宝山乾珍と季瓊真蘂
嘉吉の乱では赤松満祐が足利直冬の孫の足利義尊を擁立したのは知られている話ですが、赤松家中も一枚岩ではなかったようです。
ただ嘉吉の乱直後に足利家を細川持之がいち早く身柄を確保してしまったため、これくらいしか担ぐことはできなかったでしょう。ただ実際に擁立する必要があったのか、については少々悩ましいところです。
ここで一応足利直冬とは誰か、という話をしておきますと、直冬は尊氏の実子で、嫡出の義詮や基氏の庶兄にあたります。直義の養子になっており、直義の没落とともに彼も中国地方に没落し、その子どもたちは嫡男冬氏を除くと出家してしまいました。義尊は冬氏の子どもです。
直冬の末子が宝山乾珍です。彼は鹿苑寺僧録を務めていました。かなり出世したことになります。
絶海中津の弟子で景徳寺・等持寺の住持を経て相国寺第四十四世となります。その一年半御に鹿苑院塔主になり、その後天龍寺九十四世を経て再び相国寺に住しています。その間僧録を務めていました。彼の主な業績は明のもたらした宣徳帝の勅書に対する返書に干支を書くことを主張しており、明年号を主張する満済に撃沈されています。
乾珍のもう一つの大きな業績は廃れていた蔭涼軒を再興し、蔭涼軒主に季瓊真蘂を抜擢したことです。
季瓊真蘂は赤松氏の一門である上月氏の生まれで、父母は不明です。若くして叔英宗播に師事しています。宗播も播磨国の出身なので、その縁を頼ったのでしょう。
蔭涼軒は僧録と将軍の取次を務めるもので、乾珍の信頼をよほど季瓊真蘂が獲得していたとしか考えられません。
乾珍と季瓊真蘂は揃って嘉吉の乱でひどい目にあいます。
季瓊真蘂は当然赤松一門ですから非常にまずい状況に陥りました。彼はその中でも赤松氏になびかずに義教の首級を受け取るために満祐の居城の播磨坂本城に赴き、義教の首級を受け取っています。そしてそれを京都に届けるとそのまま逐電しました。
乾珍にも非情な運命が待っていました。彼の甥にあたる足利義尊が赤松氏に擁立されたことに関連してか、義教の首級が京都に届いたのをきっかけに鹿苑院主を辞任し、僧録も退きます。そして半年後には京都北山の等持院で死去しています。何らかの事件性をみる見解も存在します。
しかし人間生きていれば何とかなるものです。季瓊真蘂は苦節十七年、長禄二年に足利義政の引立てを受けて蔭涼軒主に復帰します。それ以降以前にも増して将軍に近侍し、幕政にまで関与していくようになります。この辺の季瓊真蘂の活躍は木曜日をお楽しみに。