前九年の役・後三年の役の前提−戦争の日本史
昨日のオンライン日本史講座のご報告です。
予定では前九年の役と後三年の役の詳しい話をするはずだったのですが、その前提である「武士の誕生」と「北アジアの変動の中のエミシ社会」に時間を取られて源頼義の人生までいけませんでした。なので次回は源頼義と源義家、そして奥州藤原氏について見ていきます。
前九年の役のターニングポイントは藤原登任と安倍頼時の対立で、鬼切部の戦いで陸奥国の国衙軍が敗北したことに始まります。
もちろんその前提には北アジアレベルの大変動があるわけで、単に「エミシが日本に不満を持って暴れた」という単純な問題ではありません。
北緯40度以北のエミシの地ではそのころ環濠集落、防御性集落が見られます。これが実際に防御性なのかどうかということについては議論がありますが、防御性だとしたら戦争状態が出現していたと考えられますし、そうでなかったとしても何らかの大きな変動があったことは事実でしょう。
実際北海道ではアイヌ社会が大きく動き始めていました。そのころアイヌ社会は日本の土師器文化の影響を受けた擦文文化の段階に移行していました。それはエミシ社会の北海道への拡大とアイヌ社会への同化があったとされています。そしてアイヌ社会は日本海集団と太平洋集団に分化し、それまでオホーツク文化が繁栄してきた道東や道北、さらにサハリンにも居住地を広げていきます。
オホーツク海域でも大きな変動がありました。沿海州からサハリン、道北・道東と分布してきたオホーツク文化が衰退し、撤退していきます。一方、取り残されたオホーツク人はトビニタイ文化を形成しながらやがてアイヌ文化に吸収されていきます。アイヌ文化に北東北的な側面があるのはアイヌ文化が擦文文化を母体にしつつ新た文化を作り上げていったからだと言われています。
オホーツク海域における鷲の羽、貂の毛皮などは王朝貴族からも希求されるものであって、オホーツク文化は最大佐渡あたりまで交易相手を求めて来航したと言われていますが、有名なのは奥尻島に交易拠点を作ろうとして、オホーツク文化と倭・日本との中継貿易を担っていたアイヌと対立し、斉明天皇による軍事介入があった事実です。
38年戦争終結後、北緯40度ラインに設定されたエミシと日本の境目ですが、双方の交流が盛んになり、またアイヌ社会の成立の中で変動する地域秩序の動揺の結果として奥六郡の俘囚の長、エミシの有力者である安倍氏の南方への勢力拡大と国衙への抵抗が起こり、それを抑えるために軍事貴族が投入されることとなります。
軍事貴族とは有力な武士団のことですが、武士団の成立に関しては様々な説が存在し、一概には言えないのが現状です。
古くは地方の乱れによっって地方の有力者が武装し、そこに都から下ってきた貴族を棟梁として大規模化した、という「草深い農村」からの「封建領主階級」の出現という見方がされてきました。
それに対し、武士の本流は都の下級貴族である、という見方が出てきています。下級貴族で五位・六位あたりの専門的な職能を以て朝廷に仕える「士太夫層」という集団の中で武を以て仕える家を「兵の家」、軍事貴族というようになった、というものです。その軍事貴族の出自として延喜の群盗で活躍した平高望・藤原利仁、承平・天慶の乱で活躍した平貞盛・藤原秀郷・源経基の子孫が武士となる、という説明です。
その両方を見ないとだめだ、というのがハイブリッド武士論だと私は把握しています。
確かに出羽国仙北三郡の俘囚清原氏は在地のエミシと出羽国の国衙の官人として下向し、そのまま在地にいついた清原氏が結びついたハイブリッドと考えれば非常にわかりやすいです。多かれ少なかれ武士というものが地方から、都から、だけ出てきたのではなく、双方向からの動きの結果として出てきたものと言えるかもしれません。
東国には平貞盛の子孫の桓武平氏と秀郷流藤原氏が大規模に展開します。一方摂津国多田を本拠とした清和源氏は河内国・大和国にも勢力を伸ばしながら、河内源氏の源頼義が鎌倉の平直方の地盤を引き継ぐことで東国に力を伸ばしていきます。
何となく「東国の源氏」「西国の平氏」というイメージがありますが、のちの「平家」につながるのは伊勢・伊賀に展開した平氏の傍流である伊勢平氏の一流であり、また鎌倉と強く結びついたのは源義朝であって、例えば義朝の父の源為義はそれほど関東武士というイメージはありません。それから源氏と平氏がライバル関係にあった、というのも鎌倉時代の軍記物によって作り上げられたイメージなので、とりあえずこの辺では源氏と平氏の対抗図式は眉に唾をつけてよいかと思います。
清和源氏は本当にあちらこちらに勢力分布を広げています。河内源氏は河内を本拠としながら鎌倉を中心に相模国・武蔵国にも勢力圏を有しています。頼義の弟の頼清は頼義よりもかなり早くに陸奥守になりますが、信濃国に勢力を扶植し、村上氏の祖となります。
頼信の兄弟で摂津多田を継承した源頼光に始まる嫡流の摂津源氏は都の大内を守護する本流の武士団となり、頼光伝説とその子孫の源頼政伝説を生み出します。これは武士が単に目に見える敵を追い払うだけでなく、目に見えない妖怪なども追い払う存在であったことを意味します。こういう機能を辟邪といいます。
頼信のもう一人の兄の源頼親の子孫は大和に勢力を張り、大和源氏と呼ばれますが、平治の乱で信西を捕縛し、処刑した源光保は大和源氏です。ちなみに平治の乱の勃発前には摂津源氏の源頼政と大和源氏の源光保の方が河内源氏の源義朝よりも格上であったこと、そもそも源為義は源義朝が比較的若くで到達した受領にすら届かなかったことを考えるに、河内源氏が本流であったとは到底言えません。この辺はもっと注意されても良い点であると思います。大和源氏の末裔で有名なのは陸奥国の石川氏、摂津源氏の末裔では本願寺の坊官を務めた下間氏、美濃国に勢力を広げた土岐氏がいます。
頼義の子供の義家の弟の義光は甲斐国に勢力を張り、甲斐源氏となります。武田氏や南部氏がそれです。また義家の子の源義国からは新田源氏と足利源氏が出ており、後年に義家が重視されるのは足利氏が天下を取ったことと関係があると思います。
ところで何でも後花園天皇に結び付けないと気が済まない私はここで後花園天皇が伏見宮家から「十二年合戦絵」「後三年合戦絵」を借り出しているのですが、一体何を学ぼうとしたのでしょうか。足利氏の祖先を顕彰する絵巻を見て、足利氏の偉大さを天皇も学んでいたのでしょうか。