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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

坂上田村麻呂とアテルイ報告と世界史的概念としての「古代」「中世」を考える

昨日のオンライン日本史講座のご報告です。

 

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ここでは予告編から脱線した話をまとめています。

 

エミシとの戦いは基本的に遷都事業とセットになって行われています。平城京遷都の時に征夷事業が開始され、平安京遷都も征夷事業とは切り離せません。

 

常識的に考えれば二つの大事業にリソースをつぎ込むのもあまり賢いとはいえませんが、征夷事業と遷都事業はこの常識が通用しないようです。

 

平安京に関していえば、遷都の大義名分として征夷事業の大きな成果が必要であったことがあり、まあ納得できます。早良親王の祟りや洪水の起こる地という立地条件を考えれば、平安京への遷都とともに征夷事業の成功が報告されれば遷都の機運も高まるでしょう。

 

しかし実際問題、大規模な事業を同時並行で行うのは国家財政上、むちゃくちゃなことで、この辺大学で講義した時にも受講生から確実に質問がやってくるところです。

 

こういう大規模な造営事業とややこしい法体系と戸籍による人民の把握と領域的な拡大への欲望と異民族支配という古代国家的な側面は確かに日本列島上に存在したんだな、と思います。そしてそれは実現不可能なものであるがゆえに、完成したかと見えた瞬間崩壊していく、というものだったと考えています。

 

藤原仲麻呂称徳天皇というのは確かにそれを一瞬完成させ、桓武天皇はそれを引き継いでさらに発展させようとした、という感じで見ています。しかし桓武末期にはその実現不可能性ははっきりしていたわけで、いわゆる「徳政相論」というのもその文脈で見ることができるでしょう。また平城天皇嵯峨天皇の改革も何とか現実の社会に理念をアジャストさせていこうという必死の試みだったのではないでしょうか。

 

そしてこういう古代国家の実現不可能性は他の地域でも同様であり、新羅の滅亡や唐の滅亡と高麗・宋の勃興というのはその結末だったのではないでしょうか。日本列島上では宇多天皇による政治改革が古代国家の理念を放棄し、新しい体制を作り出したものではないか、と私は見ています。

 

ここで少し放言をしますと、「中世」というのはあくまでも世界史的概念であるべきであって、日本列島にしか通用しない概念であればわざわざ「中世」というあいまいな概念を使うべきではありません。例えば武家政権による支配を「中世」と呼ぶのであれば、「中世」というあいまいな概念を使わずに「武家政権の時代」とすれば済むことです。「鎌倉・室町時代」でもいいはずです。「中世」という世界史的概念を使うのであれば、その世界史的概念性を生かさなければならないはずです。

 

例えば史的唯物論や大塚史学のように世界史的観点から「中世」概念を使った研究は存在します。そこではヨーロッパの「中世」と日本の「中世」が対比され、いずれも「封建制」の展開に「中世」という概念が合致したから鎌倉時代室町時代を「中世」と定義したのではないでしょうか。領主制理論はそのうち、封建的生産様式に基づく在地領主層が、古代奴隷制的生産様式に基づく天皇・貴族社会に階級闘争を挑む中で中世社会が作られ、非領主制理論の中でも権門体制論は封建制の階級対立を在地領主対古代的デスポティズムの間に求めた領主制論を批判し、階級対立の本質を「百姓」層対全領主階級に求めたもので、いずれにせよ、封建制社会という世界史的概念に基づく「中世」概念であるわけです。しかしその前提が崩れたところで「中世」という言葉を使っても、前提が失われている以上、「中世」とは何か、という議論は空疎なものになります。

 

私がいま何となく考えているのは、海域アジアレベルでの普遍性で「中世」を考え直す、という作業です。海域アジア史の分野では「中世」というのは、「古代的中央集権制」の崩壊、つまり唐の滅亡を以って始まる、といいます。海域アジア的視点で言えば10世紀初頭に「中世」が来なければならないわけです。

 

もう一つ、どう考えても藤原道長の時代の政治と藤原不比等の時代の政治は一様ではありません。戸籍による人身把握の有無、賦課体系の違い、軍事機構の違い、政治的意志の反映のされ方の違い、どれを取っても聖武天皇一条天皇よりも一条天皇後嵯峨天皇の方が似ています。

 

海域アジアの視点では聖武天皇は古代、一条天皇後嵯峨天皇は中世、後花園天皇は近世前期、霊元天皇は近世となります。それは中華帝国の構造と周辺への関わり方の違いに求められます。国家的使節団による「ヒト・モノ・情報」の交流が行われていた時代、つまり国家が全てを管理しようとした時代は唐までで終わります。この時代は古代的な段階です。9世紀ごろから中国海商による民間交易を介した「ヒト・モノ・情報」の交流が発展してきます。この時代が「中世」です。したがって「中世」は9世紀から14世紀前半となります。14世紀にユーラシア規模の危機が発生し、モンゴル帝国も崩壊し、日本でも南北朝の内乱が起こって鎌倉幕府が滅亡、朝鮮半島では高麗が滅亡します。新たに成立した明は海禁体制を軸にして閉じた秩序を構想しますが、周辺では交流が活発化します。足利家による日本国王体制もその対応です。17世紀に差し掛かると近世前期の競争を勝ち抜いた勢力が国家の枠内で社会の安定化を図り、海は障壁として機能するようになります。各地域ごとに「伝統」社会が形成され、成熟していきます。これが近世後半です。

 

以上のような海域アジア史における時期区分に従えば、日本では宇多天皇の時期に古代から中世へ移行し、後醍醐天皇の時期に中世から近世前半に、後陽成天皇の時代に近世後半に移行することになります。この時期区分を従えば「古代」「中世」「近世」という言葉も世界史的概念として使うことが可能になります。

 

以下の本に従うとほぼ上のような時期区分になるかと思います。執筆者を見たら橋本雄先生と谷本晃久先生がいらっしゃったので、私としては((((;゚Д゚)))))))という感じです。

 


海域アジア史研究入門