇の譲位を後白河側の代表者であった信西に要求します。信西ももともとは鳥羽法皇の側近であり、雅仁親王の乳母夫ではありましたが、守仁親王への譲位に同意します。したがって後白河天皇の譲位については「仏と仏」の間で行われた、と評されました。

 

かくして即位した二条天皇ですが、院政を敷こうとする後白河との間に齟齬が生じます。後白河との対立がいつから始まったのか、については、議論の分かれるところではありますが、平治の乱の主要因を二条天皇後白河上皇との対立に見る見方は割合多数派と思います。

 

二条天皇平治の乱では圧倒的な勝利を収め、後白河は信西藤原信頼という二人の側近を失い、その政治的存在感を急速に失います。

 

さらに二条天皇近衛天皇中宮であった太皇太后多子を入内させます。これについては『平家物語』では二条の独断とされています。二代の天皇と婚姻関係を結んだ女性は多子一人です。彼女は「思ひきや うき身ながらに めぐりきて おなじ雲井の月を見むとは」と、一旦退きながら再び入内した身の辛さを詠んでいます。

 

これについては美福門院や藤原経宗らの関与がないことは考えられないことから、後白河の牽制である、という説もあります。

 

もっともこの二つはそれほど矛盾しません。二条が多子を欲したのは、その女性としての魅力もさることながら、二条にとっては近衛と鳥羽の権威を身にまとっている、という自己主張によって自ら父の後白河に対抗しようとしたことは想像に難くありません。それが美福門院や経宗の後押しがあったかどうかは、実は史料からではわかりません。

 

ただこの婚姻の直後に経宗と藤原惟方という、二条の側近が、同じく二条の頼みとする平清盛によって拷問を加えられ、流罪になる、という事件が起こり、二条天皇のプレゼンスが減退し、後白河上皇のプレゼンスが上昇していることがうかがえますので、二条の独断であり、逆に二条の権威を傷つけた可能性も考えられますし、また二条の独断ではなく、二条派全体の計略だとすれば、彼らの目論見は完全に裏目に出た、としか言いようがありません。

 

そもそも多子の入内でメンツが丸つぶれになった人物がいます。鳥羽と美福門院の間に生まれた高松院姝子内親王です。彼女は近衛の同母の弟にあたります。彼女は後白河の同母の姉で後白河と親密だった上西門院統子内親王に養育されており、その意味では美福門院系と待賢門院系の架け橋的な存在でした。しかし美福門院系の二条天皇と待賢門院系の後白河上皇との関係が悪化する中で彼女の立場は微妙なものとなっていました。

 

姝子内親王は多子の再入内から内裏に入らず、出家を願うようになり、やがて重病に陥ります。

 

結局二条の多子再入内という決断は誰も幸せにはしませんでした。

 

二条天皇後白河院政を強引に停止し、二条親政を実現させますが、ほどなく重病に陥り、まだ幼い六条天皇に譲位して23歳の若さで崩御します。六条天皇外戚が極めて地位の低い下級官人でしたが、二条天皇藤原忠通の娘の育子を入内させ、摂関家伊勢平氏をバックにつけていましたが、摂政の近衛基実が急死したため、二条親政派は瓦解し、清盛が後白河と連携するにいたって二条の影響力は完全に失われました。

 

多子は二条の崩御を契機に出家し、近衛と二条の菩提を弔いながら62歳の人生を全うします。彼女は現在に至るまで最後の太皇太后です。

 

二条天皇が美福門院に代わる後ろ盾を摂関家に求めた結果、忠通の娘の育子を入内させたことは述べましたが、この時一つの問題が起こっています。太皇太后多子、皇太后呈子(近衛天皇中宮、二条側近の藤原伊通の娘で忠通の養女)、皇后忻子、中宮姝子となっていたため、育子の肩書きがないため、姝子を女院として育子を中宮としました。

 

高松院姝子内親王の晩年は信西の息子の澄憲と恋仲に陥り、海恵大僧都八条院高倉を生んでいます。彼女は八条院高倉を産んだ時に命を落とした、と考えられています。36歳でした。

 

二条天皇は非常に才気あふれる人物であった、と伝えられ、権威を欠如させた父親の後白河とは違い、鳥羽法皇の権威を受け継ぐ「正統の天皇」となる資格は十分にあった英邁な君主であった、と思われますが、如何せん長寿を全うできず、本人も無念だったに違いありません。あと高松院姝子内親王太皇太后多子の人生を結果として弄んだことになってしまいました。

 

 

稀代の寝業師2 藤原経宗

藤原経宗

 

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藤原経宗 天子摂関御影

この人もなかなかの策士です。古澤直人氏の研究を私なりに整理すると、藤原経宗の存在感が大きくなります。

 

経宗は関白藤原師実の孫に当たります。

 

彼が出世の糸口を掴んだのは姉の懿子が後白河との間に守仁親王をもうけたからです。守仁親王近衛天皇の健康不安の中で鳥羽法皇の後継者候補の一人に位置付けられ、美福門院の猶子となります。さらに皇太子から二条天皇となるに及んで二条天皇親政派の重臣としてその存在感を高めます。

 

二条派の重臣ということで、後白河派の信西に対してかなりの敵愾心を持っていたようで、その結果藤原信頼と結びついて平治の乱を引き起こすことになります。

 

かなりの絵を経宗が描いたことが伺えます。しかし実際武力を掌握していたのは信頼だったので、信頼に対する反発から信頼を裏切り、藤原公教の調略に乗ります。というよりも公教が平清盛を調略した段階で経宗にはこの道しかなかったのかもしれません。

 

二条天皇六波羅行幸を実現させ、平治の乱の鎮圧に功績があった経宗は平治の乱の戦後処理にも活躍します。

 

非業の死を遂げた信西の息子は直ちに赦免・・・されていません。経宗にとっては信西は許されるものではなかったのです。何しろ目の上のたんこぶです。

 

しかし経宗は思わぬところで足をすくわれます。

 

後白河上皇が当時行在所としていた八条堀川の藤原顕長邸の桟敷から外を眺めることが好きだった後白河の邪魔をするためにその桟敷に板を打ち付けさせる、という嫌がらせを行い、後白河院政の停止をもほのめかせたため、後白河の憤激を買い、後白河の依頼を受けた平清盛に拷問を加えられた上に流罪の憂き目にあいます。

 

経宗が失脚したことで信西の遺児たちはようやく赦免され都に戻ることが叶いました。信西暗殺の首謀者が誰か、を鮮やかに示しています。また源義朝の遺児で囚われて処分保留になっていた源頼朝が助命され、伊豆国流罪となります。伊豆国知行国主が同じ河内源氏源頼政であったことが考慮された、とも言われています。

 

頼朝の助命については、池禅尼が「息子の家盛に似ているの」と清盛に迫った、という話が『平治物語』に見られ、『愚管抄』では幼いから、と助命を嘆願したことになっていますが、今日ではむしろ頼朝がかつて仕えていた上西門院統子内親王からの嘆願が大きいのではないか、と見られています。また後白河本人からも赦免するように、という動きがあった、ともされています。

 

これは後白河がある程度の発言力を回復したことと関係があるのではないか、とも見られています。つまり二条派の経宗や藤原惟方の失脚によって二条自身のプレゼンスが低下し、後白河の意思が通るようになった、ということだと思われます。

 

ちなみに経宗の失脚ですが、経宗の拷問シーンを眺めていた中に藤原忠通がいたようで、経宗を叩き落としたのはどうやら元祖稀代の寝業師藤原忠通だったようです。

 

しかしその忠通も四年後に愛妾の五条が五条の兄と密通している現場を目撃し、そのショックでほどなく死去します。

 

二条に代わって後白河と建春門院(清盛の義妹)との間に生まれた憲仁親王立太子させようという陰謀の結果、後白河が失脚すると召喚され、やがて右大臣に登り、二条天皇近衛基実の相次ぐ死去によって二条親政派は瓦解し、清盛と後白河の連携が成立すると経宗も左大臣に昇進し、平家と後白河の信頼を勝ち取ることに成功します。かなり有能な人物であって、その有能さが鮮やかな転身を可能にしました。

 

しかし彼は頼朝と源義経の争いで義経の肩を持ったために頼朝から疎まれ、その太く長い政治生命がようやく終わりました。