前九年の役と後三年の役
6月13日(木)午後8時30分からのオンライン日本史講座のお知らせです。
前九年の役を取り上げる場合、二つの視点があります。一つはエミシ社会のその後です。北緯40度ラインで一旦おさまった情勢が流動化し始めます。
海域アジアレベルでの変動が当然日本列島の北部にも影響を及ぼし始めます。北方の靺鞨と呼ばれたオホーツク・沿海州の民族集団から様々な交易品が流入していましたが、唐の崩壊とそれに伴う海商の広範囲な展開は海域アジア全体に大きな変動を引き起こしたに違いありません。
これは古代的な帝国秩序の崩壊が本格化したことを示しており、海域アジアにおける中世が始まったことを意味していました。
唐や高麗は倒壊し、新しい王朝に変わっていきました。そのころ日本では違った展開が待っていました。地方に有力者が力を蓄え、自立化傾向を見せ始めます。これは海域アジア各地で起こりますが、日本列島上では地方に分立した群盗が宇多朝の時に「武士」と名付けられて制度の中に回収されていった、と桃崎有一郎氏は説明します。
武士の起源を解きあかす――混血する古代、創発される中世 (ちくま新書)
宇多朝のころに大規模な転換があったことは、様々な研究から明らかですが、「武士」の成立もそのひとつでしょう。宇多朝における国制の大きな転換はまさに古代から中世への転換といってもいいでしょう。この時期こそ中世の始まりと私は今のところ考えています。海域アジア史的視点から見てもこの時期を中世の始まりとすると筋が通ります。
そのような中で北緯40度ライン付近にも変動がやってきます。その中で安倍氏や清原氏のようなエミシ系の有力者が現れます。安倍氏や清原氏の出自については様々な見解がありますが、ざっくりいえばエミシの末裔の在地土豪という見方、京都から下ってきた有力者の末裔、在地有力者に京都から下ってきた貴族層が婿入りして勢力を引き継ぎ、武士団化したもの、などです。
そのような動きが始まった東北北部〜道南地域ですが、北海道でも大きな変動は当然起こります。このころ擦文文化と呼ばれる文化が道南から東北北部に広がり、北海道のオホーツク海沿岸には靺鞨文化が展開していました。オホーツク文化とも呼ばれます。
日本は毛皮や鷲羽・鷹羽や昆布などを求めて北方社会と交易を行います。日本での動揺は矢羽に使われる鷲羽などの需要を大幅に押し上げたでしょう。交易ルートが活発化するとともに、さらなる利益を求めて北上を再開する契機にはなるでしょう。
10世紀ごろ、北海道でも交易ルートの大きな変動が見られます。関根達人氏によれば9世紀まで本州側の窓口は秋田城でしたが、10世紀には津軽地域のエミシ集団に変わるということです。
そしてこのころ北緯40度以北地域では環濠集落が発達しますが、11世紀後半に国郡制が施行されると環濠集落は消滅します。この環濠集落の時期が前九年の役・後三年の役です。北緯40度以北の地域を日本に編入するために投入された武士団の棟梁が河内源氏と呼ばれる武士団でした。