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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

『乱世の天皇』の秦野裕介が嘉吉の乱を書くと

『乱世の天皇』の秦野裕介が嘉吉の乱を書くと

 

というか、もう『乱世の天皇』の中に書いてあるし。何格好つけてんだ、というネタでしかありません。

 

これが『乱世の天皇』の秦野裕介が安倍晋三政権を総括する、とかだったら格好がつくのですが、肝心の中身がクズみたいな文章しか出てこないことは保証します。

 

私がある程度(あくまでもある程度)のクオリティの文章を提供できる範囲は狭いです。

 

で、嘉吉の乱です。

 

正直嘉吉の乱については今谷明先生の『土民嗷々』の右に出るものはないと思っています。足利義教後花園天皇・赤松満祐・万里小路時房・貞成親王畠山持国細川持之といったメンツが躍動しています。

 

基本的に嘉吉の乱を描くときには義教の専制化と暴走を軸に、それに巻き込まれる人々を描いていく、という形になります。

 

足利義教を誰目線で見ていくか、という点も重要です。

 

『看聞日記』がありますので、貞成親王目線が主流になります。また『建内記』もありますので、万里小路時房目線ももう一つの対抗軸になるでしょう。そこに『薩戒記』の中山定親目線を入れるともう少し話が立体的になってきます。『薩戒記』は近年ようやく刊本が揃ってきましたので、使いやすくなっています。

 

貞成親王に関しては、私は拙著でも割合両思い的に描いてきました。しかし『北朝天皇』では義教の貞成への片思い、ストーカー的な関係としていて、案外これ、事実かもな、とも思い始めています。『看聞日記』における「将軍犬死」という。一見手のひら返しに見える表現も、石原比伊呂氏の見解を踏まえると自然につながります。

 

私は義教の専制性、暴虐性を強く打ち出してきた従来の「嘉吉の乱」叙述から脱して、義教の専制性について再考したいと思っています。

 

義教が最も暴虐性をあらわにしたのは公家層、それも名家層です。これは義教の後花園天皇への入れ込みぶりとおそらく連動しています。義教は後小松院政の総決算を行おうとしていたのではないか、と考えています。天皇の権威の低下を招いた後小松院政およびそれを改善しようとしなかった廷臣たちを追い落としていったのでしょう。

 

義教の「凶暴化」のきっかけが永享五年と言われていますが、畠山満家の死去とともに大きかったのが後小松院の崩御だったのでしょう。

 

この辺をもう少し丁寧に掘り下げていくべきではないか、と考えています。『乱世の天皇』の著者が義教政権を描きだせば、義教による宮廷改革というテーマが主軸になっていくでしょう。

 

このテーマで義教の様々な動きを見ていくと、今まで見えなかったことがいくつか見えてきます。

 

もう一つ、注目したい人物がいます。嘉吉の乱の時に完全武装した赤松満祐勢に徒手空拳で立ち向かい、重傷を負って一ヶ月後に死去する大内持世です。

 

大内持世になぜ注目するか、といえば、『海東諸国紀』における「国王代序」のほとんどは足利義教の話で、そのほとんどが嘉吉の乱の話です。そしてこれは『朝鮮王朝実録』に書かれていることをベースに書いています。

 

そこに書かれていることは実はほぼ『看聞日記』と一致します。おそらく情報源が同じだからでしょうが、貞成親王はどういう情報源を駆使したのでしょうか。ちなみに後花園天皇嘉吉の乱で大内持世と同じく抵抗して負傷した正親町三条実雅に事情聴取を行いましたが、詳細な記憶を失っており、最終的に細川持之からの報告によって義教の死を知っています。

 

朝鮮王朝にとって国王がいきなり殺されるのは衝撃だったでしょう。そしてその後に少年が国王に就位してその結果混乱しているのも見ていました。

 

それが首陽大君による国王の弑殺と王権簒奪につながるあたり、朝鮮王朝と日本の違いを考えるのも興味深いです。また赤松満祐の弟が逃亡して朝鮮への倭寇となったのも、倭寇とは何か、という問題を考える素材を提供しています。

 

嘉吉の乱はつまるところ足利義教の人生を主軸に、誰を絡ませるか、というあたりが見せ所ではないか、と思います。

 

そこで私が書くとするならば大雑把に以下のような構成になるでしょう。

 

まずは足利義持の死とくじ引きによる選出

足利義教にはやはりくじ引きという出発点が必要です。天台座主も務めた天台の高僧がいきなり室町将軍になったとまどいこそ彼の出発点ではなかったでしょうか。

 

称光天皇から後花園天皇への代替わり

普通の天皇の代替わりではありません。称光天皇には後継者がおらず、また後継者の氏名を拒否し続けたため、後継者が不透明な中、すべての責任を一身に背負って義教はまだ将軍にもなれないのに、次期天皇擁立に動きます。この歴代の皇位継承の中でも最も緊迫したものの一つであるこの事件を、後花園天皇目線ではなく、足利義教視点で見ていきます。

 

天皇・芸能・学問

義教は天台宗の高僧でしたので、文化的素養は非常に豊かでした。その義教が荒廃した宮廷の立て直しに奔走する時、彼のそういう素養が役に立ちます。

後花園天皇の学芸の習得を全面的にプロデュースした義教の努力がなければ、天皇というシステムがどうなっていたか、分かりません。天皇を積極的に再定義した義教の業績はもっと注目されていいでしょう。

 

海域アジアの中の義教政権

義教の時代は北海道に日本人のコロニーが形成されてからしばらく経過した時期で、北海道と近畿の日本海交易が大きく再編される時期でもありました。その具体的な動きとして十三湊からの下国氏の没落と、下国氏による若狭国小浜の羽賀寺再建などが挙げられます。

また琉球との関係も活発化していきます。そのため、義教政権は北海道から琉球まで支配に含めた、という言説がまま見受けられますが、もちろん間違いです。琉球は完全にデマで、今や信じる人もいないと思いますが、津軽に関しては今なお義教の力の過大評価は見られます。

朝鮮とは倭寇問題を通じての交渉があります。また明とも倭寇をめぐる対応、あるいは日明貿易の商人への丸投げ化が進行する時期でもあります。その辺を見直すひつようがあるでしょう。

 

足利義教政権の運営

いわゆる重臣会議制から諮問制に変わっていきます。また裁判制度も義教が前面に出てきます。義教の独裁制があらわになりつつある、という評価をされています。しかし実際にはその前提には管領の機能不全という事態が起こっていました。義教政治を見る際にはこの点の見直しが不可欠です。

また細かく見ていきますと、義教はお気に入りを押し込んだわけではない、という点も重要です。義教なりに一番ベストという人物を押し込んでいます。

ただ最晩年には一色義貫・世保持頼を暗殺する、という事件を引き起こし、これが赤松満祐を始めとする人々への求心力の低下に繋がっていたかもしれません。

 

関東との関係

永享の乱後花園天皇の綸旨の発給という側面から再考します。この辺は近年研究が進んでいるところで、後花園天皇と義教の関係も検討対象に入ってきます。また大名にも親関東と反関東があり、在京大名と関東や南東北の入り組んだ関係も見ていく必要がありそうです。特に南部氏に関しては関東との関係が深いことが史料上はっきりしていますが、その辺を踏み込んだ業績はあまり目にしません。むしろ南部氏と京都との関係に注目する研究の方が目につきますが、南部家の文書を見る限り、その見解は採用できません。

 

赤松満祐はなぜ義教を討ったのか

ここのところがいちばんのポイントです。この辺は現状ではまだ思いつきのレベルでしかありませんが、通説には大きな問題がある、と考えます。この辺は本書の肝となるところなのでここでは伏せておきます。

 

嘉吉の乱後の混乱とその収拾

嘉吉の乱後の混乱といえば嘉吉の徳政一揆です。そして諸大名の合議制の崩壊の可視化、幕府機構の弱体化と後花園天皇の幕政への介入などが行われていきます。

将軍が幼少である間、天皇が将軍の権限を代行するかのような動きが見えます。これは天皇の権威の復活と見られてきましたが、近年ではむしろ幕府と朝廷の一体化という側面から評価されます。この辺の難しい問題をわかりやすく解きほぐす叙述が求められます。

 

最後はやはり禁闕の変で閉じましょうか。義教時代に吹き出した矛盾が後花園天皇畠山持国の協調によって急速に収拾される過程です。

 

以上です。なかなか自分でも面白いと自画自賛していますが、どこか採用してくれませんか。