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室町・戦国時代の歴史・古文書講座

歴史学研究者、古文書講師の秦野裕介がお届けする室町・戦国時代の知識です。

拙著『乱世の天皇』副読本2ー観応の擾乱

本エントリは拙著『乱世の天皇』(東京堂出版)の副読本として、歴史に詳しくない方が拙著を読むときに、あった方がいい知識を記しています。

 

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こちらと同内容です。こちらのサイトは小中学校向けに社会の情報を発信しています。場合によっては高校までカバーできるかもしれません。

 

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前回は「両統迭立」を見ました。鎌倉時代後半の天皇家が二つに分裂し、交互に天皇を出すようにした結果、後醍醐天皇が暴走して鎌倉幕府をぶっつぶした上に吉野に逃亡して南朝を作り、南北朝時代になってしまった、という話でした。

 

今回は室町幕府の内輪もめである「観応の擾乱」(かんのうのじょうらん)を見ていきます。高校生の日本史ならば出てくるレベルです。小学校ではガン無視、中学校ではもしかしたら「室町幕府では兄弟の争いが起こり」程度に流されるか、全く無視するか、のどちらかでしょう。

 

室町幕府が成立し、足利尊氏室町幕府の初代征夷大将軍になりました。1338年のことです。しかし尊氏はあまりやる気のない人物で、結局幕府の様々な政治は尊氏の弟の足利直義(あしかがただよし)が担当することになりました。直義は有能でやる気がある人物だったので、室町幕府は安定し始めるかに見えました。

 

足利尊氏の執事に高師直(こうのもろなお)という人物がいます。師直は南朝との戦いで力を伸ばしていきました。やがて直義と師直は対立し始め、ついに直義は師直を排除しようと動きます。


しかし直義の師直排除は失敗し、師直は逆に尊氏に迫って直義を追放します。そして直義の代わりに尊氏の息子の足利義詮(あしかがよしあきら)を鎌倉から呼び寄せて直義のあとを継がせます。


一方鎌倉には尊氏の三男の足利基氏(あしかがもとうじ)が新たな支配者として向かうことになりました。ただ基氏は直義の養子になっており、直義の勢力はかろうじて鎌倉に保たれることとなりました。

 

追放された直義は南朝に降伏して尊氏と戦うことになりました。すると師直に不満を持っていた大名たちが一斉に直義に味方をして尊氏と師直はぼろ負けして、直義と仲直りをすることになります。しかし師直は直義によって武庫川で殺されました。

師直を殺された尊氏・義詮と直義の関係はうまくいかず、やがて直義は京都を脱出し、鎌倉に向かいます。

 

尊氏は直義を倒すために南朝に降伏することを決め、さらに北朝を廃止することを決定しました。

 

南朝後醍醐天皇の皇子の後村上天皇になっていましたが、後村上天皇は尊氏の降伏を許し、さらに北朝の元天皇には上皇の称号を与えました。

 

尊氏は安心して鎌倉に向かいました。そして直義を破ると直義を捕まえました。捕まえられた直義はやがて死去しました。毒殺とも病死とも言われていますが、現在は病死という考えが有力です。

 

しかしこれは後村上天皇の策略でした。戦争が上手でカリスマ性のあった尊氏がいなくなったすきをねらって一気に京都に攻め込み、北朝上皇たちを無理やり連れ去ってしまいます。そして義詮は京都から命からがら逃げ出しました。

 

義詮は近江国滋賀県)で体制を立て直し、京都に攻め込んで南朝方を京都から追い出しますが、3人の上皇と皇太子の4人が連れ去られてしまいました。

 

そこで義詮は南朝が探し損ねていた皇子を天皇にします。これが後光厳天皇(ごこうごんてんのう)です。

 

しかし何の正統性もない後光厳天皇には権威がなく、北朝南朝の捕虜になっていた光厳上皇らの支持も得られませんでした。室町幕府による室町幕府のための天皇でした。

 

やがて南朝は捕虜を返してきましたが、室町幕府でも北朝でも扱いに困りました。彼らは相手にされず、光厳(こうごん)上皇はやがて丹波の山奥のお寺に引きこもり、そこで亡くなります。光明(こうみょう)上皇は関西各地のお寺参りに向かい、やがて亡くなります。

 

問題は後光厳天皇の兄の崇光(すこう)上皇でした。彼はあくまでも天皇は自分である、と言い張り、できれば自分の息子に天皇を譲れ、といいます。幕府でも扱いに困り、「天皇の位のことは天皇の思い通りにさせます」として後光厳天皇とその子孫を守ります。

 

崇光天皇とその子孫は室町幕府北朝からの嫌がらせを受け、急速に力を失っていきました。崇光天皇は結局京都から追い出され、伏見に住むことになり、その子孫は伏見宮家(ふしみのみやけ)となります。

 

南朝はその後も北朝および室町幕府と戦い続けますが、こちらも追い詰められ、1392年に当時の後亀山天皇から後小松天皇天皇の位を示す宝物である三種の神器(さんしゅのじんぎ)を引き渡し、ここに南北朝合体が成立しました。

 

次は後光厳天皇とその子孫について述べていきます。