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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

坂上田村麻呂の前提ーオンライン日本史講座「戦争の日本史」2

清水寺に行くと、やはり目を引くのは「清水の舞台」と呼ばれる本堂です。

 

坂上田村麻呂ゆかりのこの寺のハイライト「清水の舞台」に向き合うようにアテルイ・モレの碑が立っています。

 

アテルイとは平安京遷都当時にその勇名を轟かせたエミシの英雄です。アテルイの奮戦を一つのクライマックスとするエミシ対日本の戦いは。文室綿麻呂の言葉より「38年戦争」と呼ばれます。

 

6月6日のオンライン日本史講座「坂上田村麻呂とエミシの英雄アテルイ」のお知らせです。

 

ticket.asanojinnya.com 

 

https://zoom.us/j/481363987

 

文室綿麻呂は774年から811年の38年間を日本とエミシの戦いとしています。綿麻呂によれば774年に「海道蝦夷」が桃生城を攻撃したことに端を発した、ということです。もちろんエミシが桃生城を攻撃するに至るそれまでの過程があるので、その意味では38年どころではない、ということにもなるでしょう。

 

大伴駿河麻呂による征夷が行われますが、日本に大きな衝撃を与えたのは780年に勃発した伊治公(これはるのきみ)呰麻呂(あざまろ)の乱です。彼はエミシでありながらエミシ征伐に活躍し、外従五位下の位階を獲得していました。外従五位下というのは、エミシなど「日本」以外の人々に与えられる位階です。

 

律令国家に一旦服属した呰麻呂の反乱は衝撃でしたが、この結末は明らかではありません。うやむやのうちに終わったのかもしれません。

 

789年からは阿弖流為アテルイ)による反乱が起こります。ここでは胆沢の戦いで日本軍が敗北を喫し、アテルイの名前は有名になります。

 

何としてもアテルイを潰さなければメンツの立たない桓武天皇は切り札の坂上田村麻呂を投入します。アテルイは田村麻呂に服属し、田村麻呂はアテルイの助命を条件に都に連れて行きますが、桓武朝はアテルイを裏切り処刑します。

 

桓武の死去によって征夷事業と遷都事業は中断し、811年には正式に終結が宣言され、概ね北緯40度付近のところで「民夷」の境界が引かれます。しばらくこの境界が日本の最北限となります。

 

そもそも「エミシ」「蝦夷」とは何でしょうか。

 

一言では言えない問題です。「エミシ」というのは自称というよりは他称という側面の方が強いと言われています。したがって例えばエミシはアイヌか否か、という問題についても単純には言えない、としか言いようがありません。

 

ちなみに上のところで「日本」と無邪気に言い切っていますが、これは古代における「日本」の範囲が律令が施行されているかどうか、というところに主眼があります。律令なんて複雑な法体系を当時の人々が知っていたはずはない、というのも事実ですが、実態としてはともかく建前としては国郡制が施行されているか否か、という形で処理されます。この時期の国や郡の法的根拠が大宝律令である以上、国と郡を設置した場所は律令国家の枠組みに編入されます。

 

エミシとは何か、ということですが、律令制編入されない北方の人々を律令制下にある人々が呼称した集団である、とすれば、南限は比較的単純に出せます。鈴木拓也氏の『蝦夷と東北戦争』に従いますと、南限は新潟・米沢・仙台ということになります。

 


蝦夷と東北戦争 (戦争の日本史)

 

 東北への弥生文化の伝播は自然条件に左右されます。東北、と言ってもかなり広いです。

 

津軽地域では一旦弥生文化が伝播するも、寒冷化にともない、北海道で展開していた続縄文文化人(アイヌ人の祖)が南下し、津軽地域にはアイヌ文化の前身文化が成立します。そして彼らは土師器文化の影響を受けつつ擦文文化を成立させ、やがてアイヌ文化を作り上げていきます。

 

一方南部では古墳文化圏の影響を受け、小型の古墳が作られていきます。このように地域的・文化的な多様性を持つ集団を「蝦夷」と一括して呼んでいるので、その中身は非常にバラエティー豊かなものにならざるを得ません。

 

蝦夷とヤマトは前回までもみてきたように関係を結んできました。斉明朝には渡島蝦夷と粛慎の争いに介入までしています。しかしこの間斉明朝も蝦夷の地をヤマトに編入することはしませんでした。

 

この動きがはっきりするのは708年、元明天皇の時代です。

 

元明天皇天智天皇の皇女で、諱は阿閇皇女(あへのひめみこ)といいます。天武天皇持統天皇の間に生まれた草壁皇子と婚姻し、氷高内親王(後の元正天皇)、珂瑠皇子(後の文武天皇)、吉備内親王長屋王妃)を生んでいます。文武天皇が亡くなるときに遺詔で母親の阿閇皇女が即位します。天皇が死んだとき、天皇の妃が天皇になることができたのです。したがって天皇の妃である皇后は天皇家から出すことが決められていました。阿閇皇女の場合は皇后ではありませんでしたが、草壁皇子は事実上の天皇扱いだった上に天皇の母親ということもあって即位しました。子どもから親に皇位が移動した例はこれだけです。

 

元明天皇文武天皇がやり残した律令体制の確立を強力に推し進めます。立地条件から理想的な都城ではなかった藤原京から平城京に遷都し、和同開珎を制定し、平城京遷都事業中に越後国に隣接するエミシの地を越後国編入し、出羽郡を設置します。日本の境界線が北上を始めたのです。

 

もちろん一方的な日本への編入には抵抗も起こります。それに対し元明天皇は征夷軍を編成し、天皇大権を委譲される将軍以下、副将軍、軍監、軍曹を設置し、征夷事業を本格化させます。

 

大規模な軍事動員と大規模な土木事業は常にセットで行われます。ある程度整備ができたところで一挙に事業を動かした方が、メリハリがつくのではないでしょうか、ともあれ大規模な軍事動員と土木事業は並行して行われることがこの時代にはあります。それとともに女帝の時期に大規模な軍事動員が行われていることも興味を引きます。

 

元明天皇ももちろん政府首班の藤原不比等を筆頭にした貴族層に支えられて政治を行っています。しかし彼女が持つ天皇大権は彼女によって行使されていたはずで、元明天皇を傀儡と評価するのは違うんじゃないかな、と思います。