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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

白村江の戦いーオンライン日本史講座報告

今回の白村江の戦いですが、斉明天皇について少し述べておきたいと思います。

 

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斉明天皇、第35代、37代天皇です。史上初めて生前退位した天皇であり、史上初めて復位(重祚といいます)した天皇でもあります。この経歴だけでも只者ではない感が漂ってきますが、『日本書紀』を見る限りでは実権を息子の中大兄皇子に握られていて何もしなかった人っぽく描かれています。

 

諱は宝皇女または宝女王(読みはたからのひめみこ、たからのおおきみ)といいます。敏達天皇の曾孫にあたり、敏達天皇の孫で用明天皇の孫と言われる高向王と結婚し、皇子を産みますが、37歳で舒明天皇の皇后に立てられます。舒明天皇との間に中大兄皇子大海人皇子・間人皇女をもうけています。

 

この辺はいろいろいじりがいのある場所のようで、例えば高向王が蘇我入鹿だ、とか、大海人皇子新羅王族だとか、高向王と宝皇女の間に生まれた漢皇子だとか、様々な説があったりします。

 

この辺はすっ飛ばして、私が斉明天皇について一つの見方を持つようになったきっかけが粛慎征伐問題です。

 

一応北方史(北海道・北東北地域史のこと)を専攻分野としておりますので、粛慎についても関心があります。

 

粛慎とは、というだけでも色々考えがありますが、ここでは瀬川拓郎氏の『アイヌ沈黙交易』をベースに説明します。

 


アイヌの沈黙交易―― 奇習をめぐる北東アジアと日本 ―― (新典社新書61)

 

 斉明天皇は実は北方史では後花園天皇と並ぶか、後花園天皇をしのぐ人気者です。

 

日本書紀』には斉明朝に阿部引田臣比羅夫が粛慎相手に沈黙交易を試みて粛慎を最終的に殺害する、というシーンがあります。

 

沈黙交易とは、言語の通じない異民族同士が紛争を起こさないように工夫された交易形態で、両者がアプローチしやすいところ、例えば海岸で行う場合、陸上の民族が海岸に交易品をおいて、自らは姿を隠します。そこに海上からやってきた交易相手が品定めをし、気に入れば自分が適正と思う交易品を置いて海上に離脱します。一旦姿を隠していた陸上の民族は海岸に置かれた交易品を品定めして、気に入れば持ち帰り、不満であれば放置します。放置された場合は、海上の民族はその交易をチャラにするか、あるいは交易品を増加するか、選びます。

 

比羅夫は粛慎相手にこの沈黙交易を試みているわけです。

 

粛慎とは、現在の多数説では「靺鞨」と呼ばれた大陸のツングース系民族と考えられています。北海道北部からサハリンに展開したオホーツク文化も彼らの文化であると言われています。

 

オホーツク文化人は北方の大陸を向き、そのころ北海道南部に展開していた続縄文文化人(アイヌ人)は南方のヤマトやエミシとの関係を深めていました。ちなみに当時のヤマトは現在の山形県の南端部と福島県あたりまでで、それより以北はエミシと呼ばれていました。

 

斉明朝の頃にオホーツク文化人はヤマトの北部に広がる「エミシ」との関係を持とうと南下し、奥尻島に拠点を構築したようです。アイヌオホーツク文化人の利害が真正面から激突したのです。

 

渡嶋蝦夷(エミシ)と呼ばれていたアイヌ人とオホーツク人の競合はアイヌを通じて北方の産物を入手していたヤマトにとっても放置できない状況になっていました。

 

ここに斉明天皇は阿部引田臣比羅夫を派遣してオホーツク人の排除に乗り出したのです。

 

比羅夫の奮戦で無事オホーツク人は奥尻島から排除され、北方地域の秩序は回復したのです。

 

ここで気になるのが「なぜ斉明天皇はわざわざ奥尻島まで軍勢を派遣したのか」です。

 

それだけ北方産品の重要性が増していた、というのはよくわかります。ただ斉明の支配領域が室町幕府と同じくらい広がっていたら、という前提条件付きです。当時のヤマトの支配領域はせいぜい山形県南部までで、そこより北はヤマトの支配領域外です。

 

日本書紀』斉明紀には「蝦夷」を唐に献上した、という記事もありますし、須弥山を作ってその前で粛慎を饗応した、という記事もあります。

 

こういう記事を見ると斉明朝にはいわゆる「帝国」意識が醸成されているのがよくわかります。斉明朝における「帝国」意識と表裏一体をなすのが彼女による大規模土木工事の頻発です。彼女による大規模な土木工事、それも公共事業ではなく彼女の奢侈のための土木に人々の負担は増し、怨嗟の声が満ちていたことは『日本書紀』に描かれていることで、そういう役柄だったのでしょうが、外には膨張的な侵略志向、内には自らの贅沢のための民の苦痛を顧みない大規模な土木事業という取り合わせは、いかにも国を滅ぼす君主にふさわしいと言えます。

 

で、ここで疑問ですが、このような悪政を積み重ねた責任者は誰でしょうか。斉明天皇を傀儡としていた中大兄皇子でしょうか。ですが、なんかすっきりしません。中大兄皇子の裏の顔、でも筋は通りますが、当時の大王の大権を考えれば、すべてが中大兄皇子の所業と見るのも難しいと思います。

 

当時の斉明朝の機構というのは、おそらくは斉明を頂点として、彼女所生の中大兄皇子大海人皇子といった皇族が脇を固め、左大臣巨勢徳多が死去後は左右大臣を置かず、内臣として中臣鎌足がいるくらいで、彼女と彼女の皇子による政治が行われていた、と考えられます。

 

オホーツク人とアイヌ人の対立に介入するのも、百済の滅亡に際し、その復興に肩入れするのも、大規模な土木工事を行うのも、世界の中心を表象する須弥山石を立てるのも、彼女の肥大化した自意識の現れ、と考えれば万事納得がいきます。

 

その出発点が蘇我入鹿を目の前で惨殺された乙巳のクーデタではないでしょうか。これは乙巳のクーデタが斉明の指示を受けていたか否か、という問題ですが、彼女のあずかり知らぬところであったとしたら、目の前でいきなり入鹿を惨殺されれば、相当なトラウマになることは想像に難くありません。もっと言えば、彼女は生命の危機すら感じたでしょう。

 

乙巳のクーデタの首謀犯を斉明の弟の軽皇子孝徳天皇)とする説があります。仁藤敦史氏の説に従いますと、軽皇子は唐建国による国際情勢への対応として唐との連携を目指し、百済との関係に固執する蘇我入鹿や斉明に反発し、彼らを退場させ、唐に近い国家を目指そうとした、ということになります。

 


NHKさかのぼり日本史 外交篇[10]飛鳥~縄文 こうして“クニ"が生まれた なぜ、列島に「日本」という国ができたのか

 

 彼女は大王位を引き摺り下ろされ、辛うじて生命と名誉だけは守られたということになります。当然孝徳天皇への憎悪はいやが上にも増していったでしょう。

 

一方孝徳天皇は斉明の弟と言っても、敏達の曾孫であって、舒明の皇后であった斉明とは比べ物になりません。斉明が本気を出して復讐に乗り出した時、孝徳の運命は窮まったと言えるでしょう。

 

右腕の蘇我倉山田石川麻呂を失い、やがて斉明以下の大多数が飛鳥に帰還する中で難波にい続けた孝徳は憤懣の中病死します。皇子の有馬皇子は謀反の疑いをかけられ処刑されます。中大兄皇子の挑発とも蘇我赤兄の単独行動とも言われていますが、斉明が手を回している可能性はないのでしょうか。

 

そもそも有馬皇子の謀反のターゲットが中大兄皇子ではなく斉明なのは、蘇我赤兄が有馬皇子に近づくときに斉明天皇の失政をあげていることからも明らかです。

 

60代後半の高齢にも関わらず、筑紫まで行幸して百済復興に取り組んだその執念も常人離れしており、執念というよりももはや妄念と言った方が正確かもしれません。歴代の天皇で筑紫まで親征するというのは天皇史上空前絶後です。伝説上の神武天皇ですら、天皇になる前に大和に攻め入った程度です。天皇の身にありながら筑紫まで行ったのは彼女一人です。

 

斉明没後に中大兄皇子が大王位に就任しないまま政務を掌握する称制という形で白村江の戦いに突入しますが、完敗します。

 

白村江の戦いは中学入試受験指導でも頻出問題としてしっかり教えます。しかし倉本一宏氏によれば韓国では学校では教えないということで、日本側の認識と韓国・中国側の認識では大きな差があることが言われています。

 


戦争の日本古代史 好太王碑、白村江から刀伊の入寇まで (講談社現代新書)

 

当時でも唐にとっては滅びた百済の残存勢力に加担した倭のちょっとした介入でしたでしょうし、新羅にとってもノイズ程度の認識だったでしょうが、ヤマトにとっては大きな問題でした。

 

水城、近江京遷都など、唐による報復を視野に入れながら、臨戦態勢が整えられます。

 

中大兄皇子の偉いところは、この手痛い敗戦の事実を直視し、受け入れ、バネにして新たな体制を作り上げていったことでしょう。眼前の敗北の事実から目を背け、内向きに勝利宣言を繰り返していたのでは、中大兄皇子の代でヤマトは自壊し、日本列島の歴史は大きく変わっていたかもしれません。