足利義藤御内書(『朽木家古文書』99 国立公文書館)
足利義藤御内書です。義藤とは聞きなれない名前ですが、足利義輝の初名です。言わずと知れた剣豪将軍です。
年号のない日付の下に花押が押されており、御内書であることがわかります。
釈文です。
今度不慮題目出来
至當谷被移御座候、不存
疎略抽忠節者、可為神
妙候、猶道恕可申候也
二月十二日(花押)
佐々木宮内大輔とのへ
一行目一番上のLとーで「今」です。「不慮題目」も真ん中の「慮」と「題」は結構崩れてますが、そんなものです。最後の「出来」は頻出ですので覚えましょう。
二行目の「至」は慣れればそんなものだ、と思えますが、二つ目の「當」はこれは無理です。難読、というか、無理ゲーです、多分。「谷」もこすれてよく分かりません。「被移御座候」はどれも基本となるくずしです。「移」の「禾」と「多」はそれぞれよく出るのでパーツごとに覚えましょう。
三行目の「疎略」も「略」が読みづらいです。これはかすれてしまっているのでしょう。五つ目の「節」という字は間延びしていますので分かりづらいですが頻出です。
四行目の「道」は慣れれば簡単です。慣れれば。
読み下し。
今度、不慮の題目出来により、当谷に至り、移られ御座候。疎略に存ぜす忠節を抜きんずれば、神妙たるべく候。なお道恕申すべく候。
「不慮の題目」というのは、天文十九年、三好長慶と対立し、近江国穴太で客死した足利義晴を継承した足利義藤を、義晴から託された伊勢貞孝が京都に連れ戻し、長慶と和睦させますが、天文二十年二月には六角定頼の勧めに従って朽木谷に落ち延びています。
ちなみに宛先の「佐々木宮内大輔」ですが、該当者は朽木晴綱しかいませんが、晴綱は天文十九年に高島越中守と戦って戦死したとされています。しかし西島太郎氏は『戦国期室町幕府と在地領主』の中でこの文書に言及し、天文十九年死亡説は疑問である、としています。
最後の「猶道恕申すべく候」ですが、「道恕」は義藤の側近で朽木晴綱との間の取次をしている人物のはずですが、詳細はわかりません。