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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

最凶のヒャッハー源義親

今日のオンライン日本史講座のまとめです。

 

源義親源義家の嫡子です。対馬守だった時に九州を横行し、略奪を働いています。時に1101年のことです。大宰大弐大江匡房からの訴えで義親は隠岐国流罪となりますが、出雲国に渡り、そこで反乱を続けたため、最終的には平正盛に討ち取られてしまいます。

 

この結果河内源氏は没落し、代わりに伊勢平氏が勃興してきます。

 

しかしいろいろ不思議な点が出てきます。

 

まずこれで河内源氏は没落し、嫡子の為義は受領にもなれなかった、と言われています。しかし義親は思っているはずです。「それ、俺のせいか?」って。というのは同じく義親の息子の義信は従四位下左兵衛佐まで昇進しています。五位の検非違使で終わったのは義親の子だったからでもなく、清和源氏が没落したから、というわけでもなさそうです。話は逆で為義が受領にならなかったから没落したのです。

 

為義の長男の義朝を見ても明らかです。義朝は為義の到達しなかった受領に30半ばで到達しています。どう考えても「義親のせい」ではなさそうです。為義は自滅した、としか言いようがありません。

 

しかし義親の一件はいろいろ考えなければならない問題があります。そもそも彼はなぜ「ヒャッハー」と立ち上がったのでしょうか。謎です。

 

ちょうど鴻臚館の廃絶と12世紀におけるグローバリゼーションが関係あるのかな、という議論も出ましたが、この辺は現時点では史料的な裏付けのない思いつきレベルです。

 

もう一つ、義親の死後30年近く経って、義親のパチモンが四人も出ます。特にそのうちの二人は堂々と上京してきて「俺が義親だ」と名乗ります。それも同じ時期に二人です。で義親と義親が戦闘して義親が義親を討ち取るも義親もまた誰かわからない武装集団に暗殺されます。

 

意味がわかりません。もう少し丁寧に書きます。義親と名乗る人物が京都に現れます。そして彼は藤原忠実によって保護されます。その背景には鳥羽上皇の内意があったようです。義親の保護は鳥羽にとって白河の否定という意味を持つ、と元木泰雄氏・高橋昌明氏は説明しています。忠実及び鳥羽に保護されていた義親を鴨院義親といいます。

 


河内源氏 - 頼朝を生んだ武士本流 (中公新書)

 


増補改訂 清盛以前 (平凡社ライブラリー)

 

一方北陸からも義親と名乗る人物がやってきました。彼を大津義親と呼びます。大津義親は鴨院義親によって殺害されますが、翌月には鴨院義親も殺害されます。

 

最初に怪しまれたのは平忠盛でした。忠盛の父の正盛が義親を追討したのは前述した通りですが、これ、一部には「ほんまかいな?」と思われていました。というのは勇猛を以ってなる河内源氏の御曹司を、何やらぽっと出の伊勢平氏が討てるはずがない、というのです。八百長ではないか、とか散々な言われようで、そういう噂が出歩いているところに義親と名乗る人物がが現れては忠盛にとってはよろしくない事態です。これは討ち取るしかありません。

 

しかし犯人とされたのは美濃源氏源光信でした。光信第前で鴨院義親と大津義親の合戦が行われたのです。光信にとっては舐められた、と考えます。「舐められたら殺す。これが武士の本懐だ」というように光信は義親殺害に走った、とされています。

 

私はこの事件の黒幕ともいうべき鳥羽上皇に関心を持っています。

 

三不如意の白河法皇や「日本一の大天狗」後白河法皇に比べると影の薄い人物ですがなかなか興味深い人物でもあります。

 

例えば「天子摂関御影」のこの図を見てください。

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これ、鳥羽院の図ですが、白河院鳥羽院の最大の違いは、似絵を書かせているところです。「呪詛できるもんならしてみいや!」という気概が見えます。で彼だけこっちを向いています。他の天皇は逆向けです。

 

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これは有名な後醍醐天皇ですが、他の天皇もすべてこちらを向いています。つまり鳥羽と他の天皇が向き合っているのです。鳥羽はある時代の画期を作り出しているのです。

 

彼の最大の特徴は積極的な荘園の集積です。鳥羽の時代に集積された荘園は八条院領としてその後の王家領荘園と呼ばれる膨大な荘園群の中核をなしました。他に法金剛院領も鳥羽の集積にかかるものです。

 

白河から鳥羽の時代というのは大きく世界が変わっていく時代でもありました。

 

忠盛は鳥羽のバックアップの元、鳥羽を本所とする神埼荘の預所となり、日宋貿易に本格的に介入します。そのころ西海道の海賊の討伐に動員され、その時に捕縛した海賊を家人として組織し、瀬戸内航路を掌握しました。

 

王家領荘園を大量に抱え込んだ鳥羽はその財力を使って武士を組織し、平忠盛と清盛父子の処罰を求める比叡山の強訴を抑え込むことに成功しましたが、その時鳥羽は警備部隊の交代ごとに大規模な閲兵とパレードを行い、強訴を封じ込めました。王法が仏法を押さえ込んだのです。もはや山法師も不如意ではなくなりました。鳥羽の肖像画の存在は仏法をも凌駕した鳥羽の自身の現れだったのでしょうか。

 

この辺は私も詳しく検討したことがないのでどの程度正確かは自信がありませんが、一度考えてみようとは思っています。いつのことになるかはわかりません。