記載されている会社名・製品名・システム名などは、各社の商標、または登録商標です。 Copyright © 2010-2018 SQUARE ENIX CO., LTD. All Rights Reserved.

室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

オンライン日本史講座5月第2回「江戸時代初期の天皇」1

昨日の動画がアップされています。

 

www.youtube.com

 

江戸時代には天皇は全く権力を失い、権威も徳川将軍家の下になってしまい、唯一の役割が徳川家の家長を征夷大将軍に任命するという、今でいうところの象徴天皇制に近いものになった、というのが多くの方々が描くイメージでしょう。

 

実は・・・

 

全く違うんです、となったら面白いのですが、あまりかけ離れていません。ただその中でも天皇には天皇なりの努力というものがあるわけです。たまに出てきて形式的な任命行為だけをして、それ以外はひたすら宮中の奥深くでお祈りをしているだけ、であれば江戸時代半ばで天皇というシステムは無くなってしまっていたのではないか、と最近考えています。天皇というシステムは関係者の弛まざる努力によって支えられてきたのであって、伝統の重みとか観念的権威とかそういうぼやっとしたものでなんとなく続いてきたものではない、と思います。

 

江戸時代最初に猪熊事件で後陽成天皇がやらかしてしまった後に皇位に就いたのは後水尾天皇です。後水尾は後陽成の意中の皇位継承者ではなかった関係上、後陽成との関係はしっくり行きません。

 

もう一つ、天皇家には障害が待ち受けていました。徳川家を天皇外戚にするという計画です。徳川秀忠の娘の和子を入内させようと目論んでいました。

 

しかしその直前に典侍の四辻与津子が懐妊します。今までならばそれは皇位継承者ができた、ということで祝福されるはずだったのです。というのは室町時代には多くは名家から天皇の生母が出ています。

 

しかし天皇の権威を完全に取り込もうとした徳川家にとって和子所生以外の皇子がいることは不都合でした。秀忠は激怒し、与津子は追放、大納言万里小路充房らは流罪となります。これをお与津御寮人事件と言います。

 

これに激怒した後水尾天皇は退位しようとしますが、使者の藤堂高虎に恫喝され、退位もできない状況においやられます。和子は入内し、やがて興子内親王、高仁親王が生まれます。これで江戸幕府と朝廷の関係は安定化すると思われました。

 

しかし高仁親王が三歳で病没すると自体は混沌としてきます。

 

紫衣事件金杯事件など後水尾にとってはストレスの溜まる事件が続く中、一線を超えた後水尾は突如興子内親王に譲位します。称徳天皇以来の女帝の登場です。

 

7歳で践祚した明正天皇は15歳で成人を迎え、摂政二条康道を関白にして復辟を行おうとしましたが、幕府はこれを拒否し、摂政が引き続き置かれることになります。

 

天皇が幼少か女帝の時は摂政、という謎ルールはこの時に作られたものです。皇極、持統、元明、元正、孝謙・称徳の時には摂政はもちろん置かれていません。推古や斉明も厩戸皇子中大兄皇子を摂政といってしまっていいのか、と思っています。