足利義持御判御教書の解説
まずは写真から。
京都府立京都学・歴彩館所蔵「東寺百合文書」ヒー68号文書。
「東寺領山城国植松東庄」は、ざっくり言うと、現在の西大路駅の東側になります。
具体的に言えば、西大路の少し東側から御前通りまで、梅小路から九条通までの地域が東寺領植松東荘。植松東荘自体は他に松尾の最福寺(現存せず)、松尾大社、中御門家と争いがありました。
この文書では最福寺との争いが扱われています。
「最福寺雑掌が嘆き申すといえども」の部分はそのまま現代語でも通じますね。
「替地を付くべきの上は」の部分は少し解説が必要でしょう。「替地」というのは、「替わりの土地」ということですから、東寺の手に入る前には最福寺がそこに権利を有していたことを示しています。この時期には一つの土地に多くの所有権があったので非常にややこしいのですが、最福寺が持っていたのも、その土地にある重層的な所有権の一つです。この土地に関わる所有権の一つである「地頭職」は、現時点では東寺ですが、これは南北朝内乱の中で足利義詮から東寺に寄進されたことが、ニ函の18号文書からわかります。観応三年(1352年、同年9月7日に文和に改元)のことです。足利尊氏と足利直義の間で戦われた観応の擾乱の最終章にあたりますが、尊氏が直義を捕らえ、直義が死去するのが2月26日、閏2月20日には楠木正儀を中心とする南朝軍が京都に突入、義詮は一旦近江に逃れますが、体制を立て直し、3月15日には京都を奪回、同21日には東寺に本陣を置き、石清水八幡宮に籠る南朝軍を攻撃します。この時の恩賞として植松東荘の地頭職が東寺に与えられたわけです。
問題はおそらくはこの土地にはややこしい所有関係があって、東寺の地頭職獲得が、あちらこちらに悪影響を及ぼしたのでしょう。結局室町幕府は最福寺が被った損害の補填として、最福寺に替地を与えたものと思われます。ただその替地が最福寺にとっては不満の残るものであり、「嘆き申し」ているのでしょう。
幕府は替地を与えた以上は「彼の競望を止め、当知行に任すの旨、寺家領掌相違あるべからず」と、最福寺の訴えを棄却し、東寺の権利を保証しています。
これもある意味六十年前の戦後処理ともいえるでしょう。