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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第1回「天下人と天皇」の報告

オンライン日本史講座「連続講座 中世・近世の皇位継承:天下人と天皇」が無事終了しました。前回の動画は以下にアップされております。

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「天下人と天皇」というテーマでしたが、ここでいう「天下人」はもちろん有名どころの織田信長豊臣秀吉徳川家康です。彼らと向き合った天皇正親町天皇後陽成天皇です。

 

正親町天皇に関しては、織田信長と朝廷との関係が対抗的だったのか、協調だったのか、という点で議論が分かれています。

 

譲位・勅命講和・信長の官位・改暦問題などを今回取り上げました。今回は公家衆と信長の関係については触れることができませんでしたが、この辺は何らかの機会がありましたら改めて触れたいと考えています。

 

基本的には現在の動向としては、信長は朝廷を温存し、その権威を高め、自らも利用しようとしていた、と考える見方が主流かと思います。

 

武家政権と朝廷は対抗関係にある、という見方では朝廷権威の向上は信長にとっては目の上のタンコブという感じになりましょうが、公武対抗史観を相対化して眺めてみると、朝廷の権威向上は武家政権にとっても必要であるということが言えると思います。

 

ただし今回はあまりその点は触れなかったのですが、朝廷の権威向上といってもあくまでもそれが武家にとって意味がなければなりません。武家の権威向上にプラスにならない、さらに言えば武家の秩序から逸脱するような自由は当時の朝廷には与えられていなかったし、また朝廷も自らの生きる道は武家政権の権威向上に役立てなければならない、ということは熟知していたはずです。

 

あと私の説明で注意しなければならないのは、私はしばしば「権威」という言葉で全てを説明している気になっているところがあるので、そこのところをもっと具体的に説明するようにしなければならない、と自戒しています。

 

後陽成天皇に関して、大きな問題点となっているのは、朝鮮出兵の中に如何に位置付けられていたのか、ということです。

 

豊臣秀吉が明の冊封を受け、朝貢貿易を再開しようとして明に断られる、という局面がありましたが、これについても慎重な検討が必要です、

 

分かりやすい説明だと、後陽成天皇の臣下である秀吉が後陽成天皇との主従関係を維持したまま明の皇帝の冊封を受け、日本国王になることによって朝鮮国王と秀吉をカウンターパートナーとし、明皇帝と日本天皇を互換性のあるものとして位置付けた、という見方は、後陽成を実際に明皇帝にしようとした、という秀吉の世界征服構想に合致するものではありますが、冊封を受け、勘合貿易の再開を求めた時の秀吉はそのことの持つ意味を知らずにはしゃいでいた可能性も当然あるわけです。

 

そもそも文禄の役の講和交渉は両者ともにギリギリのハードな交渉を続けてきたわけであって、両者の言い分を精密な寄木細工のように組み合わせてできた、複雑なものだったわけで、単純に一つの側面からだけ見て評価するわけにも行きません。

 

もう一つ、後陽成天皇がブチギレた猪熊事件ですが、配流先を見てみると面白いことに気づきます。

 

大炊御門頼国と中御門宗信は硫黄島(現在の薩摩硫黄島、昔の鬼界ヶ島)、花山院忠長は蝦夷松前に配流になりますが、これらは当時の日本の国境付近であり、中世においては外ケ浜と鬼界ヶ島が日本の境界でしたが、外ケ浜から蝦夷地南部が和人地に編入されたくらいで、国境意識を探る上で興味深い事例とも言えそうです。

 

また首謀者の猪熊教利は朝鮮への出奔を企て、日向国に潜伏していました。朝鮮に亡命しようとしたのは、その源流をたどれば赤松満祐の弟の則繁の故事もありますので、必ずしも荒唐無稽とも言えません。日向国はかつて大覚寺義昭が潜伏したこともありますので、その辺も興味深い事例だと思います。

 

猪熊事件に現れた公家の乱脈ぶりが「禁中並公家諸法度」の制定のきっかけになるのは知られていますが、この乱脈ぶりに一番激怒したのが後陽成天皇であり、その怒りは幕府が共有するところではなかったことも事実で、後陽成のキレぶりに幕府が辟易して禁中並公家諸法度に繋がる、という見方もできるのではないか、と突拍子も無いことを思いついています。あくまでも仮説以前の思いつきです。

 

後継者問題でも幕府や朝廷を振り回した後陽成天皇は、そういう意味では朝廷にとっても幕府にとっても好ましくない天皇となっていた可能性があります。息子の後水尾天皇が父帝に「後陽成院」という追号を奉ったのも、後陽成に辟易していたからかもしれません。

 

ともあれ後陽成天皇については、豊臣秀吉徳川家康の二人の天下人との関係も興味深く、またややこしい人物でもありますので、本格的な評伝が待たれるところです。私も全力をあげて取り組んでみたい人物です。