関東下知状(『朽木家古文書』422 国立公文書館)
古文書入門です。
関東下知状です。文末が「下知件の如し」という書止文言があるためにこの名があります。判決(裁許)を伝えるための文書なので『史料纂集 朽木文書』では「関東裁許状」と名前が付けられていました。
とりあえずは写真です。
翻刻です。
右、就訴陳状、欲有其沙汰之處、如有政去年十二月廿六
日避状者、任女子等所帯譲状、可去与云々、爰如氏女所進建
長六年八月廿四日・文永八年九月十日譲状者、石坂郷内恵
加佐次郎在家・同田壹町五段・右衛門太郎在家・同田壹町云々、
者、任彼状、向後無違乱可令領知之状、依鎌倉殿仰、下知如件
建治三年正月 日
武蔵守平朝臣
相摸守平朝臣(花押)
読み下しです。
駿河彦四郎有政と姉平氏〈弥鶴と号す〉、亡父時賢の遺領武蔵国比企郡南方石坂郷内の田・在家の相論の事
右、訴陳状に就いて、其の沙汰有らんと欲すの處、有政の去年十二月廿六日の避状のごとくんば、女子等所帯の譲状に任せ、去り与うべしと云々、爰に氏女の進める所の建長六年八月廿四日・文永八年九月十日の譲状の如くんば、石坂郷内の恵加佐次郎の在家・同じく田壹町五段・右衛門太郎の在家・同じく田壹町と云々、てえれば、彼状に任せ、向後違乱無く領知せしむべきの状、鎌倉殿の仰せに依って、下知件の如し
文中の語句の解説をいくつかしておきます。
「避状」(さりじょう)というのは土地の権利を放棄するための文書です。有政は土地の権利を放棄した「避状」を出している、と姉は主張しています。その主張の通りに彼女の権利を認めた判決です。
下知状の特徴は「依鎌倉殿仰」という奉書文言が付いており、一応土地の判決を出す主体は名目上は将軍であったことがわかります。ちなみに当時の将軍は源惟康です。惟康は六代将軍だった宗尊親王の子ですが、3歳で征夷大将軍に任ぜられ、やがて源の姓を賜り、臣籍に下っています。
この文書の興味深い点は、「武蔵守平朝臣」の下に花押がないことです。「武蔵守平朝臣」は連署の北条義政です。彼は北条氏一門の重鎮の極楽寺殿北条重時の子で、このころは連署を務めていましたが、病がちとなり花押を据えなくなります。この年の四月には連署を辞任し、信州の善光寺に出奔、出家します。そして所領の塩田平に隠遁します。塩田平が「信州の鎌倉」と呼ばれるのは義政のおかげです。
義政が連署を辞任し、塩田平に隠遁した理由はいろいろ言われていますが、彼が安達泰盛に近い政治的立場であったこと、元の使者の杜世忠らの処刑に反対したこと、彼が北条時宗と厳しく対立していたことなどが明らかになっています。彼が時宗に排除されたことは間違いがなさそうです。義政の排除後しばらくは時宗は連署を置かず、執権単独で幕政を主導することになります。連署は6年間空位の後、義政の庶兄の業時が就任します。