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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

尼心阿和与状(『朽木家古文書』103 国立公文書館)

これは実は以前に取り上げた4号文書のその後です。

 

 

sengokukomonjo.hatenablog.com

 まず現物を貼り付けます。

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尼心阿和与状 国立公文書館

釈文。

和与
佐々木四郎右衛門尉行綱女子尼心阿代浄円与

同出羽五郎義信代光円相論、近江国高嶋

本庄案主職并後一条地頭職事


右、案主職・後一条地頭職者、心阿帯関東安堵

御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継等、

相傳知行處、建武四年正月廿日義信欲

致所務之条、無謂之由訴申之處、義信又備

関東安堵外題證文等、知行之由論之、既

雖及三問三答訴陳、為義信一族可有和与

由被申之間、以別儀、於後一条者、永代所避渡

于義信也。至案主職・同名田者、心阿永代可令

領掌者也、向後更不可有變改之儀、仍

和与之状如件
  暦応貳年九月十一日  尼心阿 

 

読み下し。

和与
佐々木四郎右衛門尉行綱の女子尼心阿代の浄円と同出羽五郎義信代の光円が相論す、近江国高嶋本庄案主職ならびに後一条地頭職の事
右、案主職・後一条地頭職は、心阿が関東安堵御下文・御下知并六波羅御下知・次第手継等を帯し、相傳知行のところ、建武四年正月廿日、義信所務を致さんと欲すの条、謂れなきの由訴え申すのところ、義信も又関東安堵外題證文等を備え、知行の由、これを論ず、既に三問三答訴陳に及ぶといえども、義信、一族として和与あるべきの由、これを申さるるの間、別儀を以って、後一条においては、永代義信に避り渡す也。案主職・同名田に至ては、心阿が永代領掌せしむべきもの也、向後更に變改の儀あるべからず、仍って和与の状件の如し
  暦応貳年九月十一日  尼心阿 

 

 「和与」というのは現代の民事裁判における「和解」ということで、要するに争いごとを当事者間で決着させることです。

 

ここでは高島本庄の案主職と後一条の地頭職をめぐって、佐々木行綱の娘の尼心阿と、朽木義信が争ったものです。

 

心阿は関東下文と下知状、六波羅下知状、関係文書(次第手継)を手元において相伝し、知行していたところ、兼務四年に義信が荘園を横取りしようとしたので訴えたところ、義宣も関東安堵外題を持って知行してきた、と反論しました。

 

「論ず」というのは「論人」つまり被告のことなので、これは尼心阿が原告(訴人)、朽木義信が被告ということになります。

 

外題証文というのは、所領の配分を記した譲状の余白(外題・げだい)に幕府の執権らが安堵の文言を加えるもので、鎌倉時代後半には安堵の下文に変わって外題安堵という形になります。

 

「三問三答訴陳に及ぶ」というのは、まず原告が問い、被告が反論するという形(訴陳)を三回繰り返すということで、裁判を経るということです。

 

結局同族ということで後一条を義信、それ以外を心阿が相続する、という形で落ち着いています。

 

「備」という漢字が少し現在とは異なる「異体字」を使っています。「つくり」の上部が「久」みたいになっています。また「地頭職」などの「職」の「耳」が「身」となっていますが、これはわかりやすいと思います。

平治の乱後白河主犯説

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。

 

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河内祥輔氏は平治の乱の主犯を後白河上皇とする斬新な説を唱えています。

 


保元の乱・平治の乱

 

それに対し元木泰雄氏はその見方を厳しく批判しています。

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 

呉座勇一氏も河内氏をとりあげ、同じく批判していますが、元木氏ほど強い否定はしていません。

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

 学術的な著作としては古澤直人氏の次の研究があります。

 


中世初期の〈謀叛〉と平治の乱

 

 河内氏の後白河主犯説について見ていきたいと思います。

 

河内氏の主犯説のとっかかりは信西の位置づけでしょう。信西源義朝の襲撃を間一髪で逃れ、信貴山まで逃亡します。そこで彼は自らを生き埋めにしてそのまま死のうとします。しかし絶命に至る前に見つかり、持っていた短刀で自らの胸を刺し貫き、壮絶な自死を遂げます。

 

信西はなぜ自らを生き埋めにさせたのでしょうか、それは信西は自らに降りかかる災難を予見していたから、と河内氏は主張します。

 

信西の危惧は当たりました。信西の首は都大路に梟首されたのです。つまり晒し首、獄門です。これは国家・天皇への反逆者に限られる重罪です。信西天皇への叛逆の疑いで処断されたのです。

 

信西にかかる重罪をかけることのできる人物は院政を敷いていた後白河しかいません。河内氏は源義朝による東三条殿襲撃は後白河の指示である、と考えます。しかし義朝のチョンボで火災が起こり、信西やその関係者はどさくさに紛れて逃亡します。つまりあんなにおおごとになってしまったのは、義朝のミスであり、あんなにおおごとになるとは思っていなかった、というのです。

 

その後後白河は二条天皇のもとに移動します。河内説ではこの段階では二条と後白河の間の対立はなかった、と考えます。

 

信西はなぜ殺されなければならなかったのか、といえば、後白河を退位させ、二条天皇の近侍に藤原俊憲を配置したことを後白河への裏切りと捉え、信西を粛清しました。

 

もう一つ、後白河にとって重要なのは二条天皇の弟宮の存在でした。後白河は二条天皇が鳥羽の正統を次ぐ存在であることに対し、自分が制定する新たな皇統を作ろうと考えていました。その弟宮が間もなく仁和寺で出家する手はずになっていた、というのです。したがって後白河主導によるクーデタは平治元年の年末に起こされたのです。これを越えると弟宮は仁和寺にいってしまい、手遅れになります。

 

信西を殺し、二条のいた大内裏にずかずかと入ってきた後白河に対し、多くの廷臣が戸惑います。仙洞御所と内裏とは離すのが伝統だったからです。

 

やがて信西の相婿であった藤原公教が中心となって後白河を追いおとす行動が始まります。

 

公教は平清盛に触手を伸ばします。清盛は源義朝に匹敵する、むしろ上回る軍事貴族ですが、後白河の側近で今回のクーデタの主要メンバーである藤原信頼とは相婿の関係で、信頼にくっついても不思議はありませんでした。しかし公教は清盛の中にあるだろう義朝への警戒心をうまく刺戟して清盛を後白河から引き剥がすことに成功します。

 

その上で公教は二条の引き剥がしに着手します。二条の側近であった藤原経宗藤原惟方をうまく引き摺り込むと、二条天皇を一気に六波羅に避難させ、その上で主犯の後白河にその事実を通告しました。

 

自らのクーデタが失敗に終わったことを知った後白河には三つの手段が残されています。このまま信頼・義朝とともに謀反人として処断を待つか、六波羅にいち早く亡命して二条天皇の情けにすがるか、どこかへ逃亡して被害者を装うか、です。後白河は三番目を選び、彼はあっさり仁和寺に逃亡しました。

 

気の毒なのは信頼と義朝です。いつのまにやら天皇上皇もいなくなり、謀反人として処断をまつばかりの状態だったのです。

 

これまでならばここまでの大惨敗を喫した場合は、もはや抵抗は諦めて情けにすがるしか手がありません。しかしここで破天荒な行動に出た人物がいます。言うまでもなく義朝です。彼はあろうことか、天皇の行宮である六波羅に突撃をかけたのです。天皇の権威が確立してから、というものの、天皇のいる場所に攻撃をしかけた人物はいないと思います。しかし義朝は突撃し、敗北するとそこで潔く自害、ではなく、処断をも待たず、東国に逃亡をはかります。天皇の御座所に攻撃をかける人物はその辺の目のつけ方も違います。東国で天皇とは異なる権威を打ち立てて自らの生存を測ろうというのです。しかし尾張国長田忠致に裏切られ、殺されてしまいました。

 

哀れをとどめたのは信頼です。信頼は事件の全ての責任を押し付けられ、「我は過たぬ」(私は間違っていない)と抗弁しますが、処刑役の清盛から「何でう」(なんと言うことを)と罵られ、正三位中納言という高位高官にも関わらず、裁判も受けることなく首を刎ねられるという理不尽な死に方をします。

 

これは公教による口封じということになるでしょう。確かに信頼に対する処断はあまりにも理不尽です。これならば保元の乱における源為義らの扱いの方がまし、と言わざるを得ません。

 

ちなみに私はこの著作を読んだ時に非常に説得性を感じて一旦はこの説に靡きましたが、今はもう少し考えてみよう、と判断を保留しています。

 

正親町天皇の生涯ー永禄五年正月一日〜十二月晦日

永禄五年
正月
一日、四方拝を行う、小朝拝、元日節会は停止
御湯殿上日記、孝親公記、続史愚抄
四日、千秋万歳あり、五日同じ
御湯殿上日記(四日・五日)、孝親公記
七日、白馬節会を停止
続史愚抄
八日、太元帥法を行う、聴聞、後七日御修法は停止
御湯殿上日記(八日・十四日)、厳助往年記、東寺執行日記
十二日、不予
御湯殿上日記
十五日、三毬打
孝親公記
十六日、踏歌節会を停止
続史愚抄
十七日、和歌会始の詠草を三条西公条に示す
御湯殿上日記
十八日、三毬打
御湯殿上日記
十九日、和歌会始
御湯殿上日記、孝親公記
二十六日、神宮奏事始
御湯殿上日記、孝親公記
この日、歓喜天に近侍の代官詣
御湯殿上日記
二月
二日、長講堂の事につき談合
御湯殿上日記(二日・三日)
八日、別殿行幸
御湯殿上日記
十五日、涅槃会
御湯殿上日記
十六日、誠仁親王の病気平癒立願のため臨時御拝
御湯殿上日記
二十五日、和漢会
御湯殿上日記
三月
五日、天下騒乱(三好実休戦死)により伝奏から叡慮を足利義輝に伝える
御湯殿上日記
二十五日、別殿行幸
この日、来たる二十九日の三月昼和漢会の御製を三条西公条に下す
御湯殿上日記
二十九日、三月昼和漢会
御湯殿上日記
四月
七日、後柏原天皇の斎日、伏見般舟三昧院にて法会
御湯殿上日記
この日、庚申待、貝合
御湯殿上日記
十一日、将軍足利義輝男児誕生を賀し、剣、馬を賜う
御湯殿上日記(十一日・十四日)
十二日、三条西公条に古今伝授を受ける、後、またこのことあり
御湯殿上日記(十二日・十五日・二十一日・二十二日)
十四日、稲荷祭
東寺執行日記
十五日、三条西公条に清和院の縁起を読ませる
御湯殿上日記(十五日・二十三日)
二十日、賀茂祭
御湯殿上日記
二十四日、六角承禎に酒などを賜う
御湯殿上日記
二十五日、北野社に近侍の代官詣
御湯殿上日記
五月
三日、大納言四辻季遠を召し、篳篥座の学頭を預け置く
御湯殿上日記
十四日、賀茂奏事始
御湯殿上日記
二十四日、この日より三条西公条を召して禁秘抄を講ぜしむ
御湯殿上日記(二十四日・二十八日・六月四日・九日・十四日)
二十五日、長門国阿弥陀寺僧某、参内、謁を賜う
御湯殿上日記
三十日、長門国阿弥陀寺某僧某の乗輿を聴され、綸旨を賜う
御湯殿上日記
六月
七日、毛利元就毛利隆元父子、参内、即位祝賀、剣・馬を献上
御湯殿上日記
この日、庚申待
御湯殿上日記
十三日、七観音に代官詣の宮女、撫物を返上
御湯殿上日記
二十二日、将軍足利義輝上洛し、朝廷の賀に対する返礼として剣を献上、義輝の上洛を賀し剣を賜う
御湯殿上日記、長享年後畿内兵乱記
二十五日、北野社法楽会並びに当座和歌会
御湯殿上日記(二十三日・二十五日)
七月
一日、誠仁親王三代、御楽
御湯殿上日記
二日、毛利元就を四位に、その子隆元を五位に叙せらる、即位費用を献上せしによる
御湯殿上日記、歴名土代
六日、御楽習礼
御湯殿上日記
この日、三条西公条より唐瓜(かぼちゃ)を叡覧に供す
御湯殿上日記
七日、七夕節、和歌会並びに楽会
御湯殿上日記(四日・七日)
九日、三好義興松永久秀参内、剣などを献上
御湯殿上日記
十三日、内宴
御湯殿上日記
二十八日、清荒神に宮女の代官詣
御湯殿上日記
二十九日、別殿行幸
御湯殿上日記
八月
一日、八朔の儀
御湯殿上日記
この日、近江国船木御料所より年貢献上
御湯殿上日記
五日、山城国高山寺より霊宝を召す
御湯殿上日記
七日、延暦寺六月会
御湯殿上日記(七月六日・八日・八月七日)
八日、庚申待
御湯殿上日記
十三日、駕輿丁船木与三郎らに綸旨を賜う
御湯殿上日記
二十九日、天下擾乱(三好義興ら伊勢貞孝を攻め殺す)により叡慮を足利義輝に伝える
九月
五日、後奈良天皇忌日、伏見般舟三昧院にて法事、この日受戒
御湯殿上日記(三日・五日)
九日、重陽節、和歌会
御湯殿上日記
十日、不予
御湯殿上日記
十一日、山科言綱の三十三回忌によりその子言継に物を賜う
御湯殿上日記、尊卑分脈
十五日、廷臣らを召して源氏物語を書進せしむ
御湯殿上日記(十五日・十六日・十月九日・十二月二日・三日・十二日)
三十日、九月昼和歌会
御湯殿上日記
十月
九日、庚申待
御湯殿上日記
十二日、亥子の儀、二十四日また同じ
御湯殿上日記(十二日・二十四日)
十三日、この日より三条西公条を召して源氏物語を講ぜしむ
御湯殿上日記(七日・十三日・十八日・二十一日・二十五日・二十八日・三十日・十一月四日・十一日)
二十五日、御霊社に近侍の代官詣
御湯殿上日記
二十七日、北野社に近侍の代官詣
御湯殿上日記
二十九日、一対屋、修理
御湯殿上日記
十一月
十五日、春日祭
御湯殿上日記(十五日・十六日)
十二月
七日、養生のために服薬
御湯殿上日記
十日、庚申待、貝合
御湯殿上日記

平治の乱における源氏と平氏の関係

7月11日(木)のオンライン日本史講座のお知らせです。

 

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今回は平治の乱を取り上げます。

 

平治の乱といえば、教科書的理解では平氏信西の連合に対して不満を持った藤原信頼源義朝が連携して平清盛の留守中に後白河上皇の御所を襲撃して平治の乱が起こりましたが、清盛が帰還してから形勢が変わり、信頼は処刑、義朝も討ち取られ、平清盛の覇権が確立した、という説明がなされます。

 

これは『平治物語』『愚管抄』に依拠したものですが、系図を仔細に見るとその説明では通じないところが出てきます。

 

信西と清盛vs信頼と義朝という図式ですが、まず清盛は信頼の嫡子の信親を養育しており、清盛の娘は信親の妻となっていました。もっとも信親はまだ幼児だったので、婚約者というべきでしょうが。

 

次に信西の息子の藤原成憲が六波羅に逃亡してきた時、留守の平氏はあっさり成憲を信頼に引き渡しています。おかげで成憲は流罪となりました。考えてみれば六波羅には信頼の嫡子の信親がいるのですから、六波羅は信頼派と信西派の両方の利害関係者だった、ということが言えるでしょう。

 

清盛は都に帰るときに一切妨害を受けていません。これについて『愚管抄』は義朝が準備が整っていなかったから、としており、『平治物語』では源義平が三千騎で阿倍野に布陣している、という噂が流れ、清盛は西国に逃亡しようと考えた、とありますが、実際には義平は来ておらず、そもそもその計画があったのか、ということも不明です。

 

もう一つ、入京した清盛は信頼に名簿(みょうぶ)を差し出し、異心のないことを誓約しています。藤原公教の計略で清盛の屋敷に二条天皇行幸させるという計画が持ち上がり、その実行を確実にするために信頼を油断させるためなのですが、もし信頼と清盛が緊張関係にあれば、その紙切れ一枚で信頼が清盛を信用するとは思えません。もともと信頼関係があったところに、清盛不在中に事件を起こし、政局が急速に動く中で、清盛と信頼の関係が変化していないことを確認する、と信頼サイドは把握したのではないでしょうか。

 

清盛が信西と信頼の双方に密接な関係を取り結んでいたことを考えれば、成憲を信頼に引き渡したことも、信頼に異心なきことを言明することも、それが公教の計略であることも筋が通ります。

 

また清盛が不在中に信頼がこの事件を起こした理由も、信頼と信西の双方に利害関係のある清盛の動きが不確定要素になることを信頼・義朝が嫌ったから、と考えます。したがって信頼としても清盛の意向は気になっていたでしょう。そこに清盛の方から信頼に加担する、という言質を得たわけです。信頼は喜ぶ、というよりは安堵した、という方が近いかと思います。

 

ただこの段階では清盛はすでに信頼・義朝を見限っていました。公教の誘いに清盛が乗ったのです。清盛が公教の誘いに応じて信頼・義朝を見限った理由として考えられるのは、今回の平治の乱で義朝は播磨守に任官し、位階も「四位」となりました。正四位下の清盛との差が仮に従四位下としたら二段階差まで詰めてきたわけです。清盛にとって義朝の急速な昇進は気味が悪いものだったでしょう。そこを公教は突いてきたのではないでしょうか。

 

つまりこの戦いは義朝が清盛に不満を持ったのではなく、清盛が義朝を警戒したために清盛と義朝は戦うことになったのです。

 

しかし源氏と平氏という有力軍事貴族の衝突というのは、この平治の乱の最後の武力の衝突の一側面にすぎません。本筋は軍事貴族の対立ではなく、二条天皇後白河上皇の争い(議論あり)と院近臣の争いです。その辺の事情については次に説明します。

 


保元の乱・平治の乱

 


保元・平治の乱 平清盛 勝利への道 (角川ソフィア文庫)

 


陰謀の日本中世史 (角川新書)

 

ハイホー!7dと足利義教

ハイホー!7d、と言っても分かっていただけない方が多いと思います。ディズニージュニアで放映している「白雪姫と七人の小人たち」のスピンオフ番組です。若き七人の小人たちがしあわせ女王様を魔法使いのヒルディ・グリム夫妻から守る、という話です。

 

『看聞日記』永享三年八月二十三日の記事です。

抑自高麗公方へ進物到来。鵞眼千貫。唐物重宝済々進云々。小人嶋之人、其長一尺四五寸、歳五十許之小人来。室町殿被御覧被預人云々。

 

前段の高麗の話と後半の小人の嶋の話が一体なのか、別なのか、にわかには判読し難いのですが、一応入れておきました。後段の部分を読み下しにします。

小人の嶋の人、その長一尺四、五寸、歳五十ばかりの小人来たる。室町殿御覧ぜられ、人に預けらると云々。

 

「歳五十ばかりの小人」ってこんな感じでしょうか。

www.disney.co.jp

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https://www.disney.co.jp/tv/junior/program/16/hiho7d.html

 

ただ『看聞日記』はしばしばデマやフェイクニュースを平然と流すデマサイトのような側面がありますので、その辺は少し割り引く必要があります。

 

そこで『満済准后日記』永享三年八月二十三日条を見てみました。

 

 

 

ありません。

 

 

二十二日は「上御所」つまり花の御所の事始めが行われていました。つまり「下御所」こと三条坊門第から室町第に戻ったわけです。

 

そのころ大内盛見が少弐満貞に敗死し、後継者をめぐって大変なことになっています。「小人」を引見している暇があるでしょうか。

 

いずれにせよ、よくわからない記事ではあります。

 

更に言えば『満済准后日記』を見る限り、朝鮮使節が来ていたようには思えませんし、実際朝鮮側の記録にも朝鮮通信使の記録はありません。

 

ところが『満済准后日記』永享三年八月十二日に次のような記事があります。

自仙洞勅書被下。自瑠玖国到来沈香一二俵御用可申沙汰云々。

 

要するに琉球使節は来ていたようです。琉球パレンバンやジャワとも関係を持っています。応永年間にはしばしば見られたジャワやパレンバン使節が応永後半期になるとぱったりと途絶えるのは尚氏王朝の成立が大きいのではないか、と私は見ています。

保元の乱のその後

保元の乱はつまるところ後白河派も崇徳派ももともとは差がなく、どちらも権威を欠如させた存在であったことが武力の発動という前代未聞の結果となりました。当然ながらその結末も悲惨なものになります。

 

崇徳の流罪については前回述べました。太上天皇の座にありながら讃岐への流罪という厳しい処分がなされた背景には後白河の意思があった、としか考えられません。そしてそれを主導したのはおそらくは藤原忠通ではなく信西だった、という河内祥輔氏の説明に私も同意します。

 


保元の乱・平治の乱

 

 

忠通はそれどころではありませんでした。忠実は合戦の結末を聞くと大和国に逃亡しました。これは忠実の立場を圧倒的に悪くしました。興福寺の信実が藤原頼長の呼応し、後白河がそれへの対抗処置を取っている中での大和への逃亡は敵対行動ととられても何も言えません。

 

その一方で忠実のもとに逃れようとした頼長との面会を拒み、頼長は忠実に会うこともできずに死去しています。この二つの行動は整合が取れません。後白河派に恭順するのであれば宇治に止まって忠通の情けにすがるしかありません。

 

忠実は不仲だった忠通の庇護下に入るのを潔しとせず、一旦は大和に逃げたものの、後白河の追討命令が出されて浮き足立った大和にも安住できず、自分を頼って落ち延びてきた頼長を見捨てることで保身を図ったのではないでしょうか。

 

忠通にとって忠実の問題はウィークポイントとなりました。当初忠実は謀反人と名指しされていましたが、罪名宣下では忠実の名前は省かれ、忠実の所領は無事に忠通に引き継がれました。しかし頼長の所領を奪われ、さらに河内源氏源義朝に一本化されて忠実が築き上げた複合権門摂関家は解体しました。忠実については下記の著作に収められた佐古愛己氏の「藤原忠実」に詳しいです。

 


保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)

 

忠実は住み慣れた宇治や大和への退去を願ったようですが、洛北の知足院に幽閉され、六年後に死去しました。

 

崇徳の側近で崇徳期の代表的歌人でもあった藤原教長は自首し、取り調べを受けましたが、それは「崇徳の御所で軍を組織し、国家を転覆しようとするに至った事情を申し述べよ」と、崇徳の謀反というストーリーにそった供述を得ようとする取り調べでした。河内氏はこの教長の供述に沿って保元物語愚管抄の崇徳方の動向が描かれていったのではないか、と想定しています。

 

武士も次々と逮捕されました。二十人が死罪に処せられましたが、これは武力が用いられたこと、さらにはその武力が天皇に向けられた、ということが問題視されたものと思われます。平忠正は甥の清盛によって処刑され、源為義は子の義朝によって処刑されました。同族に処刑させたのはせめてもの温情だったと私は考えています。

 

忠通は後白河から氏長者に任命される、という形式を取らざるを得ませんでした。これは摂関家の主導権が失われたことを意味しています。これ以降摂関家天皇家に介入を受け、天皇家の強い影響下に置かれたことを意味しています。

 

この一連の動きを差配したのはおそらくは信西だったでしょう。とりあえず信西については7月4日(木)のオンライン日本史講座でお話しします。

 

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足利義藤御内書(『朽木家古文書』99 国立公文書館)

足利義藤御内書です。義藤とは聞きなれない名前ですが、足利義輝の初名です。言わずと知れた剣豪将軍です。

 

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足利義藤御内書 国立公文書館

年号のない日付の下に花押が押されており、御内書であることがわかります。

 

釈文です。

今度不慮題目出来

至當谷被移御座候、不存

疎略抽忠節者、可為神

妙候、猶道恕可申候也

 

二月十二日(花押)

佐々木宮内大輔とのへ

 

一行目一番上のLとーで「今」です。「不慮題目」も真ん中の「慮」と「題」は結構崩れてますが、そんなものです。最後の「出来」は頻出ですので覚えましょう。

二行目の「至」は慣れればそんなものだ、と思えますが、二つ目の「當」はこれは無理です。難読、というか、無理ゲーです、多分。「谷」もこすれてよく分かりません。「被移御座候」はどれも基本となるくずしです。「移」の「禾」と「多」はそれぞれよく出るのでパーツごとに覚えましょう。

三行目の「疎略」も「略」が読みづらいです。これはかすれてしまっているのでしょう。五つ目の「節」という字は間延びしていますので分かりづらいですが頻出です。

四行目の「道」は慣れれば簡単です。慣れれば。

 

読み下し。

今度、不慮の題目出来により、当谷に至り、移られ御座候。疎略に存ぜす忠節を抜きんずれば、神妙たるべく候。なお道恕申すべく候。

 「不慮の題目」というのは、天文十九年、三好長慶と対立し、近江国穴太で客死した足利義晴を継承した足利義藤を、義晴から託された伊勢貞孝が京都に連れ戻し、長慶と和睦させますが、天文二十年二月には六角定頼の勧めに従って朽木谷に落ち延びています。

ちなみに宛先の「佐々木宮内大輔」ですが、該当者は朽木晴綱しかいませんが、晴綱は天文十九年に高島越中守と戦って戦死したとされています。しかし西島太郎氏は『戦国期室町幕府と在地領主』の中でこの文書に言及し、天文十九年死亡説は疑問である、としています。

 


POD>戦国期室町幕府と在地領主

 

 

最後の「猶道恕申すべく候」ですが、「道恕」は義藤の側近で朽木晴綱との間の取次をしている人物のはずですが、詳細はわかりません。