保元の乱のその後
保元の乱はつまるところ後白河派も崇徳派ももともとは差がなく、どちらも権威を欠如させた存在であったことが武力の発動という前代未聞の結果となりました。当然ながらその結末も悲惨なものになります。
崇徳の流罪については前回述べました。太上天皇の座にありながら讃岐への流罪という厳しい処分がなされた背景には後白河の意思があった、としか考えられません。そしてそれを主導したのはおそらくは藤原忠通ではなく信西だった、という河内祥輔氏の説明に私も同意します。
忠通はそれどころではありませんでした。忠実は合戦の結末を聞くと大和国に逃亡しました。これは忠実の立場を圧倒的に悪くしました。興福寺の信実が藤原頼長の呼応し、後白河がそれへの対抗処置を取っている中での大和への逃亡は敵対行動ととられても何も言えません。
その一方で忠実のもとに逃れようとした頼長との面会を拒み、頼長は忠実に会うこともできずに死去しています。この二つの行動は整合が取れません。後白河派に恭順するのであれば宇治に止まって忠通の情けにすがるしかありません。
忠実は不仲だった忠通の庇護下に入るのを潔しとせず、一旦は大和に逃げたものの、後白河の追討命令が出されて浮き足立った大和にも安住できず、自分を頼って落ち延びてきた頼長を見捨てることで保身を図ったのではないでしょうか。
忠通にとって忠実の問題はウィークポイントとなりました。当初忠実は謀反人と名指しされていましたが、罪名宣下では忠実の名前は省かれ、忠実の所領は無事に忠通に引き継がれました。しかし頼長の所領を奪われ、さらに河内源氏は源義朝に一本化されて忠実が築き上げた複合権門摂関家は解体しました。忠実については下記の著作に収められた佐古愛己氏の「藤原忠実」に詳しいです。
保元・平治の乱と平氏の栄華 (中世の人物 京・鎌倉の時代編 第一巻)
忠実は住み慣れた宇治や大和への退去を願ったようですが、洛北の知足院に幽閉され、六年後に死去しました。
崇徳の側近で崇徳期の代表的歌人でもあった藤原教長は自首し、取り調べを受けましたが、それは「崇徳の御所で軍を組織し、国家を転覆しようとするに至った事情を申し述べよ」と、崇徳の謀反というストーリーにそった供述を得ようとする取り調べでした。河内氏はこの教長の供述に沿って保元物語や愚管抄の崇徳方の動向が描かれていったのではないか、と想定しています。
武士も次々と逮捕されました。二十人が死罪に処せられましたが、これは武力が用いられたこと、さらにはその武力が天皇に向けられた、ということが問題視されたものと思われます。平忠正は甥の清盛によって処刑され、源為義は子の義朝によって処刑されました。同族に処刑させたのはせめてもの温情だったと私は考えています。
忠通は後白河から氏長者に任命される、という形式を取らざるを得ませんでした。これは摂関家の主導権が失われたことを意味しています。これ以降摂関家は天皇家に介入を受け、天皇家の強い影響下に置かれたことを意味しています。
この一連の動きを差配したのはおそらくは信西だったでしょう。とりあえず信西については7月4日(木)のオンライン日本史講座でお話しします。